株式会社すずや 代表取締役社長 蟹江脩礼氏 | |
生年月日 | 1975年7月12日 |
プロフィール | 東京都世田谷区二子玉川に生まれる。小学校からスポーツ少年団に所属。父が運営する少林寺拳法の道場にも通っていた。高校時代に始めた配管工のアルバイトで、職人の世界に憧れ、大学に進学せず、その道に入る。21歳の時にいったん父の跡を継ぐべく、父の会社に入社するが、両親が離婚したことを機に、独立。挙手空拳で、母と妹、料理職人を加えた4人で、1999年、「すずや」を開業。その後、順調に出店を重ね、2011年現在、都内1店舗、神奈川県に3店舗を出店。「家族で過ごすことが何より好き」という、3人の子どもを持つ、良きパパでもある。 |
主な業態 | 「すずや」「鈴や」「すず家」「朝市酒場」 |
企業HP | http://www.suzuya-group.com/ |
今回、ご登場いただいたのは、居酒屋「すずや」などを展開する若手経営者の一人、蟹江脩礼である。蟹江を語るためには、まず彼の父のことを話さなければならない。父であり、師でもある父のことから話そう。蟹江の父は、曾祖父の代から続く「機械部品メーカー」の経営者の一人という顔を持つが、かつてグループサウンズが盛んだった頃には、プロのミュージシャンとして活躍、TVにも出演したことがあるそうだ。少林寺拳法も極めている。道場を運営するほどの達人だったとのこと。蟹江にとっては、厳格な父で、「父のいうことには逆らえなかった」そうだ。蟹江家は、両親と蟹江と妹の4人家族。この多才で、厳格な父を中心に家族の生活は回っていた。「父は食べることも好きだったのでしょう。良く家族でごはんを食べに出かけることもありましたし、ぼくが小学6年生の頃には、家族でハワイに行ったこともあります。父に勧められスポーツ少年団に入り、もちろん少林寺も始めました」。蟹江にとって父はもっとも影響を受けた一人である。その一方で、父は、越えなければならない壁でもあった。はたして、彼は、父を超えられるのだろうか。
中学生になると、反骨心が芽生えてきた。ご多分に漏れず、不良仲間と遊び始める。「少林寺を習っていたわけですから、人をいじめたりすることはありませんでした。心のどこかで、父に逆らっていたのかもしれません。外では怖いものはなかったけれど、父の前に出ると何もできない。『おれの前でできないことをするな』と叱られました」。とはいえ、親子の関係が断絶することはもちろんない。高校に入ると、父は、息子を趣味のバンドのメンバーに入れた。「キーボードが足りないからおまえがやれ」と。蟹江は健気に、ヤマハの音楽教室に通い始めた。プロのミュージシャンは辞めたが、父はバンドを趣味で続けていたそうだ。ところで、蟹江家には、父の性格も手伝ってか、多くの来客があった。バンド仲間たちも、そう。むろん、父が経営する会社の社員たちとも交流があっただろう。そういう人たちと接することで、蟹江の社交性が育っていったのではないだろうか。
蟹江に人生のターニングポイントは? と尋ねると、高校時代のアルバイトだと答えてくれた。「高校2年生の時に、友人に誘われたんです。友人の父親が経営する会社で配管の工事をしました。1日やれば8000円です。高2ですから、バイトのなかでも飛び抜けて高かった。それで、『凄く儲かる仕事なんだ』と興味が湧くんです。ぼくら以外はもちろん職人たち。彼らが、コンクリートやアスファルトを壊して穴をあけていく。その様子がとってもカッコ良かった。俺もこんな仕事がしたいと思うようになったんです」。「だから、大学進学には見向きもしなくなります。早く、社会に出て先輩たちのようにカッコ良くはたらき、稼ぎたいと思ったんです」。大学に進学せず、高校を卒業してすぐに東京ガスの配管工事の仕事に就いたのは、こうした理由からである。「就職したのは、従業員200人の会社でした。7〜8人からなる部署に配属されました。人数は少ないものの、ベテランもいるなかで、1年後には部署でトップクラスの技術を持つ程度になっていました。19歳とか、20歳ですよね。そんな若造でも月給は40万円程度ありました」。やればやっただけ収入になる。蟹江はますます仕事に惹かれていく。「ナンバー2の技術を持つようになってからは、60〜70万円の報酬を受け取るようになりました。ただ、残念ながら、貯蓄にはまったく関心がなかったので、すべて使っちゃいました(笑)」。職人の世界で、一流になる。一つの目標が果たせたのかもしれない。21歳の時、父に呼ばれる。「そろそろ戻って、会社を手伝え」。
もともとこの父の会社は、父の兄が社長だったが、「戻れ」と言われた時には、兄に代わって父が社長になっていた。蟹江が入社したということは、跡取り、つまり5代目の社長になることが、約束されたようなものだった。21歳の青年にとって、その将来の椅子はどのように映っていたのだろう。どのように思っていたにしろ結局、蟹江が父の跡を継ぎ、社長の椅子に座ることはなかった。「入社して1年半が経った頃、両親が離婚するんです。それで、ぼくたち兄弟は母についていくことにしました。もちろんスグに会社を辞めるわけにはいきません。それで、半年ほど続けました。その間は、母がしたいと言っている飲食店を出店するため、仕事が終わった後、飲食店ではたらき、勉強するようになります」。父が社長になったのちは、いずれ父の跡を継ぐかもと思っていたかもしれない。起業を目指したこともあるだろう。だが、居酒屋を経営するとは思ったことがなかった。配管工に戻る手もあったのではと、質問を続けた。すると、「母が、第二の人生をあゆみたいと。小料理屋のようなお店をやりたがったんです」。結局、蟹江は23歳で父の会社を退職。その後、母と妹、それと料理職人を加え、4人で居酒屋を開業。まさに第二の人生を、それぞれの思いを抱きながらあゆみ始めることになった。1999年4月、14坪、27席、溝の口店に「すずや本店」オープン。2001年2月「鈴や武蔵中原店」オープン。翌2002年3月には「すずや本店」を50席に拡張。2003年には「鈴や」のフロアを70席に拡張している。順風満帆とはこのことだろう。若い経営者がぐんぐんと坂道を駆け上っていく。
本サイトのこのコーナーですでにご紹介している「株式会社 駒八 代表取締役社長 八百坂 仁氏、通称、駒八おやじ」を蟹江は、師と仰いでいる。駒八は、創業以来、すでに35年以上経つにも関わらず、いまだ出店オファーが絶えないという人気店だ。駒八おやじこと、八百坂氏は、客はもちろん、数多くの経営者たちからも慕われている人物である。「あるきっかけで知り合い、それ以来、さまざまなアドバイスをいただくようになりました。良く勉強させていただいています」とのこと。さて、蟹江の特長は、文字に落とした経営だ。「すずやの経営理念」は5項目におよぶ。1旬・食文化の継承。2.地域貢献・活性化の推進。3.顧客満足度の追及。4.本物志向。5.食の安心・安全である。経営者となり、2011年現在で12年が経つ。むろん逆境もゼロではない。だか、その年月を乗り越えてきたことで、自信もちからもみなぎっている。今後は社会貢献も、と考えているのではないか。ちなみに、すずやの思い6ヵ条なるものがある。その5に<義理と人情とやせ我慢の精神」で人間関係を築く>とある。最後の「やせ我慢」、この一言が素晴らしい。「やせ我慢」とは何か、蟹江はこう綴っている。「義理と人情を果たすために、ちょっとだけ自分を犠牲にする時の本音。相手には察しられないようにする」。そういうものが「やせ我慢だ」と。義理と人情のために、自らを少しだけ犠牲にする。それがたとえ<やせ我慢>でもいいではないか。このすがすがしい生き方。その次がある。<気合と根性の精神>。蟹江がいうと、古めかしい言葉が、新しい言葉のように聞こえる。人が好きな、そして人のちからを信じる者しか言えない一言だ。現在、蟹江は、上記、「すずや」「鈴や」のほかに、「すず家」(自由が丘)、「朝市酒場」(武蔵中原店)を経営している。
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