株式会社オフィチーナ 代表取締役 佐々木義夫氏 | |
生年月日 | 1964年12月生まれ |
プロフィール | 神奈川県川崎市に生まれる。エンジニアを志望し、大手通信会社に入社したが、3年で退職。バーで1年間、修業したのち、あるホテルに引き抜かれ、レストランのマネージャーを務める。7年後、KIHACHIに移り、熊谷喜八氏の片腕となる。KIHACHIブランドを定着させるとともに組織づくりにも貢献。その後、シアトルズベストコーヒーの日本進出の際に役員に迎え入れられ、フランチャイズ化を推し進め、コンビニエンスストアや鉄道会社など異業種への展開を図る。常に斬新な発想で、論理的な解を見出し、道を拓いてきた経営者。副社長を経て、2010年10月より、株式会社オフィチーナ代表取締役に就任する。 |
主な業態 | 「青山エリュシオンハウス」「ヴィヴィ ラ・ベルデ」「ナチュラルダイエットレストランNODO」「ラ・ベルデ」他 |
企業HP | http://www.officina.co.jp/ |
「雨が降ると道がぬかるむからバスが運休するんです」。今回ご登場いただく株式会社オフィチーナ 代表取締役 佐々木義夫の、子どもの頃の話である。「スーパーもなく、週に1回配給車がくるような町でした。田んぼもたくさんあって、タニシ等を取って食べたりしていました。ある意味自給自足です(笑)」。地方の町の話かと思いきや、舞台は開発著しい現在の港北。ところが学校では、都会らしく光化学スモッグがしばしば発生していたようである。佐々木が生まれたのは、1964年。秋田から仕事を探して、この地に落ち着いた父は、従兄弟と一緒に金属加工業を営んでいた。子どもの頃の目標は、野球選手。「自由が丘にある不二家に行くのが唯一の贅沢だった」と佐々木は、当時を振り返る。
「すかいらーく」が誕生したのは、1971年。以降、ファミリーレストランは家族の贅沢の一つで、休日ともなれば行列ができていた。佐々木が高校生というから、この話は、1980年代初頭。「すかいらーくができたので、友だちと一緒にアルバイトを始めました。私はキッチンに向いていると思っていたのですが、なぜかホールを任されて、逆にホールに向いていると思っていた友だちのほうがキッチンを任されました。まったく逆だよな、と思っていたんですが、始めてみるとホールが向いているとわかったんです。どうやって私たちの性格を見抜いたんでしょうね。いまでも謎のひとつなんですが」。高校では、サッカー部に所属し、県でベスト8にまで進出している。「部活が終わってから、19:00〜22:00まで、部活がない日は一日バイトをしていました。当時は、お客様が列をなしていた時代ですから、開店まえにはいまから戦いが始まるぞっていう、そんな雰囲気でした」。ある意味、飲食業が一番、元気だった時代である。
佐々木はエンジニアになりたくて大手通信会社に就職する。出張も、残業もあったが、その度に手当が付くため、しばしば手当が本給を超えた。その手当の大半は、愛車の改造に消えた。車以外にもう一つ、当時、ハマっていたのがウイスキーだった。「新卒といっても300名もいましたから、名前も覚えてもらえない。それで一計を案じ、いろんな社内のサークルに顔を出すようにしたんです。飲み会ももちろんあちこちであって、そこで、先輩たちに負けないように飲むんです。一緒に連れて行ってもらった新卒たちがバタバタ倒れていくなかで、一人、『次行きましょう、次』って。当然、有名になって。そんなとき、上司の一人が、お前にちゃんとしたお酒の飲みかたを教えてやろうと、バーに連れて行ってくれるんです。それが、私の大きな転機になります」。
「上司に連れて行ってもらってから、もう、ウイスキーとカクテルにハマりまくりです。あの雰囲気にも惹かれたのでしょう。女の子にもてるようになるだろうって下心もあってカクテルの勉強も始めたんですが、そのうちどっぷりとハマってしまうんです(笑)」。そんな頃、ある出来事があった。「ちょうど3年目の頃です、あるトラブルに巻き込まれてしまうんです。私が発注元の設計のミスをみつけて、一人で解決してしまったんです。その日のうちに直さないといけなかったから、独断で。発注元からは『ピンチを救ってくれた』と喜ばれたのですが、うちの会社からは、もの凄い勢いで怒られたんです。『なぜ、営業に報告しなかったのか』。正規の通りやれば、相当な利益になるからでしょう。でも、そんな悠長な時間はなかったんです。そのうえ、なんと1週間も自宅謹慎をくらうんです」。正義感が怒りにふるえた。「(当時は)組織というのがイヤになった」と佐々木は、退職を決意。そのとき、琥珀色のウイスキーが、違った色に輝き始めた。
組織というものにイヤ気がさした。代わりにウイスキーにますます惹かれた。バーテンダースクールに通い勉強もした。「何千本ものウイスキーを置いているバーがあって、直談判して雇ってもらいました。オーナーが財閥の息子さんで、とにかくウイスキーにはうるさい方でした。ウイスキーを3つ並べてどれがどの銘柄かと<利きウイスキー>をさせられるんです。間違えばもちろん怒られます。またある時には、バーの名店に連れて行かれて、今日は貸し切りだってお札をバーンと。それで、こいつに教えてやってくれって、貸し切りにしたバーで、その店のバーテンダーにマンツーマンで教わったこともありました。1年間、365日、そのオーナーと一緒に行動していました」。その1年間が次への布石になる。
1年間、バーで修業した佐々木は、あるホテルに引き抜かれた。ただ、当初はスタッフの一人にすぎなかったが、1年後、総料理長を含め大半のスタッフが、ほかのホテルに移ってしまった。佐々木一人が残された格好になる。「箱抜きというんですが、従業員もそっくりそのまま引き抜くんです。一緒に行った人間は良かったんでしょうが、残ったこっちはたいへんです。マネージメントをしろと言われ、独学で勉強を始めます。一方、採用もままならない時代でしたから、外国人を雇い入れて、カタコトの日本語で会話する日々が始まります。文字はローマ字です(笑)。みんなよくやってくれましたが、とにかく休むことができなかった。なんとか休む方法はないかと、模索するんです。それが結果的に、私のマネージメント力を育てることになりました。大事なことは、スタッフと会話し、お互いを知り、信用して任すことだと気づいたのはこの時です。
佐々木の所属したレストランはバー併設のラウンジレストラン。客席が250席で毎日閑古鳥が鳴いていた。客数確保のために、ウエディングを企画した。当時、<ねるとん紅鯨団>という人気のTV番組があったんですが、その結婚版というか、そういうのをプロデューしてうちのレストランで式を挙げてもらったんです。レストランウェディングの先駆けでした。世の中はバブル時、ホテルウェディングが全盛で、宴会場で高単価のウェディングができるのに『なんでこんなに安いんだ』って怒られる始末です(笑)。更にはランチバイキングを行い、これもホテル初だったと思います。連日雑誌、TVで紹介され、開店1時間前から長蛇の列ができる大ヒットでした。こうした佐々木の努力によってレストランは売上・利益とも上向く。多くの部下に慕われながら、あっという間に7年が過ぎた。
KIHACHIに移り、熊谷喜八氏の片腕となった。営業から総務的な仕事まで、バックヤードのおおよそすべてこのKIHACHIで経験する。「熊谷氏は天才でした。これは間違いない。その熊谷氏が率いるKIHACHIのパワーも凄かった。まだ有名ではない頃、とある百貨店に出店しました。フロアのいちばん奥。階段の踊り場です。しかし、そのいちばん奥の店がもっとも流行りました。これがKIHACHIのパワーです。私は熊谷氏の片腕として、KIHACHIのブランド化と組織作りに奔走しました。総務的なことまで、すべてやっていましたので、ここでも時間がなかった。なんとかしようと少しずつ、人を育てて私の仕事を譲り渡していきます。それが、KIHACHIの組織になりました」。組織作りも簡単ではない。一方で、天才のアイデアをかたちにする。これもまた感性と才能がなければできないことだ。佐々木の実力が内外に知れ渡った。 時代は料理の鉄人のブームも相まって空前のレストランバブルであり、様々なオファーが殺到した。
KIHACHIで実力を示した佐々木は、次のステージに進む決意をした。シアトルズベストコーヒーの日本でのマーケット拡大が仕事になった。「出店といっても、一等地はすでに他店に抑えられているんです。そこで発想を転換しました。絶対的な一等地を持っている企業に加盟いただいてフランチャイズ化するという戦略です。とあるコンビニエンスストアや鉄道会社に的を絞り営業をしかけます。コーヒー豆だけは本部から購入していただきましたが、それ以外はすべてフリーという契約です。互いにメリットがあるしくみですから、コンビニの一角や駅構内という絶対的な一等地に次々とシアトルズベストコーヒーの看板が上がりました。しかし、よし、いよいよいまからという時に、アメリカの本部が、ライバル会社に買収されてしまいました。それで新規の出店ができなくなりました。事業を縮小するしかありません」。この時、佐々木はどのような気分だったのだろうか。大きなチカラによって翻弄されながらも、佐々木は最後で踏みとどまった。
佐々木の人生を振り返ると、道を自ら切り開くという言葉が、ピッタリあてはまる気がする。壁にぶち当たるたびに、自ら学び、成長し、そしてその壁を壊す、そういう人だ。5回目の転職のポストは、副社長職だった。転職先は、現在、佐々木が代表を務めるオフィチーナである。代表に就任したのは、2010年10月。オフィチーナは「ラ・ベルデ」をはじめ、「青山エリュシオンハウス」など、イタリアの食文化を発信するレストランを多数出店している。なかでも、2011年5月に西武百貨店 渋谷店内でオープンしたナチュラルダイエットレストランNODOは女性を中心にオープンしてわずかな日数しか経っていないが、すでに爆発的な人気を誇っている。日本ダイエット協会会長・戸田晴実氏をアドバイザーとして迎え、一流のシェフとのコラボを実現。美味しく食べても体重増加を気にしなくていい「楽しいダイエット」をサポートするレストラン。このコンセプトが「キレイになりたい、でもしっかり食べたい」女性たちのココロをわしづかみにしている。常に次の構想を練っているという。ゼロからすべてを創る男は、次に何を見せてくれるのか。そして私たちはどう魅せられるのか。次の一手に期待したい。
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