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第224回 株式会社牛繁ドリームシステム 代表取締役社長 高田昌一氏
update 11/07/12
株式会社牛繁ドリームシステム
高田昌一氏
株式会社牛繁ドリームシステム 代表取締役社長 高田昌一氏
生年月日 1951年11月18日
プロフィール 東京都新宿区出身。新宿生まれの都会っ子。姉、妹に挟まれた3人兄弟の真ん中で長男。実家は八百屋を営んでおり、のちに喫茶店やバーを経営していくことになる。小学生の頃は大人しく寡黙な生徒だったが、中学になりバレーと出会ったことで人生を開花。区大会ベスト8、都大会でもベスト8になるなど好成績を残す。立教大学在学中にアメリカに旅行。ホテルのレストランで皿洗いをしながら4〜5ヵ月滞在。人生観を変える。卒業後、いったんピザハウスに就職するが、1年で退職。父の会社に入社し14年間勤務。37歳の時、父からも支援を受け「牛繁」を創立。以来、2011年現在で22年。FC店舗含め全国105店舗を展開している。
主な業態 「牛繁」
企業HP http://www.gyushige.com/

いうならば「オール3」。可もなく、不可もない目立たない少年時代。

東京都新宿区。今回ご登場いただく(株)牛繁ドリームシステムの代表取締役社長 高田昌一は、新宿生まれ。1951年、昭和26年に誕生し、戦後の東京の復興と共に育った根っからの都会っ子である。幼い頃は、遮る建物がなく、家の窓から伊勢丹のロゴマークが見えたそうだ。
高田が生まれた当時、高田家は八百屋を営んでいた。のちに喫茶店やバーなどを手広く経営するようになる両親は、商売人で商売優先。「子どもたちは、親の手にかからず勝手に育ったという感じ」といって高田は笑う。
そんな高田が、「暗くて、モヤモヤしていた」というのは小学生時代。成績で言えば、オール3。取り立てて凄いこともなかったし、その逆もない、クラスでは目立たない少年だった。

バレーボールで開花する「自信」。

「たまたま練習を観ていてやってみたくなったんです」。中学生になりバレーボールを始めたが、始めるにあたって特別の理由はなかった。夏の合宿。水も飲めない厳しい練習のなかで、少年は少しずつ自信を身につけていった。すると視界が良好になった。「膜が取れたみたいだった」と高田は表現する。キャプテンにも選出された。「進学校だったので、それほど強くなかった」というが、目黒区の大会でベスト8まで進出しているのだから、強豪といってもいいのではないだろうか。3年になれば、その強いチームをひっぱるまでになっていた。
高校へはエスカレーター方式で進学。バレー部の監督は中学時代と同じだった。都大会でベスト8。高校でも高田はキャプテンを務めている。バレーは、高田に自信を与えた。だから単に「好きなスポーツ」ではなかったはずだ。このバレーは大学2年まで続けている。

バレーと別れ、アメリカに旅立つ。

大学でもバレーボールを続けた高田だが、徐々にそれ以外にも目が向くようになる。「私と同学年はたった1人だけで、2年生の頃になると私たちより巧いのが入部してきて、これはレギュラーを取るのはむずかしいぞ、と。一方、大学になるとやりたいこともたくさん出てきて」。それで、バレー部を辞めた。高田が在籍していた立教大学のバレー部は3部に所属。強くもなく、かといってノビノビ、楽しくできなかったのも退部した理由の一つだった。
バレー部を辞め、アメリカ東海岸に向かったのは2年の夏休み。「いまのワーキングホリデーではありませんが、仕事も紹介してくれるようなツアーでした。1人で参加し、向こうではホテルのレストランで皿洗いをしました。3人ぐらい同じ、日本人がいました。フランス人などヨーロッパの人もいましたね。旅の最後に、アメリカを横断するバスに乗って西海岸をグルっと一回りしました。結局、4〜5ヵ月、滞在しました」。ホテルで勤務しながら、アメリカならではの解放感を味わった。飲食事業が楽しいとも思い始めた。父親の仕事が急におもしろく思えたのではないか。その父は八百屋からスタートし、喫茶店、バー、キャバレーなど5店舗を経営するに至っていた。

37歳で、起業する。

「起業」にいつ頃から興味を持ち始めたのだろうか。「アメリカ時代に出会った人たち、勤務先のホテルのオーナーをみて、いずれ自分もと思うようになった」と高田は語っている。「日本でのことですが、コーラを持って海に行って高速道路で売ったこともありました。やっぱり親譲りなのでしょうか。商売にどこか興味を抱いていたのでしょうね」。
アメリカから帰国した高田は、実家が経営する飲食店や居酒屋などでアルバイトを始める。卒業後は、ピザハウスの「ジロー」に就職。1年で退職し、すでに法人化していた父の会社に入社する。1973年。銀座にはすでにマクドナルドが誕生。東京も、飲食店も、生まれた当時からは様変わりしていた。
「父の会社では14年間勤めます。専務と言われましたが、正式に役員になっていたわけではありません。それで私が37歳の頃、父にもサポートしてもらって、『牛繁』を創立しました」。
37年の年を経て、父や母から受け継いだDNAが開花する。実業家、高田の誕生である。当時のコンセプトは「和牛を使った、ご馳走料理」(客単価3500〜4000円)。このコンセプトがあたり、「牛繁」は順風満帆に成長していくことになる。

焼肉オンリーで105店舗。夢は焼き肉オリンピックで金メダル。

<焼肉>競合も少なくないこの業態で「牛繁」は設立以来、順調に店舗数を伸ばしてきた。高田はホームページのあいさつでこう述べている。「私たちは、昭和63年より<お客様においしいお肉を安く食べていただき喜んでもらいたい>という創業精神のもと、国産牛を中心に肉質にこだわった<旨い焼肉>をシンプルにリーズナブルな価格で提供し続けています」。昭和63年、つまり1988年からスタートした会社は、2011年現在、すでに23期目に入る。2007年には(株)吉野家ホールディングスと業務提携を行った。だが、2011年にはこの提携を解消している。提携は解消したが、「提携した効果は順次、現れるはず」と高田。つねに前を向く強い人である。
将来の夢を聞いてみた。「焼肉のオリンピックみたいなのがあれば、日本代表として出場したいですね」とのこと。中国をはじめ、海外への進出も検討中である。「焼肉1本勝負」が基本路線。手広くさまざまな業態の店舗を出店した父とは異なるが、慎重さと大胆さは父譲り。現在、父の会社は、高田のご子息が社長に就任し、事業の舵を取っているそうだ。
国内では300店舗が当面の目標。いまのおよそ3倍だ。FC店舗にも期待している。社員独立制度も設け、2人のスタッフが独立した。「独立前から比べ、2割は売上がアップします(笑)」と高田。店ももちろん用意する。そうして独立した人たちが、この300店舗構想を支えてくれるようになればとも思っている。
焼肉一本勝負、この先の勝負にも期待したい。

思い出のアルバム
   

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