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第217回 サムライヌードル株式会社 代表取締役社長 奥村宗弘氏
update 11/05/24
サムライヌードル株式会社
奥村宗弘氏
サムライヌードル株式会社 代表取締役社長 奥村宗弘氏
生年月日 1971年8月8日
プロフィール 北海道留萌市出身。3代続く酒屋の長男。2歳の時に両親が離婚し、父に引き取られる。多忙な父に代わって祖母が育ての親となる。大人しい少年だったが、高校時代になって空手を習い始めると途端に体力と自信が付き、行動派人間に生まれ変わる。高校卒業後、建築事務所に就職したが、1年で退職。ダンプの運転手となる。ダンプを運転しながら生計を立てつつ、22歳でディスコの経営を開始。飲食人生の幕が上がる。その後、紆余曲折を経て、現在は、味噌ラーメンで有名な「真武咲弥」を札幌、渋谷に。つけ麺の「麺仙彩花」を埼玉川口に出店。テレビ東京最強ラーメン伝説第1位を獲得したほか、2009年「TOKYO一週間」ラーメン・オブ・ザ・イヤー最優秀賞を受賞。ネットでの販売も行い、「Yahoo! JAPAN 」ラーメン特集ご当地ラーメン第1位!を5ヶ月連続で獲得している。現在、最も熱いラーメン店の一つである。
主な業態 「真武 咲弥 札幌店」「真武 咲弥 渋谷店」「麺仙 彩花 川口店」
企業HP http://samurai-noodle.jp/

海パンの代わりに赤フン。父子で、赤フンで海に向かう。

赤フン、赤い褌(フンドシ)のことである。夏になると、父子は赤い褌を絞め、海に向かった。小樽と稚内のほぼ中間地点である留萌市でのこと。夏は短く、父子の楽しい時間もスグになくなった。
今回、ご登場いただく「サムライヌードル株式会社」代表取締役社長 奥村宗弘が、生まれたのは1971年。マクドナルドやケンタッキーなどが開業した翌年。経済は右肩上がりを続けていた頃である。奥村の実家は、父で3代目となる酒屋。2歳の時、両親が離婚し、奥村はこの父に引き取られることになった。
「父は、体育会系の人間で、怒ると怖い人でした。ただ、仕事に追われ、私を引き取ったものの子育ては祖母、任せ。私はおばあちゃんに育てられたようなものです」。奥村が両親の離婚を知ったのは、小学校5年生の時のこと。「それまで、母親は死んだことになっていました。仏壇にあった亡くなった叔母の写真を観て、母だと思っていましたから。突然、母がいて、姉までいることを知らされ、驚きました」と奥村。
母と姉との付き合いは、それからも続き、いまも連絡を取り合っているとのこと。小学生時代、片親ということで罵られ、イジメられていた奥村にとって、「母、姉」のいきなりの登場は、どういう意味を持つのだろう。

200回の腕立て伏せが、いじめられっ子を格闘家にかえた。

「父親の目を盗んで、財布から1000円をかっぱらってゲームセンターに行きました。不良連中とたむろします。そこでも、いじめられ役です」。たのしくて、通ったわけではないだろう。いじめられて帰ると、今度は、父親がやり返してこいという。怖くて仕返しなどできない。「頭もスポーツもダメ、細くてチビだった(笑)」と奥村。その奥村が、ガラリと変わる。「高校に入り空手を始めました。高校になると体力もそれなりについてきて、それまでできなかった腕立て伏せが、200回もできるようになるんです。それが自信になりました。私が変わったのは、自信が生まれたからでしょう」。
最初は学校の同好会だけだったが、それだけでは満足できず街の道場にも通うようになった。子どもの頃から立場も逆転。「こちらから手を出したことは一度もありませんが、向こうからちょっかいを出してきたら、ブン殴りました」。

ダンプの運ちゃん。トラックに乗ったまま起業する。

高校を卒業した奥村は、建築事務所に就職したが1年で退職。奥村の、山あり谷ありの人生の旅が始まっていく。「事務所を辞めて、ダンプの運転手になりました。2〜3年で辞め、半年間、愛知県ではたらきました。留萌に戻り、ディスコを始めたのは23歳。昼はトラックの運転手。夜はディスコの経営者です。1年で店を人に譲ったのですが、赤字にはならず、ディスコの代わりにスグにBARを立ち上げました。この時も昼は運ちゃんです(笑)」。24歳になって、スナックを開業した。1年ごとに新たな業態にチャレンジする。女の子を4人採用し、売上は月400万円にもなった。
「これから飲み屋はダメだ、ラーメンをやろう」、そう思って留萌を後にしたのは、25歳の時。「札幌に行ったのはいいんですが、ラーメン店で仕事が決まらずキャバレーに勤めながらの就カツです。3ヵ月ほどで、「すみれ」という店に入ることができました」。
起業家、奥村はラーメンのために、経営者から、一介のスタッフに戻ったことになる。ただし、まだ25歳。ゼロからでも十分やり直せる年齢である。

モンスター級の売上、ラーメンのチカラを知る。

「入社して2週間で横浜に行きました。ラーメンで起業しようとしていましたから、真剣です。横浜のラーメン博物館に店はあったのですが、店内はそれほど広くありません。それでも売上はモンスター級でした。ラーメンって凄いな、そういう気持ちは湧いてきます。その店で3年間修業したのち、深川のラーメン店でもう1年間修業しました。ところが、いよいよ独り立ちという段になって、ラーメンではなくBARをやろうと思うんです。これがいけなかった」。
「BARの売り上げは悪くなかったのですが、信頼していた従業員に裏切られてしまいました。300万円を着服したまま、姿を消しました」。人を信じるがゆえに、裏切られたときのショックは大きい。お金も、気持ちも尽きてしまった。破産宣告を受けた。前途が真っ黒になる。奥村は肩を落とし、留萌に帰った。

再起、そして海外への挑戦。

資金がない。破産宣告を受けたのち数年間は、資金を借り入れることはままならない。奥村は、ラーメン店の事業の立ち上げをサポートすることに専念した。ラーメン店の運営方法を教えた。資金がないなかで精一杯の挑戦だった。だが、逃げない勇気が、再起への道を切り開いていく。
平成16年、2004年、侍をモチーフに「サムライヌードル」を起業した。「真武咲弥」札幌店を出店する。回り道をしたぶん、この店に注がれた情熱は大きく、ラーメンファンを次々と魅了する。2010年4月には、東京に進出。「真武咲弥渋谷店」をオープン。翌2011年3月、埼玉県川口市に「麺仙彩花」をオープンさせた。見事な復活劇である。
ちなみに、<テレビ東京最強ラーメン伝説第1位>を獲得したほか、<2009年「TOKYO一週間」ラーメン・オブ・ザ・イヤー最優秀賞>を受賞する。秘伝の味噌ダレと野菜を高熱で一気に焼き上げる、これがおいしさの秘密であり、奥村が編み出した秘伝の技である。
この技をパッケージにした商品も開発。ネットでも販売を開始したところ、5ヶ月に亘って、<「Yahoo! JAPAN 」ラーメン特集ご当地ラーメン第1位!>を獲得している。現在、最も熱いラーメン店の一つと数え上げられている。
今後の展開も聞いてみた。
「いま考えているのは海外進出です。まず中国。これはもうすぐ出店という運びになります。東南アジアへの進出も検討中です。ただ、乱暴に出店すればいいとは思っていません。私の目標は、社員たちのために道を開くことです。海外に進出するのもそのためにほかなりません。一方、教育にも注力しています。その意味の目標でいえば、2000万円の年収を取れるように育てることです。1000万円までは、それほど難しくない。でも、2000万円は覚悟がないとできない。そういう覚悟も教えながら、育てていくのがこれからの私の仕事です」。
そんな社員思いの、そして力強い答えが返ってきた。奥村といっしょに海外に挑戦するもよし、本気で2000万円の年収を目指すもよし。採用枠は限られているようだが、真剣に門を叩けば、仲間入りのチャンスが与えられるかもしれない。

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