株式会社北斗 代表取締役社長 加藤宏一氏 | |
生年月日 | 1955年11月 |
プロフィール | 東京都渋谷区恵比寿にある、老舗和菓子屋の長男として生まれる。カメラマンを志し、専修大学在学中からプロカメラマンのアシスタント業務に没頭するが、プロの壁は高く、断念。大学卒業後は、大手ファミリーレストランに就職。外食産業の基礎を学ぶ。26歳で父の会社に転職し、3代目の道を歩みはじめる。現在、「麺菜家 北斗 青山店」「麺菜家 北斗 銀座店」、「らあめん 北斗 新橋店」を経営。 |
主な業態 | 「麺菜家 北斗 青山店」「麺菜家 北斗 銀座店」「らあめん 北斗 新橋店」 |
1955年、恵比寿にある大正9年創業の老舗和菓子屋を営む加藤家に待望の長男が生まれた。「うえ3人が女だったこともあって、父や祖父にとって私は待望の長男でした」。少し間をあけ、次男が誕生する。祖父や祖母も入れた9人家族。戦後復興の足音が高らかに響いていた時代。この後、東京は日本の首都として急速に発展していくことになる。「祖父と祖母と一緒に暮らしていた頃は、躾にはとにかく厳しかったように思います。なにしろ、明治生まれですから、家族が揃わないと食事も絶対、始まりません。TVはご法度。食事中は笑うことも許されないんです」。「とはいえ、長男ということもあって、祖父も父も嬉しかったのでしょう。甘やかされていたのは事実です。家業は、2代目である父の代になって多角化に乗り出しデパートへ和菓子を卸すようになります。一方、昭和40年ぐらいでしょうか。道産子ラーメンなどが登場し、第一次の札幌ラーメンブームが到来。そのブームに乗って父はラーメン店を開業しました。時代が良かったのでしょう。撤退する店もありましたが、順調に出店を重ね、事業は拡大の一途。この時のラーメン店がいまの北斗の源流です」。
「金持ちのボンボンだった」と加藤はためらわず、そう表現する。もともと引っ込み思案で大人しい性格だったが、都立高校に進学してからは重石が取れたかのように活発な青年になった。「小学生になりたての頃、健康診断があったんです。そのとき着ていたのは姉のお下がりでリボンが付いたシャツやフリフリのパンツ。みんなに笑われ、泣きながら家に帰ったことがありました」。そんな少年が、渋谷や原宿をわがもの顔で闊歩する高校生になった。「私たちの頃はバイク通学がまだ許されていて、私もバイク通学をしていました。途中で海が見たくなっては、そのまま海に行くような生徒でした。もちろんみんなで遊び回っていましてね。お金がなくなると母親の財布からこっそり万札を拝借して。いま思えば、あれだけいろんなことをして、よく警察沙汰にならなかったものです笑)」。大学は専修大学に進学した。遊びは止まらない。「あの頃はジーパンも27インチの奴を履いていましてね。上の服は、今度はお下がりじゃなく、自ら買った女もの。名前はいえませんが、当時、つるんでいた仲間には、いまや誰もが知っているミュージシャンもいましたし、芸能界に入った人間もいました。私も少しばかりは名前が知られていたほうです。チャラチャラしていたといえばそうなんですが、良く言えば真剣にチャラチャラしていたんだと思います」。
尖がっていた。流行の先端を走っている、そんな気分に浸っていたのだろう。大学に進学したものの、最初の数週間で行かなくなってしまった。そんな加藤だが、一つだけ志すものがあった。カメラマン。これはホンキ。「音楽もできないし、よしカメラマンになろうと。でも、専門学校も出ていないし知識があるわけじゃない。あるカメラマンのアシスタントになるんですが、車を持ち込み、ガソリン代もこっち持ち。その車でカメラマンをロケ地まで連れていって、スケジュールを組み立てる。寝る間もない生活が始まりました。もちろん無給です。ただ、代わりに師匠であるカメラマンが手取り足取り、惜しみなくテクニックを教えてくれたんです」。3年、そんな生活が続いた。大学5年生。大学に行ったのは、5年間でわずか2ヵ月足らず。「女の子にきゃあきゃあ言われにいくようなもんでした」。だが、足元をみれば暗澹たる思いにならざるをえなかった。「ギリギリ生活できるようなカメラマンにはなれたかもしれません。でも、一流にはなれない。3年教わって、気づきました。同じものを撮っても師匠とはぜんぜん違うんです」。ツテを頼って、売り込みにいったこともある。だが、結局、相手にしてもらえなかった。プロの壁はあまりにも高い。加藤は悄然と立ち尽くすしかなかった。
5年で大学を辞めた。デニーズというファミリーレストランに就職する。「金は家からくすねりゃなんとかなる。だが、仕事はそうはいかない。もちろん長男だから継ぐという最終手段はあったんですが、アシスタントの時代にプロの仕事をみてきたことも影響したのかもしれませんが、継ぐにしても飲食のことをまったく知らないし、マネジメントといってもピンとこない。これではダメだと、当時、勢いのあったファミリーレストランに就職して勉強することにしたんです」。「当時は、成長に人材がついていかなかったのでしょう。誰でもOKだった時代です。スグに採用され、現場に出ます。ところが、ここからがキツかった。年下のガキんちょからアゴで使われ、ボロクソに言われるんです」。ストレス発散は、仕事が終わった後、みんなでバイクを転がすことぐらい。自尊心を傷つけられながらも3年間、耐え続けた。ただ、この3年で先進のオペレーションやシステムを身に付け、マニュアルに関する勉強もできた。最終的には、アシスタントマネージャーまで昇格している。
「父に、事業を継ぐことを告げました。父はボンクラな息子をどう思っていたのでしょうか。期待してくれたのか、それともただボンクラ息子の末を案じたのでしょうか。一つの店を会社の経営から切り離して、私に任せてくれたんです。誰が経営したって、まず間違いのない店です。原宿の駅前にあるラーメン店でした」。「20坪です。父はこの店を5000万円で買い取れというんです。息子のものにするためです。そうすれば一生、食べるには困らないと思っていたんでしょうね」。父の思惑が、どこにあったかは別にして加藤はこの店で経営手腕をいきなり発揮した。引き継いだ1年目で、前年対比200%を達成するのである。これが株式会社北斗のほんとの始まり。
「従業員にはとても恵まれている」と加藤は嬉しげに話す。北斗を立ち上げ、すでに28年。経営者の貫録も備わった。ただ、仲間たちと連れ立って遊び回ったこと、カメラマン時代のこと、デニーズで、アゴで使われ悔しい思いをしたことも、忘れてはいない。それらすべてを肥やしにしてきたからだ。「飲食は毎日が同じことの繰り返しなんです。なかなか成長が実感できない。でも、それだと辛いと思うんです。私は理念という言葉を掲げるのはどうかと思っていますが、ただ<昨日より今日が一歩でも半歩でも、前に進めるように>、という気持ちを大事にして社員たちと接し、指導しています。1年経ったときに振り返れば人としても成長している、そのことに気づいてもらいたいんです」。従業員たちを大事にする気持ちがそこに現れている。「人を疑わないのは恵まれて育ったからだと言われます。たしかにボンボン育ちですから、そう言われても反論できません。でも、疑うということは、逆に自分を損なうことでもあるような気がします。私のカメラマン時代もそうです。もし、師匠を疑っていたら。無給で、ガソリン代もこっち持ち。いいように使われていると思ったら、学ぶことはできませんでした」。そう言われてみれば、疑うことを知らないのは、たしかに大きな武器である。とはいえ、その武器を使う技量も必要なはずだ。この「人を疑わず、伸ばすこと」が加藤の真骨頂かもしれない。「プロにはなれなかったけれど、うちの店の写真は全部、私が撮っています」、最後に写真をみせながら、加藤は、大きく笑ってみせた。出会いも、経験も大事にする人だ。
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