有限会社アンティシペーション 代表取締役社長 岡田康嗣氏 | |
生年月日 | 1964年8月生まれ |
プロフィール | 東京都豊島区大塚出身。祖父の代から続く日本料理店の跡取りとして生まれる。6歳離れた姉が一人。小学生時代から将来、食べもの屋をするんだろうな、と漠然と思っていたという。とはいえ、大学卒業後はいったん不動産会社に就職。バブル経済真っ盛りのなか、不動産という時代の花形業種に席を置き、ヘリコプターでゴルフ場に行くなど当時の時代を反映するような暮らしぶりを体験する。しかし、けっしてその暮らしに酔いしれず、バブル崩壊を前に有名料理店に転職。子どもの頃から思い描いていた食べもの屋商売に主軸を動かした。 |
主な業態 | 「炭火焼肉 神戸屋」「らーめん 瞠(みはる)」「炭火串焼 ヒヨク之トリ」 |
漠然とだが、子どもの頃から将来は食べもの屋をするんだろうな、と思っていた。実家が、日本料理店を経営していたからだ。厨房に入り、遊んだ。さまざまな食材を魔法のように料理する職人たちに見惚れていたこともある。「中・高生になる頃には、天ぷらも揚げていましたし、鰻を捌いたりもしていました」と今回、ご登場いただく有限会社アンティシペーションの代表取締役社長 岡田康嗣は子ども時代を語り始める。小学校時代には剣道を習っていたものの中学になるとさほど熱心になれず、もっぱら友だちと連れ立って遊ぶようになった。親から言われていたことは、とにかく警察の厄介になるなということだけ。「勉強しろ」とも言われた記憶がない。「実家が祖父の代から続く、日本料理店だったこともあったんだと思います。祖父の武勇伝も聞かされて育ったことも影響しているのでしょう。小さな頃から事業に興味があった。だから勉強していい大学に進もうとは思わなかった。いつかオレも食べもの屋をやるんだろうな、というのが当時の漠然とした将来像でした」。「一方、将来のための勉強というわけではありませんが、中学生時代から美味しいお店に足繁く通っていました。自転車に乗って、有名な蕎麦屋さんまで足をのばしました」。グルメ少年と言えばいいのだろうか。スポーツやゲームに熱中するはずの子ども時代から、「食」に興味を持つとはなかなか渋い趣味である。料理店を経営する両親たちは、そんな息子の話に聞き目を細めていたかもしれない。
高校からテニスを始め、大学でもテニス部に所属した。ラケットを背に渋谷を歩けば、それでモテた時代。チャラチャラしていたわけではないが、これといった将来の目標もない。その日暮らしといえばいいのだろうか。テニススクールでインストラクターのアルバイトをしたり、ホテルでウエイターをしたりもした。「スキー場に行くバスの添乗員など、いろんなバイトをしました。1ヵ月かけアメリカを旅行したり、東南アジアに出かけたりしました」日本以外の国にも目を向けてみたかったからだ。「食」に対する興味はこの時期、薄れたような気もするが、いったん肥えた舌のほうは、なかなか一般的な感覚にならない。「居酒屋に行った記憶はほとんどない。寿司屋とか蕎麦屋には何度も通っているのに不思議ですね」。どうも料理が口に合わないという。料理人がちゃんとつくる料理にしか価値を見いだせなかったのかもしれない。ともあれ、学生時代は忙しく通り過ぎた。
一浪しているから、岡田が大学を卒業するのは、1987年のことである。当時の日本は、岡田が「いい時代だった」といって笑うように誰もが好景気の恩恵を受けていた。土地代が日々跳ね上がり、買ったマンションが数ヵ月後には何倍にもなって売れた。それがバブル経済を膨らませていくことになる。「不動産会社と証券会社が大量に学生を採用していました。私は、2〜3年、遊ぶつもりで不動産会社に就職しました。不動産も金融商品の一つのような時代です。買えば儲かるんですから、誰だって買いますよね」。成績は悪くはなかった。「先輩たちは夜になれば銀座に繰り出し、肩からでっかい携帯電話を下げて街を闊歩していました。私もヘリコプターでゴルフ場に連れて行ってもらうなど、あの頃しかできないおいしい体験をたくさんさせていただきました。でも、結局、2年勤めバブルが破裂する少しまえに退職します。そろそろ料理屋の勉強を始めなければと思ったからです。もったいないとも言われましたが、結果、ラッキーでした」。
財界の著名人などがしばしば来店する、有名な日本料理店に転職した。岡田はこの店でたしかな実力を育てていく。ホールマネージャーとなり、多くのスタッフたちを動かし名店にふさわしいサービスを展開する。そんな折、ひとつの転機が、訪れた。それも、唐突に。「義兄の紹介で、あるビルのオーナーに会ったんです。すると凄い迫力で、いきなり『会社を作って焼肉店をしろ』と言われたんです。やるのか、やらないのか、と迫られ「やるっ」と答えたあとがたいへんでした(笑)。そんな出会いが訪れるとは思ってもいませんでしたから、心の準備もなにもない。代わりに嫁さんと結婚しようと、その準備に追われていた時ですから」。「やる」という一言で始まった岡田の奇跡の40日間は、いま改めてやれといわれてもできないことばかりだ。この返事から、たった40日間で、「会社設立」「結婚」「焼肉屋のオープン」という3つのハードルを一気に超えることになる。「焼肉屋のノウハウもなにもない。あれば渡りに舟だったのでしょうが、肉の勉強をしなくてはいけない。翌日には、勤めていた会社を辞めさしてもらって。もう、走りまくりの40日間です。新婚旅行の初夜。ベッドにあったのは書類の山でした」。
1990年11月1日。新宿2丁目のスーパーの2Fに「炭火焼肉 神戸屋」が誕生する。20坪、客席34席。結婚したばかりの妻も一緒に働いた。「2人で朝から晩まで。とにかく猛烈に働きました。それがいまの礎になっているんだと思います」。この焼肉店が軌道に乗ると、ラーメン店も出店した。化学調味料は一切使わない、こだわりのラーメン店である。1号店オープンから2011年で20年。現在、4店舗を経営しているが、「1度も赤字になった店はない」という。とりわけ1号店は、入れ替わりがはげしい新宿で20年間も愛され続けている。「決して、かっこいい店でもないし、超有名な店でもありません。口コミで少しずつお客様を増やしてきた店です」と岡田はいう。その姿は、成功者としてはあまりに謙虚だ。「私は一過性の店をつくりたいと思ったことはありません。売上や利益だけを追いかけない。奇抜なアイデアも盛り込まれていませんし、そういう意味ではとてもふつうのお店です。そのふつうさがとても大事だと思うんです。私たちが追いかけているのも、実は、とてもあたりまえのことで、『おいしかったよ、また来るよ』の一言。それをこの20年間、愚直に追い求めてきたことが、長く続けて来られた秘訣なんだと思います」「だから、店も積極的に増やしてきませんでした。でも、そろそろ社員たちも育ってきましたので、出店攻勢に転じようと思っています。年内にも1店リリースの予定です」。マラソンを走るとき、一時にガーっと行ってしまえば、それで終わる。事業もある意味、同じなのだろう。自分のペースを理解し、速度を調整する。そのためには誘惑にも勝たなければならない。「FC展開のお話もいろいろいただきましたが、どれもお断りしました。どうも、そろばん勘定だけで仕事をするのはイヤなんです」。岡田がこういう時、日本料理店を経営者した祖父、父から受け継いだDNAが顔を覗かせる。
今後の展開では、「焼肉店」はもちろん「ふぐ料理店」にもチャレンジしたいという。その中心は当然、いまの社員たちだ。「そろそろ彼らに次のステージを与えてあげたい」と思っていると岡田。実は、岡田はこの20年間、社員の採用に困ったことがないという。これも奇跡だ。秘密は、スタッフの紹介でどんどん入社してきてくれたからである。ここにも、岡田の人柄が現れている。「将来、社員たちにいまの店を譲って、私自身は海外に移住して向こうで店をやりたいと思っています」と岡田。岡田の計画では、そこまでの年月もちょうどいまから20年。岡田のDNA、もしくは岡田家のDNAを引き継いだスタッフ中心の店作りがいまから始まる。ちなみに現在も岡田は、毎日、すべての店を回りスープの配送も行っている。言葉だけの経緯者ではないことは、この姿からも伺える。
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