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第218回 株式会社すかいらーく 代表取締役社長 谷 真氏
update 11/05/31
株式会社すかいらーく
谷 真氏
株式会社すかいらーく 代表取締役社長 谷 真氏
生年月日 1951年12月25日
プロフィール 富山県富山市出身。小学生の頃から山登りを始める。趣味とはいえ、大学まで続け、山小屋でマネジメントの基礎を学んだという異色の経営者。母の教育方針によって、中学生になると東京で、大学に進学した姉と二人の生活を始める。関東学院大学経済学部を卒業後、すかいらーくに入社。「イエスタデイ」事業部副事業部長を皮切りに新日鉄との合弁会社ニラックス社長等要職を歴任。2008年、すかいらーく代表取締役社長に就任。顧客志向のレストラン経営に一層、拍車をかけ取り組んでいこうとしている。
主な業態 「ガスト」「バーミヤン」「夢庵」他
企業HP http://www.skylark.co.jp/

ひげの山男、誕生。

富山県富山市といえば、北は富山湾に接し、岐阜県との境には立山連峰がつづく、風光明媚な土地である。「海から新鮮な魚が採れ、山からは野菜や山菜などが採れた」と、今回ご登場いただく株式会社すかいらーく代表取締役社長 谷 真は富山市で暮らしていた子ども時代を振り返る。谷の母は富山市で、洋裁関連の女学院を経営。毎年300人もの生徒が入学するほど人気のある学校だったそうだ。両親が離婚したのは、谷がまだ7歳の頃。多忙な母に代わって祖母の手によって育てられた。父の記憶はほとんどない。「かすかに残っているのは、スポーツが得意な父だったということぐらいでしょうか」。父に似て、谷も元気なスポーツ好きな少年に育っていく。「健康優良児に選ばれた」と谷。小学校から野球を始め、その一方で、山登りを始める。大人に交じって山に入る。聳え立つ立山連峰は、谷にとって、どのような存在だったのだろうか。

姉と二人暮らし。カップラーメンが主食だった。

谷には3人の兄弟がいる。兄は幼くして他界し、姉と二人して育った。その姉が大学進学し、東京で暮らすことになった時、谷も一緒に電車に乗せられた。向かうのは東京。姉と二人の東京生活が始まった。中学生から谷は東京の学校に通っている。大学生の姉、中学生の弟。食事はどうしていたのですか? と尋ねると「料理もできないから、毎日、カップラーメン。病気になっちゃいました」、と谷は笑う。富山市で山と一緒に育った少年は、簡単には東京の生活に馴染めなかったようだ。休みの度に、富山に帰り、山に登ったのは、山好きなせいばかりではないだろう。人恋しさが、谷を山に通わせたのかもしれない。この休みごとの帰省と山登りは大学を卒業するまでつづく。「実家に戻るというより、山に戻るという感じでした」。山のなかに生活の根城があったかのように谷は、そういって笑う。

中部日本一周、3000円の旅。

谷の話を聞いていると、好奇心旺盛な少年の姿と共に、無骨で、質素な生活にも耐えられる大人びた山男をついイメージしてしまう。発想は好奇心旺盛な子どもなのだが、行動は質素で、堅実。その様子が顕著に表れているのが、高校1年生の時の、小さな冒険旅行だろう。1万円を握り締め、谷は自転車のペダルを漕ぎ出した。東京、出発。お金がなくなれば帰ればいいという軽い気持ちで。ところがいざスタートすると、少年は財布のヒモを賢く、固く締め、1ヵ月かけ東京から奈良へ(仏像を観たかった。それがこの旅の始まりだった)、その後、日本海を北上し、富山を経て東京に戻る中部日本一周の無謀な旅を完了する。使ったお金は3000円。お寺に泊めてもらって夜・朝のごはんをいただいたり、学校の保健室を借りたり。トラック運転手が泊まる安い部屋に便乗したり、知り合ったばかりの人のテントに泊まらせてもらったりしたそうだ。1ヵ月、人のぬくもりを知ることになった旅ではないだろうか。谷は、「母親からは知恵を絞って考えることを教わり、祖母からはマナーを教わった」という。まさにこの二つが活かされた旅だったような気もする。だが、人生の旅はまだまだ始まったばかり。

大学に入学し、山小屋を根城に少年は青年に育っていく。

「建築の道に進みたいと思っていました。関東学院大学に進み、理工学部に入ったのですが、理工学部では建築デザインというより、もっぱら数学との格闘です。数字が苦手でこれはいかんなと2年終了後、経済学部に転部しました。だから、結局大学には5年通っています(笑)」。通ったといっても、話を聞いていると、通ったのは山の方だった気がする。春、まだ雪が覆い、煙突だけがのぞく山小屋を長い冬の眠りから起こすのが毎年の行事になった。開山すると1日に500人もの登山客が山小屋をめざしてやってきた。「朝2時ぐらいからご飯を炊き始めるんです。そうしないと、500人分のご飯はつくれませんから。プロパンですから、青い火です。その青が、朝焼けの青に重なる。澄み切った空気を吸いながら、毎日せっせと炊くんです」「単純労働のようですが、単純なばかりではありません。たとえば気圧の低いなかでどうすれば旨い飯をはやく炊けるか、知恵も絞ります」「それだけ忙しく、工夫を重ねても、山小屋の仕事は1日18時間労働で日当1200円です(笑)。山岳隊のようなこともします。荷揚げもします。最初は、周りの人が軽々と荷揚げするのに驚き、落ち込みました。そのなかでどうすればのし上がっていけるか。腕のチカラではない、同じ屋根の下に働くチームをまとめるというもう一つ別のチカラをこの山小屋で修得できた気がします」。少年は、10数年に亘る山の生活を通し、チカラ強い青年になった。大学卒業と同時に青年は、山を下りた。

すかいらーく入社。まるで火の玉集団だった。

谷が、すかいらーくに入社するのは1977年。当時は飲食店が先を競って企業化を目指した時代である。チェーンオペレーションが盛んに叫ばれ、「出店」はすべてを解決する万能薬と信じられた時代でもあった。日本の飲食店が企業化を進めるなかで、「すかいらーく」が果たした役割は極めて大きい。ファミリーレストラン「すかいらーく」は、のちに日本中をカバーする巨大なレストランチェーンになり、いち早く株式も上場させるに至った。誰もが「すかいらーく」の後を追いかけた。「私がすかいらーくに決めたのは、他社が出店数や将来性を語るだけだったのに対して、すかいらーくだけがお客様を大事にすることが大事だと話してくれたからです。当時、社員数は300名ぐらいでした。まだ30店舗でしたが、新卒採用には当時から積極的な会社でした」。「元気があった。まるで火の玉集団です。落ちこぼれの人だって、このなかに入れば自然と前を向く、そんな組織でした。私は1年目でキッチンのチーフになりました」。順風満帆の船出。当時の組織を「マグマのようだった」とも谷は語っている。谷は、進んでマグマの勢いに飲み込まれていった。

経済が右肩上がりするなか、旺盛な食欲を満たすように外食産業は成長する。

谷は、「すかいらーく」しか知らない。生え抜き社員であり、早くから将来を嘱望された一人だ。まだマーケットが認めかねていた時代からスタートし、いまや25兆円とも言われる産業の真ん中に谷はいる。巨大なレストランチェーン「すかいらーく」を率いながらだ。ただ、まだその話をするのは早い。時計をもとに戻す。すかいらーくに入社してキッチンリーダーになった谷は、すべてのスタッフに、すべての業務が行えるオールマイティ化を打ち出し実践した。たとえアルバイトであっても人間の幅を広げて巣だってもらえるようにした。関西に初進出する際には、メンバーの一人に選ばれ、赴任した。関東とはまるで異なる習慣、文化に戸惑い、みんなのチカラで乗り越えた。「イエスタデイ」という新業態の舵取りも任された。1987年、新日鉄と共同出資で新会社、ニラックス株式会社が作られた際には、営業本部長として赴任した。ニラックスでは、すかいらーくでは経験したことのない社員食堂やテーマパークのフードコートなど大量供食オペレーションを作り上げた。幕張メッセのバンケットでは、皇族の方々をお迎えしたこともある。過労で腰がいうことを効かなくなった時も松葉づえをついて出勤した。それから、バブルが弾けた。

バブル崩壊とともに、崩壊した神話。

「出店さえすれば、すべてうまくいく」。多くの外食産業のトップたちが信じてきたチェーンオペレーションなる理論は、成功体験を重ねるなかで、こう解釈されるようになっていた。この神話もバブルと共に崩れ去った。ニラックスに在籍していた、谷は、バブルの前後をこの会社で迎えている。前半はもちろん絶好調時、料理数や時間との戦いである。後半はもちろん業績悪化・再生との戦いである。バブルは結局、経済を破壊しただけではなく、それまでのしくみを根源から破壊したようだ。「すかいらーく」も業績悪化を余儀なくされていく。出店という万能薬をいくら貼っても、業績は改善しなかった。低価格路線を進め、ガストへの業態転換を進めた。1993年には、720店舗あった、「すかいらーく」のうち420店舗をガストに転換している。たが、業績は思うように伸びなかった。ファミリーレストランの賞味期限が切れた、と陰口を叩く人もいたはずだ。そのようななか、すかいらーくは、2006年に創業家である横川家を中心としたマネジメント・バイアウト (MBO) を行い、非上場化することを発表する。

再生で、心が一つになった。

谷が、すかいらーくに戻ったのは、2007年の1月。同年、7月には、筆頭株主となったSNCインベストメントがすかいらーくを吸収合併、新生すかいらーくが誕生する。その年の10月、谷は常務執行役員第二営業本部長に就任。翌2008年8月に、代表取締役社長に就任する。再生の最後のバトンが谷に渡ったのはこの時である。それから3年が過ぎようとしている。谷の手によって、「すかいらーく」は息を吹き返した。ガスト、ジョナサン、バーミヤンなど主力店舗に加え、マーケットの変化を読み取り、専門店型新業態を立て続けに生み出し、順調に成長している。谷の経営理念も浸透してきた。採用も地域に密着したスタイルに置き換えた。経営者であった母から教わった「困難にあたっては、ありとあらゆる知恵を絞って考えること」、「最悪を想定し、最善をつくすこと」により、谷流の改革が実を結び、花を咲かせようとしている。2011年、東日本大震災が発生した際には、震災当日の夜から炊き出しを実施し、現在では毎日2000食を配布している。社内で公募したボランティアは300名に上った。正義の味方「アンパンマン」をキャラクターにしたすかいらーく。その心は、創業から変わらぬ「人のために」という思い。この思いに共感し、すかいらーくに入社した谷。34年経ったいま、今度は谷の考えが、社員たちの行動の原点となり、一度、離れ離れになった社員の心のなかに、改めて一体感を生み出している。ふたたび、強い、あの頃のすかいらーくが誕生した。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
富山の小学校に入学 自転車が好きだった東京の高校時代 立山連峰・大日小屋で(大学時代)
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5 思い出のアルバム6
母と旅先で 店長時代のサンフランシスコ研修旅行 神戸・イエスタデイ店長時代、義父と
   
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