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第208回 株式会社資生堂パーラー 代表取締役 磯田 篤氏
update 11/03/01
株式会社資生堂パーラー
磯田 篤氏
株式会社資生堂パーラー 代表取締役 磯田 篤氏
生年月日 1957年4月 北九州市出身。
プロフィール 兄弟は3歳離れた弟が一人。小学生時代、サッカーチームのキャプテンとして第一回九州大会で選手宣誓を行う。このサッカーは高校2年まで続けている。早稲田大学時代には、おなじ福岡出身の大物国会議員の秘書も経験する。卒業後、株式会社資生堂に入社し、屈指の営業成績を残す。33歳の時、社内で行われた「ジョブチャレンジ」に応募。見事、採用されイベント事業部の立ち上げに参加。のちに社内ではイベント・企画の第一人者となる。その後も要職を歴任し、2010年4月、歴史ある「資生堂パーラー」の代表取締役に就任する。
主な業態 「資生堂パーラー」「ロオジエ」「ファロ資生堂」
企業HP http://www.shiseido.co.jp/parlour/
2011年1月1日。新聞広告に資生堂の広告が掲載された。「銀座」という街にフォーカスした広告のキャッチフレーズは、「ことし、資生堂は銀座から未来をはじめます。」となっている。この新年早々の広告は、同時にリリースされた「資生堂-銀座 未来計画」のイントロダクションともなっているようだ。この壮大な計画は、2012年に創業140周年という記念の年を迎える資生堂のひとつの決意でもある。
さて、今回、ご登場いただく株式会社「資生堂パーラー」代表取締役 磯田 篤は、大学卒業後、資生堂に入社。それから30年を経て、2010年4月に「資生堂パーラー」の社長に就任。資生堂のアニバーサリーとなる140周年を資生堂が生んだ伝統的なレストランの社長として迎えようとしている。今回は、この磯田の過去を振り返ってみることにする。

サッカー少年。九州大会で、選手宣誓。

鉄鋼の街で知られる北九州市に、磯田 篤が生まれたのは1957年4月。父は、八幡製鉄(現、新日本製鐵)に勤めるサラリーマン。磯田家は、一般的なサラリーマン家庭だった。それもそうだろう。北九州市は八幡製鉄のお膝元であり、住人の大部分が八幡製鉄の社員。大半が職場も同じ。一般的という形容には事欠かなかったからだ。磯田が生まれた3年後に弟が生まれ、磯田家は4人家族となる。
ところで、磯田に「影響を受けた人物は?」と聞けば、まっさきに父を挙げるはずだ。ごくフツーのサラリーマンだったが、彼の父は好奇心旺盛だった。磯田も、あたらしもの好きというが、父もたぶん、そうだったのだろう。その性格を証明する一つにサッカーがある。野球全盛期の当時、サッカーはまだめずらしいスポーツだった。そのスポーツに目を付けた磯田の父は、地元の少年たちを集めサッカーチームを結成する。磯田も当然、チームに入れられた。
幸い、八幡製鉄には、いまのJリーグに匹敵するサッカーチームがあり、選手たちが応援に駆け付け、教えてくれた。ちょうど磯田が9歳の頃、メキシコ大会が開かれ、日本は銅メダルを獲得。そのときフィールドで戦った選手たちも、磯田たちサッカー少年を快く教えてくれた。
強くないはずはない。オリンピックで日本のサッカーが銅メダルを取ったことで、ブームが訪れた。少年たちの間でもにわかにサッカー少年が増え、磯田が6年生時には、第一回九州大会が開催されることになった。福岡県代表として選ばれたのは、磯田のチーム。キャプテン番号は磯田が付けている。「大会が福岡で開かれたこともあって、福岡県代表のうちのチームのキャプテン、つまりぼくが選手宣誓をすることになりました」。「宣誓。」。福岡の青空に磯田の声が響き渡った。

新たな何かを求め、東京へ。

サッカーにのめり込む一方で、勉学も怠らなかった。これは中学になってもかわらない。中学ではいい監督と巡り合い、サッカーを続け、こちらでも好成績を残している。「結局、サッカーは高校2年生まで続けました。でも、さすがに、すこし飽きた。あの当時、いまのJリーグ、つまりプロがあったら、どうだったんだろうと思うことはありますね。プロになれたかどうかはわかりませんが、間違いなく、もう少し続けていたでしょう」。野球と違い、当時、サッカーにはプロがなかった。磯田とおなじようにプロがないことで、サッカーから離れていってしまった少年も多いことだろう。さて、高校2年になって、サッカーをリタイアした磯田。サッカーしか知らない磯田にとって、この先、何が彼の基準になっていくのだろう。
「人とは違うこと、人がまだやっていないことをやれ」。磯田は、父からそう教えられてきた。父が、野球全盛期にサッカーを教え始めたのも、その一つと解釈できる。「人と違うこと」「人も、己も知らないこと」。未知への欲求が強まり、それが東京行きのキップを握らせることになる。目指すは「都の西北…」、早稲田大学。
大学時代の磯田にとっても「人と違うこと」「人も、己も知らないこと」が一つの指標になった。ある日、福岡出身の3人の友達で話し合った。「せっかくだから、東京でしかできないことをやろうぜ」。1人はテレビ局で、もう1人はホテルオークラでアルバイトを始めた。たしかに、その2つも東京にしかないとも言えたが、磯田はそれでは満足できなかった。「絶対、東京にしかないものって何だろうって。で、2つ思いついたんです。東京タワーと国会議事堂です」。
大学時代の4年間、磯田は早稲田大学のキャンパス以外でも、貴重な経験を積んでいる。おなじ福岡出身の大物国会議員の秘書を経験しているのである。国会議事堂が磯田の職場になる。「俗にいうカバン持ちです。カバン持ちといえば、雑用係りのように聞こえますが、先生に一番ちかいわけですから、チカラがあるんです。ぼくにはチカラがないのに、チカラがあるように扱われる。このままじゃおかしくなる、そんな気持ちになったこともありますよね」。進路も、いくつか紹介された。頷けば間違いなく入社できただろう。だが、それではおもしろくない。自らセレクトした会社を何社か受け、そのなかから資生堂に決めた。「資生堂は、祖母が昔から愛用していたこともあり、洗練されたゆとりのようなイメージがあったんです。人がキレイになる、楽しくなる文化性にも期待していました」。

鹿児島、奈良、東京。西から駆け上がっていく。

化粧品メーカーの資生堂だが、男性社員の比率はけっして小さくない。たしかに美容部員など、女性との接し方には戸惑ったこともあるが、それにもすぐに慣れた。「最初の2年間は鹿児島支店に配属され、商品管理の仕事をしていました。こうして数千種類あるアイテムを少しずつ覚えていくんです」。だが、翌年の新人、つまり磯田にとって1年下の後輩は、この商品管理を1年で卒業する。「だから営業活動は、この後輩といっしょのスタートです。そりゃ、負けられないと思いますよね。自分のほうが1年上だし。当時はまだ、セールスコンテストがありましてね。数字もハッキリでる。負けられるかってがんばったんですが、結果、後輩は全国で2位。ぼくも14位とそれなりの結果を残したんですが、相手は2位ですからね。それで、火がつくんです。それ以来、ずっとベスト3をキープしました」。
仲間との出会い、ライバルとの出会い。そういうことが磯田を育てる。無心で臨んだライバルとの戦いを続けることで磯田の評価も上がり、注目のエリア、奈良へと異動となる。「前任者は、トップセールスマンです。どんな奴がくるんだろうって、最初から騒がれていました。もちろん比較されたこともありましたが、ぼくには、ぼくのやりかたがありますから」。この奈良でも、いい仲間、ライバルに出会えた。この奈良時代、共に汗を流した仲間の1人が先日、社長になった。株式会社資生堂の社長に、である。
さて、奈良で営業生活を送っていた磯田に転機が訪れる。「33歳の時です。社内で行われたジョブチャレンジに応募して採用されました。それで東京本社勤務となるのです。このジョブチャレンジは新規の事業を行っていくところで、ぼくはイベント事業部の立ち上げから参加しました」。これがきっかけとなり、磯田の視野が広がっていく。いままでの営業から一転、プロデュース的な役割も兼ねた幅広い仕事を任されていくようにもなった。「一流のプロデューサーと仕事をご一緒させてもらったり、文化人など、さまざまな人たちとお会いさせてもらったりと、ぼく自身の人間性も育てることができたように思います。なかなか、うまく行かずヘコんだときもありますけどね(笑)」。
イベントを通じ、「資生堂の文化」の継承や発展、またその広報などを、磯田が束ねるようになっていく。怖い者知らず。役員に対しても、物おじせずにぶつかった。資生堂のなかで「イベントなら磯田」といわれるまでになる。

資生堂パーラーを継承する。

2010年4月、磯田は53歳になった。この誕生月に一つの辞令が下った。株式会社資生堂パーラー、代表取締役への就任である。資生堂パーラーといえば、銀座の名所の一つに数え上げられる老舗のレストランである。始まりは1902年。日本で初めてソーダー水や、まだめずらしかったアイスクリームの製造と販売を行うソーダファウンテンとして誕生し、1928年から本格的にレストランを開業。西洋料理の草分け的な存在である。もちろん「銀座」のシンボルであった。この資生堂パーラーの責任者に、磯田は抜擢された。
磯田は早くもファイティングポーズである。ほかの企業に出来ない強み、「大企業の一員であること」「歴史があること」、そして「銀座」、これらを最大限に生かし、人生最大のテーマである「ストーリー」を作っていこうとしている。長期ビジョンに立った人材計画、成長戦略がいまの課題だ。
「銀座」を語るとき、資生堂パーラーは街のキーワードになってきたに違いない。また資生堂が「食の文化」を語るとき、資生堂パーラーは、その文化に対する考えかたを発信する「ステージ」となってきたことだろう。その意味では、2011年から始まった「資生堂-銀座 未来計画」の中心的な役割を担うことにもなるのではないか。
「私たちは、多くの人々との出会いを通じて、新しく、深みのある価値を発見し、美しい生活文化を創造します」。これが資生堂の企業理念。磯田は、この理念に共感する。「ぼくはあたらしモノ好きだけど、ただ、あたらしいだけじゃだめなんです。新しくて、深みがある。この深みが大事なんです」。
磯田のストーリーは、サッカーボールから始まった。「人と違うこと」「人も、己も知らないこと」。未知なるものに対する渇望が、磯田を走らせてきた気もする。だが、まだ道は続いている。その新たなドアを開けるのは、資生堂パーラーというレストランであり、資生堂の食文化を発信する役割であったりするのだろう。その未来へ、颯爽と駆け抜けていく、磯田の姿が思い浮かんだ。

思い出のアルバム
  思い出のアルバム1  
  東京銀座資生堂ビル  
   

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