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第226回 株式会社浜倉的商店製作所 代表取締役商店製作長 浜倉好宣氏
update 11/07/19
株式会社浜倉的商店製作所
浜倉好宣氏
株式会社浜倉的商店製作所 代表取締役商店製作長 兼
株式会社浜倉総研 代表取締役 総合プロデューサー 浜倉好宣氏
生年月日 1967年6月
プロフィール 横須賀に生まれ、京都で育った。幼い頃は裕福だったが、中学2年生の時、父親の会社が倒産。高校卒業後、アルバイト時代に知り合ったとある社長に引き抜かれ社員に。18歳で京都駅にあった古びた飲食店のリニューアルを担当。はやくもプロデュース能力の片鱗をみせる。その後、持ち帰り弁当の「ほっかほっか亭」、また斬新な飲食店チェーンを経営する「フードスコープ」などを経て、独立。浜焼居酒屋の先駆けとなった魚屋再生業態「深川 山憲」、仲卸の相談から生まれた「丸富水産」など、ユニークなプロジェクトを指揮し、独創的な繁盛店を多数、リリースしている。
主なプロデュース 「恵比寿横丁」「神田ミートセンター」「有楽町産直飲食街」「魚○本店」「小澤牧場 牛〇」他
企業HP http://www.hamakura-style.com/

再生を促す魔法の杖を持った男。

始まりは、魚屋のオヤジを認めることだった。50歳を超えたが、威勢はいい。魚の見分け方もシンプルだが、素材の旨味を引き出す料理も知っている。仕入れルートももちろん知っている。これは凄いキャリアだ。まだまだ脂が乗りきった、魚屋のオヤジの再生がスタートする。これが<オヤジと娘の浜焼き酒場>というコンセプトで展開する『鱗』ブランドの始まり。「ショッピングセンターやスーパーマーケットが増えた今、昔ながらの小売店はその影響を受け、経営難で苦しんでいます。とはいえ魚屋のオヤジに代表されるように発想をチェンジすれば、いままでのキャリアを活用した新たな商売を始めることができるんです」と株式会社浜倉的商店製作所 代表取締役 商店製作長 浜倉好宣はそう語る。築40年を経過した『山下ショッピングセンター』跡地に、13業態からなる「恵比寿横丁」をリリース。この「恵比寿横丁」で一気に注目されるようになった浜倉好宣に、今回は登場いただくことにした。

ボンボンだった子どもの頃と転落後のバイト生活。

転落という言葉が正しいかどうかわからないが、客観的にいえば「転落」したことになるのだろう。浜倉の青年時代までの明と暗である。浜倉が生まれたのは1967年。戦後の復興を実現した日本が、テレビなどの家電製品を持った豊かな生活を始めようとしていた頃である。横須賀に生まれた浜倉だが、すぐに京都に引っ越した。だから、京都育ち。四人兄弟の末っ子で、両親はもちろん兄弟からも可愛がられた。浜倉が子どもの頃、父は不動産会社を経営していた。「車が5台あった」と、浜倉は裕福な子ども時代を振り返る。父は子煩悩で、子どもたちを可愛がり、毎週、外食に連れていってくれた。京都の旨い店が、浜倉の頭に刻まれる。「小学生の頃は野球少年でした。中学になると少林寺も習い始めました」。友だちがいつも周りにいて、浜倉はそのなかの中心人物だった。一つの転機が訪れたのは中学2年生の時。突然、父親の会社が倒産した。父親から影響を受け、設計の仕事などに携わりたいと思っていた頃のこと。生活はいっぺんした。だが、浜倉の話を聞いていると、それが転落というようには聞えない。苦難もちゃんと受け止められる少年にすでに育っていたのだろうか。

京都の玄関口にあるお店を18歳の少年がプロデュースする。

高校に進学した浜倉は、学校帰りに毎日、寄るところがあった。餃子の王将。「時給が良かったんです。周りの人はいかつい人もいましたが、可愛がってくれました」。王将の次には、当時、一斉を風靡したプールバーでアルバイトをした。このプールバーを経営する社長(当時34歳)が浜倉を新たなステージに連れ出すことになる。「食事に誘われたんです。京都駅のなかにある『お茶漬けととんかつ』のお店で、正直、京都駅といえば京都の顔なのに旧態依然で活気がなくて、なんだって気がしました(笑)。とても残念な気がしました」。その店がのちに、浜倉初のプロデュース店舗となる。高校を卒業後、その社長の下で仕事をするようになった浜倉は、古びた『お茶漬けととんかつ』の店を、観光客をターゲットにした<京料理をお膳ものにし1000円くらいで出す>斬新な店にリニューアルするアイデアを出した。「社長に話した翌日には、料理人と工務店の人が社長から言われたからといってやってきて、どんな店にすればいいのかを私に聞くんです」。当時、18歳。そのときの社長は、浜倉に何を見ていたのだろうか。ただ、浜倉には社長の気持ちを推し量っている余裕すらなかった。10歳以上年上の料理人たちとぶつかった。彼らと真っ向からぶつかりながら、いまのニーズにあった料理について浜倉なりの考えを主張した。真摯な人柄が、次第に頑固な料理人たちを動かしていく。そのうちに、個人的な付き合いまで深まり、彼らの推薦で当時、参加することもむずかしいとされていた「ホテル・レストランの研修会」に参加することまでできるようになった。

大阪、河内で、先輩経営者たちから「信」を得る。

浜倉が23歳といえば、バブル経済が崩壊した年だ。浜倉が勤めていた、勢いがあったはずの会社も波に飲まれ倒産した。「結婚した、その年にバブルが弾けた」と浜倉は苦笑する。転職。浜倉はそのとき、フランチャイズのシステムに興味があるのではなく、同じ看板を背負いながら、個々の考えをもつ経営者が運営している、その様々な経営者と接してみたいと考えていた。「それで当時、勢いのある『ほっかほっか亭』にスーパーバイザーとして入社したんです。24歳で入社して、25歳からは30店舗を任されるようになりました」。任されたといっても、相手はベテランの経営者たちである。最初は、誰も若造の相手をしてくれなかった。だが、浜倉が店にも入って仕事を手伝うようになると、店主たちの批判的な態度はいっぺんした。「最初は河内弁で、バンバン怒られていたんですが、気が付くとみんないい人になっていました(笑)。いったん信用したら、トコトン可愛がってくださるようになるんです」。このとき年配経営者たちと心と心で触れ合えたことが、その後、大きな意味を持つようになる。

37歳で独立。翌年「恵比寿横丁」リリース。

浜倉はさまざまな経験を積み始めた。大阪を離れ、上京もした。当時は、居酒屋が急成長した時代。カリスマ的な経営者も数多く登場した時代である。浜倉が所属した「ちゃんと」、「フードスコープ」(現在は、ダイヤモンドダイニングの傘下に入り、「シークレットテーブル」として再出発している)にも、ユニークな人材が集まった。そのなかで磨かれ、ついに独立開業を果たす。「04年、37歳の時に原点回帰だと、飽きのこない昔ながらの大衆酒場をやろうと決意していたんです」。その思いが、共感を呼びつつ、いくつかのプロジェクトにつながっていく。2008年5月には、2年の構想期間を経て、昭和の時代に栄えた「山下ショッピングセンター」跡地に「恵比寿横丁」、2010年にはJR高架下に自治体、生産者、飲食店の架け橋となる「有楽町飲食産直街」をオープンさせた。一口にオープンといっても単店ではない。居住者や地権者、近隣の方々の理解を得るのはむずかしいことだ。このとき「ほっかほっか亭」時代に、経営者たちに揉まれた経験が活きたはずだ。この「恵比寿横丁」オープンにより、浜倉は一気に注目されるようになっていく。

外食アワード2009 を受賞。

その後の浜倉は精力的にさまざまなプロジェクトを手がけている。そのあたりは、ぜひ、ホームページを参照いただきたい。この場でざっとご紹介すると、<魚屋再生から始まった浜焼酒場「鱗」ブランド><仲卸再生で始まった「丸富水産」><漁港、商工会議所等依頼から始まった「町おこし」><シャッター街化とした商店街の再生を目的とした複合業態施設の「横丁」プロジェクト><大型店舗の再生を目的とした肉屋・仲卸を集めた複合業態施設「センター」プロジェクト>である。これらの活動と功績により、2009年外食産業記者会主催『外食アワード2009 中間流通・外食支援事業者賞』を受賞している。

街と人を再生する、浜倉流再生術。

ある小説で、銀行員を始め団塊の世代の7人のスペシャリストたちが、とある商店街を再生する物語を読んだことがある。商店街の人たちをサポートする7人のプロが主人公だった。だが、同じ商店街の再生でも浜倉のケースは、少し違う気がする。「50歳を過ぎたオヤジがいた。時代にあわなくなって商売は立ち行かなくなってきたが、彼は誰にもない経験を持っている。年配の人には年配の、若い人には若い人なりの個性や人材特性がある。そういうのを大事に活かしたい」と浜倉はいう。再生するのは街だけでない。人も、また再生プランのなかに組み込まれている。つまり、浜倉の再生物語の場合は、浜倉ではなく、いったん活力を失った街や人があくまで主人公なのだ。浜倉が今後、どんな物語りをリリースしてくれるのか、消費者の一人としては気になってしかたないところだ。

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