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第216回 友和会館株式会社 代表者 塙 良太郎氏
update 11/05/17
友和会館株式会社
塙 良太郎氏
友和会館株式会社 代表者 塙 良太郎氏
生年月日 1967年3月5日
プロフィール 千葉県千葉市中央区に生まれる。4人家族の長男。事業家でアイデアマンの父。母は、専業主婦。姉が一人いる。小・中学生時代は勉強に明け暮れる大人しく勉強熱心な少年だったが、高校生になって性格を自ら改革。慶応義塾大学に進学したのちは、サークル活動に没頭する元気で活発な青年になる。大学卒業後は大物県会議員の秘書として敏腕を振るう。だが、時はバブル崩壊の時代。父の会社が8億円の借金を抱え、破綻。飲食の事業を引き継ぎ、経営者となる。以来、20年。借金を完済したことはもちろん出店も行い、現在は、「炙りや楽蔵」「串や楽蔵」「村さ来」など6店舗を経営。いずれの店も、千葉県内にあり、地域密着の店として愛されている。なお、不動産事業も行い「ダイニング・バー」「焼肉店」「クラブ」「ラウンジ」「美容室」等、14のテナントに店舗を賃貸。一方、父が興し、いったん手放した「東原産業株式会社」を買い戻し、その経営にも努めている。
主な業態 「村さ来」「串や」「炙りや」「佳耀亭」
企業HP http://yu-u-wa.com/
今回、ご登場いただく友和会館株式会社 代表者 塙良太郎は、父から事業を引き継いだ経営者だ。ただ、2代目とは少しニュアンスが異なる。実は、塙は、友和会館以外にも東原産業という板金加工メーカーを経営しており、2つの会社の経営トップだ。東原産業株式会社は40年前、塙の父が創業した会社である。だが、30年前に、経営がとん挫。いったん人手に渡っていた。「2009年に、この会社を買い戻した」と塙。2011年の「東日本大震災」の影響で飲食事業が低迷するなか、この買い戻した会社が、今度は「収益源となり、グループを支えてくれそう」とのこと。父と息子の間で、引き継がれたものとは? 塙の過去を振り返りながら探ってみよう。

破天荒な父。その息子は、恥ずかしがり屋で、泣き虫だった。

「良く女の子と遊んでいた」。塙、小学生時代の記憶である。姉と、姉の友人のお尻を追いかけていたのだろう。「小学生の頃は、大人しく、恥ずかしがり屋で良く泣いていました。そんな泣き虫の息子を、父はたいへん可愛がってくれたんです。ただ、良く殴られもしました。たとえば『1日15分、本を読め』と言われていたんですが、できない日もあるじゃないですか。すると、『約束を守らない』とゲンコツが飛んでくるんです」。「勉強はできたほうですね。中学になって成績の順位が掲示されるようになってからは、2位に落ちたことは1度しかありません」。
スポーツも万能で、中学から始めたというバトミントンでは関東大会まで勝ち進んでいる。「ともかく父は教育も熱心でした。ちょうど『俺たちひょうきん族』という有名な番組があったんですが、私は、一度も観たことがありません。そんな時間があれば、『勉強をしろ』というわけです」。
こういう風に彼の父の話を聞いていると厳格な人をイメージしがちだが、実際は、違うようだ。「破天荒という言葉がピッタリな人でした。聞いたところでは、鉄鋼商社に勤めていたらしいんですが、インドへ行けと言われて辞め、たまたま友人から誘われた保険代理店に入り、千葉県でトップセールスマンに。その後、倉庫業などを始め、私が生まれて数年後に東原産業を興したということです。酒癖が悪く、母とは毎晩ケンカです。新たな事業にも、さんざん手を出しては失敗しました。もちろん成功したこともあって、私はお坊ちゃまのような暮らしを後々させてもらえるようになるんですが(笑)」。
そんな父は、塙にとって<怖い存在でもあり、憧れでもあった>そうだ。

父が飲食事業に進出。息子は学生店長に。

1980年後半は、日本中、金だらけだった。銭さえあれば、誰もが狂ったように投資に走った。父もまた同様だった。塙は、というと東大に毎年60名も進学する名門校に学年5位の成績で入学したが、勉強に明け暮れたのはそこまで。もともとの大人しい性格を、快活な性格に軌道修正し、その結果か、成績順位は200位くらいにまで落ち、結局、東大ではなく慶応に進んでいる。もっとも父は、<東大より、慶応>を望んでいたとのこと。「東大にいけば、息子が千葉を離れてしまいそうだから」というのが慶応を望む父の真意だった。 さて、晴れて慶応義塾大学に進んだ塙は、慶応のなかでもひと際目立つ<お嬢様、お坊ちゃま>が集うサークルに入った。父が持っていた、リビングからは2キロ先まで見渡せるという、総ヒノキ造りの別荘で過ごしたりもした。「父は浮き沈みが激しい人でしたが、このときは思いっきり浮いていた時代でしょうね。入学早々、日産のシルビアを買ってもらって乗り回していました。休日は別荘です。当時、千葉で初めて『東京モーターショー』が開催されるのですが、会場まで出掛けて行って、ショーのコンパニオンを誘って大宴会をやったこともある。振り返れば、この時代は自分でも羨ましいほど何でもできた時代でしたね(笑)」。
ただ、坊ちゃんとはいえ、遊んでばかりはいられなかった。「父が飲食店を出店したんですが、スグに怒るからスタッフが続かない。それで、白羽の矢が私に立つんです。4つの店を任され、学生なのに月に360時間は働いていました」。勉強どころではない。遊びにも、バイトにも忙しかった。それでも、バイトが忙しいのは父の店が儲かっている証拠だと、高をくくっていた。

バブルに翻弄される父。息子は県会議員の秘書に。

ある意味、共通項が多い。シルビアに乗って首都高を滑走しただろう塙と、かつてサンダーバードを乗り回していた父のことである。おなじDNAを持つ2人だが、塙には、父という教師がいた。それが、2人をわける分岐点となった気もする。
さて、大学を無事卒業した塙だったが、公認会計士をめざし、卒業後も資格取得に向け、勉強する。将来、会社を継いだ時に有利になると思ったからだ。だが、1回目の試験で断念。たまたまその時、話が舞い込み、県会議員の秘書となった。この秘書時代は、5年ほど続いた。「千葉県のことが好きでしかたら、何か役に立てればと思っていたんです」。だが、この志は思いもよらないことが原因で折れてしまう。父の会社が破綻してしまったのだ。
「いつの間にか、バブルが弾けていました。塙家の宴が終わりました。残ったのは総額8億円の借金でした」。

坊ちゃんからの転落。息子、父の尻拭いを開始する。

父から事業を引き継ぎ、最初にしたのは金融機関詣でである。何度も頭を下げ、返済の猶予を願った。会社は年間4000万円の赤字を垂れ流していた。結局、利払いだけで月360万円という莫大な借金が残った。やるしかない。「父の友人たちからも融資を受けていました。私も知っている人たちです。なんとしてでも返したかった」。だが、思いが強くとも、うまくいくとは限らない。
当時、塙はどんな気分だったのだろう?「私は25歳でした。お坊ちゃまからの転落です」。「議員の秘書になってからも週に2回は合コン。そんなことまで習慣化していました」。だが、転落。「ゴキブリになろう。泥水を啜るんだ。そんな生活をしようと、思いました」「秘書もすぐには辞められませんでした。だから昼に秘書をやり、夜、店に出て仕事をしました。1日、使うお金は数百円です」。落としてもなんとも思わなかっただろう数百円が、大事な生活費となった。この暮らしは、数年間、続く。「人生のなかで最も苦しく、だが、必要だった時期」と塙は、振り返る。
どうして、数年間、我慢できたんでしょう? と、<我慢する以外方法がない>とわかっていながら、ふたたび質問をしてみた。すると、「人が大好きだから」という答えが返ってきた。「高校時代も同じ店でバイトしていたんですが、その頃とは、気持ちも意欲も違うでしょ。するとね。常連さんたちが、『おっ、がんばっているな』、なんて声をかけてくださるんです。もう、その一言がうれしくって」。「いろいろな問題は抱えていましたが、店に出れば、忘れました。それで心を込めて一生懸命、お客様のために仕事をさせていただきました。心を込めることで初めて、仕事のたのしさがわかるんだと知ったのはその時です」。
お客様に励まされ、必死になって経営と格闘する塙に、一筋のひかりが差し始める。事態が好転する。会社の経営が上向いた。しかも、年間4000万円の赤字を垂れ流していたのが、3000万円の黒字を叩き出すようになった。負債も、法整備が進み、スムーズな返済が可能になる。2002年には、銀行が融資までしてくれるようになった。<みんなに生かされている>と塙は感じたのではないだろうか。その後も、塙が経営する店は、順調に業績を上げている。ちなみに、2011年に起こった震災後も、常連の人たちのおかげで数%の落ち込みで済んでいるそうだ。人を大事にする塙の経営方針が、苦境のときに彼を助けているかのようだ。

地域に貢献することができれば、本望。

2011年5月、現在、塙は、「炙りや楽蔵」「串や楽蔵」「村さ来」など6店舗を経営している。苦難を乗り越えた経営者の強い意志が、地域を大事にするというDNAとなって各々の店に引き継がれている。
塙は、居酒屋「甲子園」の創設メンバーに名を連ねる。一方、青年会議所にも入り、千葉県で理事長を務めたこともある。父から、会社も資産も受け継がなかったが、一つだけ譲り受けたDNAは、立派に逆境をはね返したうえに、塙をみんなから慕われる経営者に育てあげた。議員秘書になった時の、<地域に貢献しよう>という思いも、いまは飲食業という立場からカタチにしようとしている。それだけではない。
2009年、いったん手放した父の会社「東原産業」を買い戻した。「東原産業」は板金加工のメーカーだ。もともと父が経営していたとはいえ、飲食業とは事業はまるで異なる。
だが、塙には勝算があるようだ。「私は人が大好きです。そういうことが経営の根幹にある。また、飲食業を通して、その根幹があって初めて事業が成功することも体験し、その大事さを確信しました。<つくるもの>は違いますが、<誰かのために>という気持ちはおなじはずです。その意味では、飲食で培った経験やノウハウを移植することで、いままでにない経営を行っていくことができると思っているんです。小さな町工場ですが、社会貢献もちゃんとできることを、この災害でも示していけると思っています」。実際、塙が経営するようになってから、東原産業は、毎年、業績を伸ばしている。
<この街に、この店があってほんとうによかったと、すべてのお客様に言ってもらえる店づくり>をめざしているという塙は、加工メーカーの社長でもあり、現在は、二足のわらじを履いている状態だ。異なる事業のため、普通なら履きづらいわらじとなるのだろうが、塙にとっては心地よく思えてならないのではないだろうか。
なぜなら事業家であった父から受け継いだDNAが、いま改めて、開花し始めているともいえるからだ。

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