株式会社古奈屋 代表取締役社長 戸川貞一氏 | |
生年月日 | 1940年9月3日、群馬県桐生市に生まれる。 |
プロフィール | 音楽に惹かれ、18歳で上京。縁あって音楽業界に飛び込む。スタートはバンドボーイ(有名バンド)。ドラマー志望だったが、自分に才能がないことに気付き、1年で辞めマネージャーのアシスタントを経てマネージャーを4年ほど経験。その後一旦桐生に戻り、桐生を中心に周辺都市において、音楽の自主興行を手がける。ちょうどその頃グループサウンズ・ブームの火付け役で、当時大人気だったザ・スパイダースのリーダーで社長でもあった田辺昭知さんから声をかけて頂き、ザ・スパイダースの営業担当マネージャーとなる。スパイダース解散後は、独立し株式会社イーグルプロモーション設立。堺正章、井上順の営業スケジュールを担当する(コンサートの営業権)。40歳で芸能界を引退。42歳で「古奈屋」を創業する。 |
主な業態 | カレーうどん「古奈屋」 |
企業HP | http://www.konaya.ne.jp/ |
1940年、群馬県、桐生市に生まれる。当時、桐生は西の西陣、東の桐生といわれるほど織物が盛んな地域だった。その桐生で、戸川の父は、友禅加工場を営んでいた。「それは、腕の良い友禅職人でした。ぼくは9人兄弟の5男坊です。姉が2人いました。けっして裕福とはいえませんが、これだけの家族を養っていたのですから、事業も順調だったに違いありません」。ところが、戸川が10歳の頃、父が他界してしまう。父から教えを受けた長男が跡を継ぐが、1年後、不慮の事故で他界してしまった。「父も、おっきい兄ちゃん(長男)も、ぼくをかわいがってくれました。怖い父でしたがなぜか、ぼくにはやさしい父の思い出がたくさん残っています。バイオリンを持って、二人で川辺に行って、父はバイオリンを演奏し、その間、ぼくは石投げで水切りをして遊んでいました。おっきい兄ちゃんは、おっきい兄ちゃんで、ある朝、目が覚めたら革のグローブが枕もとにおいてあった。ぼくが、野球大好きなことを知っていましたからね」。2人の大黒柱をなくした戸川家だが、スグ上の双子の兄たちが、ウイスキーボンボンの製造を始め、なんとか路頭に迷わずに済んだ。
一方、戸川は、野球に漬けの少年時代を送っている。ただ、好き嫌いがおおいのが原因なのだろうか、からだが強くなく、結局、中学までつづけた野球を断念しなければならなくなった。野球が好きで、授業を抜け出してまで、試合を見に行ったほどだから、ずいぶん、辛い選択だっただろう。「当時は、テレビもなくてね。だから、ラジオにかじりついて野球の放送を聞いていた。そのラジオからエルビス・プレスリーの歌が聴こえてきたんだ」。少年の、研ぎ澄まされた感性に、プレスリーの歌が衝撃を与えた。もともと、子どもの頃から大人びたところもあった。いまとは時代背景が異なる、この時代に、戸川は新たな時代の風を音楽を通して感じとっていたのではないだろうか。興味の対象が、野球から音楽に置き換わる。18歳になった戸川は、音楽を求め、桐生を後にし、上京。幸運にも、バンドボーイの職を得ることになる。
戸川が始めたのは、ドリフターズのバンドボーイだった。志望はドラマー。私たちが知っているドリフターズの前身で、故井上ひろし、坂本九の2人を看板にしたロックウエスタンバンド。時期は、日本の音楽業界の黎明期。ウエスタンカーニバルに人が集まり、ロカビリーに日本の若者が酔いしれた時代でもある。「おもしろくて、しかたなかった。だけど、ぼくは先天的に音痴だったんだろうね。徐々にマネージャーという仕事に興味を持ち始めたんだ。それで結局、バンドボーイは1年で辞め、マネージャーの仕事にのめり込んでいくことになるんです」。マネージャーのアシスタントからマネージャーを4年経験し、いったん桐生に戻る。これがまた幸いし、桐生を中心に行われる音楽の興行をプロデュースするようになる。ちょうどその頃人気絶頂だったスパイダースの講演を前橋、桐生、足利の3都市で計画し実行、大成功を収めた。このことがきっかけで、もともと戸川のバンドボーイからマネージャー時代を良く知っていたスパイダースのリーダー兼プロダクション社長の田辺昭知氏に声をかけてもらい、ふたたび東京へ。スパイダースの営業担当マネージャーとなる。
「当時は、グループサウンズ、花盛りでした。スパイダースはもちろん、ブルコメ、タイガース、テンプターズといったようなグループが、生まれていくんです。だが、その流れは、それほど長く続かなかった。結成したグループが、ヒットしていても解散していくんです。スパイダースも例外ではありません。スパイダースが解散したときに、私は、これも、一つのきっかけだと思って、29歳の時に、株式会社イーグルプロモーションを設立しました。田辺昭知さんのおかげで、堺正章、井上順の営業スケジュール(いま風にいえば、コンサートの営業権)を担当させていただくことができました」。それからの、およそ10年間は、青年、戸川にとって絶頂期だった。
戸川40歳。突然芸能界をリタイヤし、以前からやりたいと願っていた飲食業の世界へ。43歳になった戸川は、とげぬき地蔵で有名な巣鴨で、「古奈屋」を開業することになるのだが、それをきっかけに、いままでとは異なる、波瀾万丈の人生が幕を開けることになる。「もともと桐生はうどんのメッカでしてね。ぼくの母親も、家でうどんを打っていた。ぼくら子どもたちも良く手伝っていました。そういうこともあって、手打ちうどん屋を始めることにしたんです」。当初から自信があったのだろう。将来のことを見越して、どこにもない味と、どこにもない屋号にこだわり、「古奈屋」と名付けた。舌にも自信があった。幼い頃から味覚には敏感だった。そんな自負もあったからだ。だが、自信を持ってリリースした「古奈屋」は、閑古鳥が鳴く毎日だった。
「蓄えていた資産は、株式投資でなくしました。それで、真剣になった43歳になって『古奈屋』を開業することになるんですが、まるで、繁盛しなかった。絶対、いけるという自信はあったんですが、1日の売り上げは2万円、いい時で4〜5万円です。残っていたお金も、瞬く間に底をつきました。極貧です。3枚1000円のTシャツ、10足20足束ねた安い靴下。それさえ破けないように注意しました。でも、ぼくはめげなかった」。戸川がめげなかったというように、どん底の生活を送りながらも、戸川の情熱はけっして萎えなかった。もともと10数種類あったメニューの中から古奈屋の看板メニューに選んだ(いつか看板スターに)カレーうどん。研究に、研究を重ねた。戸川は素人だから、つくれた味だと言っているが、まさにその通り。おいしいものをだせば、必ずお客様が来てくれる、という単純な発想のみを頼りに、カレーうどんと格闘していくのである。「夜、厨房でカレールーを仕込み中、カレールーをかき混ぜながら、思わず俺も頑張ってるんだから、お前も頑張れよっ、てね」。まるで、一人のタレントを育てるように、いつくしみながら、戸川オリジナルのカレーうどんをつくり上げていくのである。
「結局、いまの味になるまでは、4年かかりました。売上は停滞したままでしたが、けっして素材のランクを落としたことはありません」。最高の逸品。最高のタレント。そのためには一切の妥協を戸川は許さなかったことになる。しかも、その間、4年。気の遠くなるほどの時間、出口がみえないまま過ごしていくのである。この4年間が、あの戸川オリジナルのカレーうどんの孤高の味をつくりだしたことになる。だが、味が完成してもすぐにブレイクしたわけではない。それから6年、苦しい時を経てオープンから10年目にして、やっと古奈屋は、脚光を浴びることになる。それは、一人の評論家が書いてくれた記事のおかげでもあった。彼は、「これは、新しいパスタの誕生だ」と絶賛してくれた。彼の名は山本益博。そう有名な料理評論家の一人である。これをきっかけに古奈屋は不動の地位を確立していくことになる。
さて、余談を一つ。堺正章氏が出演している人気番組「チューボーですよ」の一つのコーナーに「街の巨匠」がある。文字通り、街の巨匠を紹介し、巨匠に匠のわざを教えてもらうというコーナーである。番組収録のため、堺氏は、そのビデオをいつもと同じ真剣なまなざしで観ていた。その堺氏が、思わず声を上げた。「これ、戸川君じゃないの」。戸川は、芸能界を去った後、堺氏とは連絡を取っていなかった。むろん、関係がこじれたわけではなかった。堺氏に声をかければ、喜んで店にも来てくれただろう。そうすれば、話題にもなったはずだ。だが、戸川は一切、ツテには、頼らなかった。これが戸川の覚悟である。このオンエア後、ふたたび堺氏との付き合いが生まれたことはいうまでもない。「うどんにも、人を幸せにする、ちからがある」。メニューの片隅。ロゴのうえに小さく添えられた言葉だ。この言葉を堺氏が目にしたとすれば、それが何を意味するものかをはっきりと理解したはず。私たちもまた、この意味をひも解くことができたとき、戸川が精魂をつぎ込み生み出した戸川オリジナルのカレーうどんの味を、ますます好きになるに違いない。
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