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第232回 型無株式会社 代表取締役社長 矢野潤一郎氏
update 11/08/16
型無株式会社
矢野潤一郎氏
型無株式会社 代表取締役社長 矢野潤一郎氏
生年月日 1980年6月29日生まれ
プロフィール 名古屋生まれのカナダ、バンクーバー育ち。日本語教師を務める父がバンクーバーに憧れ、中学2年の時、家族でバンクーバーに移住。片言の英語でコミュニケーションを取りつつ、バンクーバーの文化・風習を吸収。地元高校を卒業後、日本人経営者の寿司店に就職。2年後、「北の家グーmarketing Co.」に転職。人生の師に出会い、起業を決意。日本食材の安定供給を念頭に、日本とバンクーバーの橋渡しとなるべく日本での出店を計画。上海で1年、日本に戻り「てっぺん」で1年の修行を経て、2007年、型無株式会社を設立。現在、「串揚げとBaniku-Ryori 型無」「居酒屋 かたなし」「馬肉専門店 一心」を出店。将来はむろんバンクーバーへの進出、上海への進出を狙っている。
主なプロデュース 「串揚げとBaniku-Ryori 型無」「居酒屋 かたなし」「馬肉専門店 一心」
企業HP http://katanashi.com/

日本の中学生、バンクーバーに旅立つ。

もともと商社マンだった父が、会社をスピンアウトしてしまう。ここから矢野家の、新たな物語がスタートする。「ぼくが中学2年生の頃です。父は、すでに会社を辞めて、外国人向けの日本語教師を務めていました。そのとき、バンクーバーの友人ができたのがきっかけで、父がバンクーバーを好きになり、息子の教育にもいいということで一家、3人、移り住むことになりました」。「父は会話にも不自由しませんでしたが、ぼくや母はたいへんです。ぼくは日本の中学1年生の英語レベルでしたし、母はまた語学が堪能なわけではありません。特に母は、向こうの人との接点もない。ところが、しばらくすると母がいちばん馴染んでしまうんですが(笑)。ともかく、半年でなんとなく内容が聞き取れるようになり、1年で会話もできるようになりました」。語学以外にも、文化の違いにも矢野少年は驚いた。「中学生になればもう大人と同じ扱いなんです。タバコも自由で、教師と生徒が一緒に喫煙するのもめずらしくありません。迷惑さえかけなければ、教室で音楽を聴くのも自由です。カリキュラムも日本の大学のように自分で判断して授業を選択するんです。ぼくの場合は、最初はわからないだろうって選択する科目を学校側が選んでくれました」。中学2年といえばまだ14歳である。ともかく14歳の矢野少年は、それまで暮らしていた日本とは異なる文化・風習のなかで、頼りなげなものの、次の一歩を確実に踏み出したことになる。

戸惑いはすぐに消え、刺激的な日々が始まった。

頼りない足取りでスタートしたバンクーバー生活も、すぐに、刺激的な日々に変わった。「バンクーバーには中国人なども多く、移住者も少なくありません。日本人だからといって煙たがられることもない。言葉はわからなくても、いっしょに楽しむことはできるんです。年齢も関係ありません。たとえば、ぼくが1年目にとった数学の授業では高校3年生で18歳の女の子もいっしょでした。彼女は数学が苦手だったので、一番、最後に残しておいたらしいんです。彼女は平気な顔でそういうんですが、隣に座ることになったぼくは、もうドキドキし教師の話も耳に入りません(笑)」。日本でいえば、中高の一貫校だった。中学2年からスタートした矢野のスクール時代は、楽しく、充実したものになった。高校時代には、サッカー、バトミントンでブリティッシュコロンビア州の州大会にまで出場している。ところが、17歳。卒業が近づいてくると、周りの友人たちが次々と針路を決めていく。そのなかで、一人足軸が定まらない自分に嫌気が刺したのだろうか。改めて自分探しの旅に出るべく卒業後、進学もせず1人家を出て暮らし始めた。

自分探し。その旅の途中で出会った人生の師たち。

「最初の1ヶ月分の家賃は親に出してもらいました。でも、そのあとは自分で食べなきゃいけない。だから飲食店で仕事を始めました。食べるためだけの仕事ですから、やらされ感、満開です(笑)。楽しいはずはありません。最初は日本人経営者の寿司店に就職しました。それから19歳の時に「北の家グーmarketing Co.」に転職するんです」。<人生の転機を挙げてください>という質問に、矢野はバンクーバーに家族と移り住んだことと、この「北の家グーmarketing Co.」に転職したことを挙げてくれた。「この店で飲食のおもしろさを初めて感じました。また人生の師ともいえる人に出会あったのも、この店です」。この「北の家グーmarketing Co.」で4年間、勤務する。その間アシスタントマネージャーを務め、出店にも関わった。この店、また師との出会いによって、矢野のスイッチが入った。起業が明確な目標の一つになった。

バンクーバーを旅立つ。

バンクーバーで起業することももちろん考えた。だが、それで終わりたくもなかった。「店を開いて、食べていくイメージはできたんです。でも、それじゃ、ぼく自身が満足できなかった。考えたのが、日本の食材の流通問題だったんです。いい店はあっても、食材のルートが限られている。育ててもらった恩返しもしたくて、それをやろうと。そのためにも日本でまず開業しようと思い立ったんです」。それが2005年のこと。目標は2007年。1年は上海で、あと1年は日本で。実は、人生の転機を矢野はもう一つ挙げてくれていた。それが、上海での出来事だった。上海の、ある日本料理店に契約店長として入社する。スタッフのなかではトップだった。当然、現地の中国人たちをマネジメントすることになる。むろん中国語は話せない。片言の日本語が話せる中国人スタッフを通訳にして、なんとかコミュニケーションを図った。図ろうとした。だが、なかなか文化の違いに溶け込めない。「英語ができるから大丈夫だろうと思っていたんです。でも、ぜんぜん通じない。そのうえ、日本人とは仕事に対する姿勢がまるで違います。なにしろ時間がくれば、片付けがまだ残っているのにさっさと帰ってしまうんですから」。中国人には愛社精神がない、という人たちもいた。なるほどそうだ、と思っていた。どこかでそんなスタッフたちをバカにしていたかもしれない。ところが、そんな矢野の思いを覆す出来事が起こる。

豆電球が揺れるたび、中国人スタッフたちの生き生きとした姿が映し出された。

赴任して3ヵ月後のことだ。スタッフたちからパーティに招待された。「みんなでパーティをするからって。で、寮でやるんだろうなと思って仕事が終わってから参加することにしたんです。みんな仕事があるから、スタートするのはもう深夜です。自転車に乗って彼らのあとについていきました。すると寮がある方向には向かわないんです。徐々にビルがなくなり、雑多な、そう子どもの頃、ブルースリーとかの映画で観たような廃墟のような雑居ビルの群に向かっていきました。電灯もなくなり、薄暗い路地を曲り、そして辿り着いたのは、もう潰れかけのようなビルでした。彼らはここで暮らしていたんです」。片言だが初めてかれらの話をちゃんと聞いた。すると愛社精神がないと日本人の管理者たちが顔をしかめる彼、彼女たちの本来の姿が浮き上がってきた。「彼らが、時間通りに帰るのは当然だったんです。理由は、次の仕事に向かわなければいけなかったからなんです。親に仕送りし、そうすると今度は自分が食べられないからもう一つ仕事をしているんだと。それを知らずにどこか心の底で彼らを罵っていた身勝手さというか、そういうのを痛烈に感じました。どうやらぼくは、日本人という一つの型でものごとを観ていたんだなということに気づいたんです」。薄暗い豆電球の下。集まったスタッフたちの、初めて心から笑い楽しんでいる姿が映しだされる。どこで買ってきたのか、安い酒がふるまわれ、流れる音楽はたった一曲。それでも彼、彼女たちはいつまでも笑い続けた。酒をふるまわれ、彼らと共に慣れぬ歌を歌ったことは、矢野にとっていままでにない衝撃だった。ついでにいえば、「型無」社名のルーツをたどれば、この中国上海での出来事にたどりつくような気がする。

日本へ、そして起業へ。

さて、いよいよ日本での起業、カウントダウンが始まった。まず「てっぺん」で修行する。1年後には独立すると宣言したが、それでも快く受け入れてもらえた。当時、配属されたのは、この飲食の戦士でもご紹介した現「絶好調」の社長、吉田氏が店長を務めているお店だった。そして、1年後の 2007年計画通り、矢野は「型無」を設立し「串揚げとBaniku-Ryori 型無」を開業する。その後も着実に力をつけ、「居酒屋 かたなし」「馬肉専門店 一心」を出店。基盤を整えていく。だが、まだ宿題はある。「日本で4店舗出店したら、バンクーバーに進出したいと思っています。向こうとこちらをつないで日本食材に関しても、改善していきたいと思っています。」もう一つある。「中国で働いている若い人たち。一部の人を除いてはまだまだ給与も少ない。2つも、3つも掛け持ちしているのは、そもそも給料が安いからなんです。そこにも仕掛けがあって、たとえば10人で回せる店をわざわざ15人とかで回すんです。だから、1人1人に十分な給与を払えなくなる。たしかにそれも中国という文化なんでしょうが、それでいいわけはない。だから改善していけるような店を出店していきたいんです。上海時代に出会った彼、彼女と心のなかで交わした約束ですから」。

型無という生き方

「型にはまる事無く、自由な発想でのびのびと生きる」、ホームページの冒頭、「型無」の意味を語る文句である。この「型」には、さまざまな意味が込められている気がする。国という型であり、文化という型でもあるだろう。それらの型をないものと考えたとき、もしくは型を持たないことで、異文化や異国という考え方もなくなり、地平線が限りなく広がっていく。中学2年で海外に移住し、グルーバルな視点を育ててきた経営者、矢野。彼の「型無」という生き方が文化と文化、国と国のつないでいく、そのときを早くみてみたい気がした。

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