有限会社イイコ 代表取締役社長 横山貴子氏 | |
生年月日 | 1963年9月17日 |
プロフィール | 静岡県焼津市出身。4人家族の長女。父親は銀行員、母は専業主婦だったが、父親が事業を失敗することで母も働きに出る。美大を卒業し、宝石関係の会社に就職するが、1度同業の会社に転職したのを皮切りに20代で計9回の転職を繰り返す。30歳になって起業を志すようになり、3年で500万円の資金を貯め、33歳の時に「201号室」という隠れ家的な飲食店をオープン。この店が、リピーターを集め「続201号室」「村上製作所」「中村玄」など、その後の基盤となる。店名もユニークだが、看板を一切ださないという方針も独創的。転職回数ほどではないが、店名も度々かわり、2011年5月現在「Club 小羊」「月世界」「豆種菌」「中村玄」の4店舗を運営。美容と健康をテーマに、「豆種菌」では発酵教室も運営している。 |
主な業態 | 「Club 小羊」「月世界」「豆種菌」「中村玄」 |
企業HP | http://www.e-e-co.com/ |
横山が生まれたのは1963年。彼女の父は銀行員。転勤族だった。「静岡県焼津市に生まれたのですが、2歳で大阪に引っ越しました。中学3年の時に、今度は東京へ引っ越すのですが、その間にも転校を繰り返しました(笑)」。幼稚園は2校、小学校は3校、中学校で2校といった具合だ。そんな転勤族の父が脱サラするのは彼女が高校生の頃。だが、父の起業は、失敗に終わり、その頃から母が仕事に出るようなった。転校が多かったからではないだろうが、2つ下の妹は人見知りが激しく登校拒否もするようになった。妹が苛められるたびに横山が出動した。姉妹は、まったく性格を異にしていた。姉は妹を守りながらも、転校の度に強く逞しい女性に育っていったに違いない。
「大阪にいた頃は、ずっと優等生だった」と彼女は笑う。逆にいえば、大阪を離れてからは優等生でなくなったということだろう。実は、父とも口をきかなくなった。「受験する高校も決めていたときに、『東京に行くぞ』ですからね。いまでは父を尊敬するようになりましたが、当時は母に苦労をさせていたこともあって、大嫌いになっちゃったんです」。高校卒業後、いったんお嬢様たちが通う女子短大に進学したが、違和感を覚え3ヵ月で退学。『せめて短大だけでも』という両親の言葉に従い、ならば手に職をつけようと美大に進んだ。「女子大生がブランドだった時代です。女子大生というだけで人気があり、『女子大生パブ』っていうパブまであったんです。私もブームにのり、バイトしたことがありました(笑)」。彼女はほかにも多くのバイトを経験する。その一つひとつが彼女のキャリアを形成していく。
20代で9回の転職した、と彼女。毎年、違った会社で働いた計算になる。「あれもしたい、これもしたい」とやりたいことがドンドン出てきて結局9回転職することになりました」。仕事を安易に考えていたわけではないだろう。好奇心を満たす会社に出合えなかったからともいえるし、自分に正直に生きるためリスクを顧みずチャレンジした、その回数が9回に及んだだけともいえる。いずれにしても自由奔放というのが、ぴったりの表現だろう。20代、彼女は自由奔放に生きた。
そんな彼女は30代になって、自ら起業することを思い立つ。好奇心を満たす唯一の方法に思えたからだ。だが、思いだけで独立などできるわけがない。先立つもの、そう、まずは資金である。「まず物欲を捨てた(笑)」と彼女。そして資金を貯めることに専念する。3年で〆て500万円。ふつうのOLが一念発起して貯めた額である。ただ、なにをやりたいか、というとそれがなかった。独立のためには資金がいる。そのために突っ走ってきた3年間だった。ところが、その3年間は、たぶん、あたりまえ過ぎていままで気づかなかったことを彼女に気づかせてくれることになった。「一切の物欲を絶った私ですが、ひとつ我慢できないことがあったんです。それが、美味しいものを好きな仲間と楽しむことだったんですね」。「そうか、私は、好きな人と、旨いお酒を飲んで、美味しいものを食べることが大好きなんだ」。横山は33歳になっていた。
最初のお店は当月から黒字だった、と横山はいう。「下北沢と沖縄にお店を出した頃は、半年ぐらいでジンギスカンブームが去り、売上は坂を転げ落ちるように急降下、初めて辞めようかと思ったこともありましたが、それ以降は何があってもプラス思考になりました」。転職回数とまではいわないが、彼女のお店の名前はよく変わる。そもそもネーミングが個性的だ。1号店、店名は「201号室」。文字通り、ビルの201号室にあったからだ。しかも、まさに隠れ家。「お客さま一人ひとりが、自分だけが知っていると思えるような、そんなお店なら、それだけでプレミアがつくと思ったんです」と横山。食べることが好きな彼女自身の経験から生まれた戦略である。だから、横山の店には存在をアピールするような看板もない。ただし、店名は一度聞けば、忘れられない。2号店は、「続201号室」。その後も、「村上製作所」「中村玄」などユニークな店名で、消費者に切り込んでいる。こういう店が受けるのは、日本人にもまだ豊かな感性が残っている証拠といえるのではないだろうか。ともかくリピーターが続出し、店は繁盛店になる。
「客単価5000円ぐらいだったと思います」。「201号室」の話である。「好調な出だしに満足していたのですが、最初は私を立ててくれていた料理長が、だんだん自分の手柄だと思うようになるんですね。それで互いの意見が相容れなくなってきて」。オーナーの横山がいたたまれず店を出た。365日休まず、育ててきた店だった。「あのときはヘコンだというか、辛かったですね。でも、私が抜けるほうがいいと思ったんです。お店のために」。1号店は、その料理長に任せ、横山はアルバイトにでた。負けず嫌いな横山は、アルバイトで修行しながら、料理長に負けない実力を手に入れたかったのではないだろうか。2店舗目は、横山一人で運営できるスタイルにした。店名は「続201号室」。「電車の線路を挟んで向こうとこちらにあったのですが、自分のお店なのに1号店にはなかなか寄り付けませんでした(笑)」。もちろん、この「続201号室」も人気店になっていく。
「村上製作所」「中村玄」、その後もユニークな店名が付けられた。中にはリニューアルした店もある。むろん1号店、同様、看板はない。どうして「看板」を掲げないのだろうか、不思議に思える。「私は能動という言葉が好きなんです。看板をみていらしていただくのは、お客様にとってやはり受動なんです。せっかくいらしていただくんですから、受動ではなく、能動的においでいただきたいじゃないですか」と横山は看板のない理由を明かす。この能動という二文字。考えてみれば横山自らの人生においてもキーワードといえる気がする。だれかに教わり、店を始めたわけでもない。自ら考え、足を動かした結果がいまにつながっている。独自の経営スタンスも誰かに教わったわけではないだろう。だが、そんな独学の彼女のやり方が繁盛店を作り上げていることも確かだ。飲食業はコピー産業とも言われている。だが、彼女の店はそう簡単に模倣できないはずだ。
さて、横山は現在、「Club 小羊」「月世界」「豆種菌」「中村玄」の4店舗を経営。発酵教室も運営している。月に2〜3回は雑誌の取材が入るという。特に、「豆種菌」は彼女がひとつのテーマとしている<半歩先の食探し>と<美容と健康>を合わせて具現化した店舗といえる。彼女は、この店をリリースする際、日本人の原点でもある発酵食に目をつけた。「いわゆる味噌、醤油、ぬか漬け、麹漬け、甘酒など、昔からある食、いわゆる原点はすたれないと思うのです」。すたれない日本食の原点を今風にアレンジしたのが、「豆種菌」のメインディッシュである。美味しいだけでなく、健康にも、美容にもいい。これが女性たちの気持ちをつかまえる。雑誌にも多数取り上げられている理由だろう。
とにかく負けず嫌い。2度目の転職時。ジュエリー関係の営業会社に入った。営業は成績が数字となってスグに現われる。だから、負けたくないと休日も返上して営業に没頭した。9回転職したが、受け身でしかたなく転職したことは1度もない。そんな彼女が店をつくり、人に託すことを覚えていく。看板がないもう一つの理由は、「お客様にとって、その人だけのやすらぎの場を提供すること」である。看板のない飲食店の看板は、負けん気が強く、それでいてやさしい横山の心、そのものではないかという気がする。
バブル全盛期、23歳の頃。 友人の結婚式にて。 |
独立を決心した30歳の頃。 イタリアにて。 |
会社設立時、35歳の頃。 「続201号室」にて。 |
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