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第211回 株式会社ダイヤモンドダイニング 代表取締役社長 松村厚久氏
update 11/03/29
株式会社ダイヤモンドダイニング
松村厚久氏
株式会社ダイヤモンドダイニング 代表取締役社長 松村厚久氏
生年月日 1967年3月29日、高知県高知市出身。
プロフィール 大学で上京。大学時代のアルバイトで飲食のおもしろさにハマり、起業をめざし奮闘する。卒業後、就職した会社ではボディコンナイトなどユニークなアイデアを立案。マスコミを巻き込んだ仕掛けで業績を伸ばす。同社退職後、「日焼けサロン」の経営で資金を貯め、翌年、衝撃的なエンターテインメント・レストラン「VAMPIRE CAFE」をオープン。2002年、有限会社エイアンドワイビューティサプライを株式会社ダイヤモンドダイニングに商号変更。個店主義を掲げ、標準化をめざすチェーンオペレーションに一石を投じ、新たなビジネスモデルを構築する。
企業理念 ダイヤモンドダイニングの企業理念は「お客様歓喜」。この理念のもと、コンセプト・空間・ストーリー(物語)の3つを、内装・サービス・料理など至るところに織り交ぜ、「非日常性」を具現化し、お客様に喜んでいただくことをめざしている。
企業HP http://www.diamond-dining.com/
飲食産業は、コピー産業という話を聞いたことがある。つまり真似るのが簡単ということだ。たしかに同様の店が乱立する様子を私たちは日頃から目にしている。ところが、なかには真似ることが困難な店もある。ダイヤモンドダイニングの1号店、「VAMPIRE CAFE」はその最たる例だろう。また、その後に続く「迷宮の国のアリス」「オペラハウスの魔法使い」「竹取百物語」「泡沫の恋」「三年ぶた蔵」「ベルサイユの豚」…、これらは、いずれもコピーしようとする者にため息しかつかせない。この異彩ぶりが若者を中心とした消費者から熱烈な支持を受けている最大の理由。今回は「お客様歓喜」を追求し、個性的な店づくりで株式上場まで駆け上がったダイヤモンドダイニングのカリスマ経営者、松村厚久氏にご登場いただこう。

野球のち、サッカー。

松村は1967年3月、高知県高知市出身。母は小さなストアを営み、父は零細だが町工場を経営していた。小学生の頃はとにかく野球に明け暮れた。中学進学時には、プロ野球選手をめざし、地元の強豪中学に入学する。だが、「県外から有望な選手が大量に入学。これではレギュラーになれない」と、サッカーに転向してしまう。サッカーは初めてだったが、運動神経に恵まれていたのだろう、すぐにボールを自在に操るようになる。その後は、サッカーにのめり込み、高校でもサッカー漬けの日々を送っている。3年時にはキャプテンも任された。ところで、サッカーは戦略的なスポーツだ。松村の広角的な経営戦術はサッカーによって鍛えられたふしもある。こういう小・中・高生時代を送り、松村は生まれ故郷を後にする。

サイゼリヤに学んだ大学、4年間。

高知県を後にし、日大に進学した松村は、長蛇の列をつくる人気店でアルバイトを始めた。店名は「サイゼリヤ」。そう、あのサイゼリヤがまだ誕生して間もない頃である。このサイゼリヤとの出会いが、松村の人生を決定づける。大学の4年間は、すべてこの仕事に捧げたようなものだ。だが、卒業時には、社員昇格のオファーを断っている。「サイゼリヤしか知らない人間になるのがイヤ」だったからだ。ちなみに松村が卒業したこの年、サイゼリヤは千葉県柏市に初のロードサイド店を開店し、いよいよ本格的な出店ラッシュを開始する。この時を上空から俯瞰すれば、2人の偉大な経営者が、瞬間的に交錯しているのがわかる。サイゼリヤ社長、正垣泰彦氏と、のちに「100業態100店舗」の偉業を成す、この物語の主人公でもある松村だ。さて、大学とサイゼリヤを卒業した松村は、当時、爆発的なブームを巻き起こしていた有名なディスコを経営する会社に就職した。「サイゼリヤで低価格帯の飲食店を経験してきたので、今度は、対極にある高級なエンターテインメントサービスを経験してみようと考えた」からである。

「お見合いナイト」「ボディコンナイト」。バブル崩壊。それでも夜は盛り上がる。

当時のディスコは多くの若者たちから圧倒的な支持を得た。好景気の影響もあったのだろう。徐々に敷居も高くなる。ジーパンなどラフな格好では入店できない店も現れた。カラダのラインを惜しげもなく見せるボディコンも、この当時流行ったファッションの一つである。松村が就職した会社が経営するディスコは、当時、超有名店だったこともあって、夜な夜な、満杯。入りきれない客が、続出するほどだった。だが、その栄華も徐々に衰退する。バブルが弾けると同時に客足が激減。店長まで昇格していた松村は、当時、大人気となる「お見合いナイト」や「ボディコンナイト」を企画。TV局とタイアップし「T-Back運動会」を企画したこともある。「TVを始めとしたメディアのパワーを痛感したのは、あの時」、と松村は語っている。TVで放映されると、下火になっているにも関わらず、大挙、お客様がやってきたからである。結局、6年間勤め、28歳の時に退職。そして、念願の独立開業を果たしている。

日焼けサロン。

飲食のカリスマ経営者が最初に開業したのは、おなじサービス業でも、飲食とはずいぶん毛色の異なる日焼けサロンだった。「最初はもちろん、飲食店開業の準備をしていたんです。でも、金融機関がお金を貸してくれない。ようやく親族からお金を借りて、その資金の範疇でできたのが日焼けサロンだったんです(笑)」。当時、日焼けサロンは新手のビジネスだった。松村が目をつけたのも頷ける。だが、彼の場合、漫然とこの事業を開始したのではない。「当時はどの店もホスピタリティがなく、問題の多い店ばかりでした。せっかくニーズがあるのに取り込めていない。そこに成功のチャンスがあると考え、個室化など他店とは一線を画す戦略で、日焼けサロンという業態に殴り込みをかけたのです」。この戦略がズバリ当たった。出店して2年ほど経った頃には、「顔グロ」ブームが訪れ、わずか12坪のサロンの月商が900万円にのぼることもあったそうだ。5年で、4店舗。貯金通帳には、見たことのない桁の数字が並ぶようになった。松村の時代を読み取る才能が、改めて実証されたといえるのではないだろうか。

日本に、本格的なエンターティナー・レストランが誕生。

日焼けサロンを開業して翌年。松村は、ダイヤモンドダイニングの前身となる有限会社エイアンドワイビューティサプライを起業。6年後、時代を先駆ける、そのたぐい稀な感性で「VAMPIRE CAFE」を出店する。これが2001年6月、34歳のことだ。日本に、本格的なエンターテインメント・レストランが誕生した年ともいえる。前述したように、その後も「迷宮の国のアリス」「オペラハウスの魔法使い」「竹取百物語」「泡沫の恋」「三年ぶた蔵」「ベルサイユの豚」…などを次々出店。飲食事業のカリスマ経営者として、評価されていくことになる。さて、2011年、現在、「業態日本一はほぼ達成した」と松村がいうように、ダイヤモンドダイニングは、「100業態100店舗」以上の出店している。マスコミにも何度も取り上げられ話題をさらってきた。大証ヘラクレスにも株式を上場。誰もが賞賛することだが、松村にすれば、さほど驚くことではないのかもしれない。というのも1号店出店の時から、壮大な絵巻がすでに描かれていたように思うからだ。

1号店から始まった、壮大な絵巻。

松村は1号店出店の際、銀座への出店にこだわった。理由は、「マクドナルドなど大手の飲食店やカフェショップが銀座からスタートしたから」だという。これら先輩企業と同じ位置からスタートするのは、松村にとっては必然だった。何しろ、1号店出店時から、それら先輩企業と同様、業界を塗り替える壮大な絵巻を描いていたからである。さて、記念すべき、1号店となる「VAMPIRE CAFE」について触れておこう。この業態のアイデアは、新婚旅行で行ったフロリダ州オーランドにある「世界一怖いと恐れられているお化け屋敷」で閃いたとのこと。「4人手をつながないと入れてくれないんです。それで他のご夫婦とご一緒させてもらって4人で手をつないで入場したんです。うわさ通りでした。もう、怖くて。チェーンソーを持った怪人が、ガーっとほんとに迫ってくるんですから。もう、みんな驚いちゃって」。だが、松村は逃げ出したくなる怖さのなかで、別の感慨にも耽っていた。「これほどまでディティールにこだわるものなのか。これがリアルというものなのか」「よし、徹底的に細部にまでこだわったエンターティナーなお店をつくろう。非日常性が歓喜を呼び、ストレスを解消し、また普段の生活では生まれない触れ合いを生み出し、それがやがて日常へとフィードバックされていく、そんなお店を」。「VAMPIRE CAFE」の坪数は40坪。開業資金およそ7000万円。こだわりぬいた店が出来上がった。開業当初の1ヵ月は客が入らなかったが、マスコミでの露出が始まると、すぐに予約の電話が鳴り止まなくなった。まるでダイヤモンドの原石を発見したような騒ぎだった。

松村のDNAを引き継ぐ者たち。

最後に、今後の若者に一言と、そんなお願いをしてみた。すると松村は、飲食事業が何であるかを語り始めた。「いま、おいしいものはどこにでもあるじゃないですか。デパ地下の食料品売り場はおいしい弁当で溢れているし、コンビニ弁当だって、正直、旨い。じゃぁ、飲食店にわざわざ来られる理由は何なのか。私は、それこそ非日常の世界を求めてだと思うんです。だから、笑ってもらっていくらの世界、楽しんでもらっていくらの世界といった、エンターティナーな空間が求められているのではないでしょうか。そういう時代的な視点からみれば、飲食産業に終わりはないのかもしれません。つねにどこかに新しい世界につながる突破口があり、そこにまた新しいカテゴリーやブランドが生まれていく、そういう産業だと思っています」。松村の目には、飽和状態とも言われる飲食の世界にも、まだまだ開拓の余地が映っているのだろう。この可能性を若者たちにも、体感してほしいというのが、彼からのメッセージ。まさに松村のDNAの継承ともいえる。今後、この異彩を放つ経営者は、どこに向かって進んでいくのだろうか。海外進出もその一つ。M&Aもその一つ。コラボレーションもまた一つの道である。すでに、新たな展開への布石も打ち始めている。生まれ故郷である高知県へも「観光特使」や「ふるさと納税」などできる限りの貢献を行なっている。

目を転じれば、その高知時代。小学校の通知表には、先生が代わっても毎回、「落ち着きがない」というコメントが添えられていたそうだ。「落ち着きがない」、たしかに先生は良く見ている。その落ち着きのなさが、実は、松村の最大の魅力ではないかという思いに至る。一つのことに満足せず、新たなことに目を向け走り出す少年のように純粋な経営者。こういう風に評すると怒られてしまうだろうか。いずれにしても、大胆な発想と行動で新たな扉を開いた経営者であることはたしかだ。次の展開にも期待せずにはいられない。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
高知・よさこい踊り 高知・追手前子高校・サッカー少年時代 ディスコ時代
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2
ディスコ時代 日焼けサロン時代  
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