カレー倶楽部 ルウ 代表取締役社長 日置純彦氏 | |
生年月日 | 1976年8月23日生まれ |
プロフィール | 福岡県に生まれる。4人家族の長男。大学時代、芝居やバンド活動に熱中。大学卒業後は役者をめざし上京。30を超えるアルバイトで生活費をねん出しながら、役者になる夢を追いかける。だが、28歳で断念。宮崎に戻り、当時、実家が経営していた「弁当店」に就職し、飲食人としての第一歩を記す。店舗経営に注力すると同時に、元来の凝り性から、アメブロを始め、そのパワーを知るとツイッターやフェイスBOOKも放っておけずソーシャル・メディアを頻繁に利用し、メディア活用にのめり込んでいく。自ら「カレー王子」と名乗り、全国に向けキャラを発信。数多くのファンを創る。同時に、「カレー倶楽部 ルウ」の新規出店はもちろん通販にも進出し、業績を拡大。ネット情報とリアル情報を交互に使い分け演出する、ビジネス界の名役者。現在も、フェイスブックやツイッターなどのランキングでは常にトップクラスを独走している。 |
主な業態 | 「カレー倶楽部 ルウ」 |
企業HP | http://www.curryclub-ruu.jp/ |
夏の風物詩の一つである花火。今回、ご登場いただく「カレー王子」こと、カレー倶楽部 ルウ、社長 日置純彦の父の仕事は、花火を打ち上げること。いまも夏になると、日置の父が打ち上げた火が夜空を照らす。
そんな父の下に日置が誕生したのは、1976年。高度成長期真っ只中である。「花火職人は、夏の仕事でしょ。だから、冬にも収入が得られるように鉄砲店を経営していました。また母も生活を安定させるために飲食店や化粧品店、ブティックなどを経営していました」。「母が飲食店を始めたのは、私がまだ小学校低学年の頃。私と弟の二人は祖父や祖母に育ててもらいました。私が、おじいちゃん、おばあちゃん子なのはそのためです(笑)」。
祖父、祖母に可愛がられた少年日置は、勉強に精を出した。小学校の頃はいつもトップクラスの成績だった。中学になると柔道部に入部。その後も続け、現在、黒帯2段の腕前を持つ。ところが勉強にもスポーツにも長けた少年だったが、高校に入るといっぺんする。
「小学校の頃から勉強を頑張りすぎちゃったんでしょうね。もともと凝り性でもあるんですが、反面、飽きっぽいところもなくはない。それで高校に入るともう勉強はちょっといいやってことになって(笑)」。大学に進学するとこの傾向はさらに強くなった。「大学3年生まで、大学に行ったのは試験がある時だけ。仲間といっしょに東京に出て芝居をやり、バンド活動に熱中していました。結構、いい線までいったんですが、なかなか上手くはいかないですよね」。
「一方、家電量販店などでバイトを始めたんですが、そちらはもう、最高。元々家電製品が好きだったってこともあるんですが、販売の成績が抜群に良かった。携帯電話とか、パソコンを担当するんですが、アルバイトなのに月1000万円ぐらい売ってしまうんです。お店ではもちろんトップです。社員から冷たい目を向けられたこともありました。それでイヤになって辞表を出したら、ぜひ、社員に、って強引な引き留めに合うわけです」。
「役者って、潰しが効かないっていうでしょ。でも、私は違うなと思うんです。この販売の時だって、私がナンバー1になれたのは役者のおかげです。私は機能とかを説明しませんでした。このパソコンを買ったらどんな生活ができるのかを説明するんです。そのあたりは役者ですから、巧いんですね。想像力も、演技力もあるから。だから、つねに販売成績はトップクラスでした」
「でも、成績がいくら良くても、私自身は興味がありませんから、もう転々としました。18歳の時、カラオケBOXでアルバイトを始めてから、そうですね、30職種ぐらいは経験しています。でも、アルバイトにも年齢の壁があるんです。28歳ぐらいになると、なかなかいいバイトがこなくなります。そんな時、勘当されていた父から電話がかかってきました。大好きな祖母が倒れたっていう連絡でした」。
4年ぶりの父からの電話は、日置にひとつの決断を迫るものだった。役者の道を断念し、宮崎に戻った。
「当時、うちがやっていたのは、母が経営するブティックと化粧品店、カレー倶楽部ルウの都城店、そして弁当店でした。弟がルウの店長をやっていましたので、私は弁当店に就職し、下働きからスタートしました。だんだん店の経営が分かってくると、不思議なんですよね。お客様は入っているのに、利益がぜんぜん出ていなかったんです。何でなんだろう。首をかしげていたんですが、あるとき従業員が多すぎるということに気づいたんです(笑)」。
一人ひとりの従業員に頭を下げた。下働きの自分が、料理長をはじめ従業員みんなに、お弁当屋さんを閉めた方がいいと提案したからだ。代わりに、もう一つあった飲食店、カレー倶楽部ルウを立て直すと宣言した。
「弁当店で売れていたチキン南蛮をカレーにつけてお出ししたら、これが大ヒットしました。そういうこともあってカレー倶楽部ルウに活路を見出し、取り組んでいくようになりました」。
さて、ここから日置が取り組む戦略がおもしろい。さすが1976年生まれの若手経営者。ブログに目をつけた。「元々家電製品が好きだったし、パソコンも売っていたぐらいですから専門といえば専門です。それに、マーケティングやブランディングにも興味があった。それで、ブログを使ってなにかできないかと思い始めたんですね。目標はカレーのジャンルでランキング1位と、社長ブログランキングで1位になること。ホームページもいま思えばお粗末なものですが、それも外注さんに頼んで作ったりしました」。
本格的に始めたのは2008年から。始めるとスグにレスの山になった。「凝り性ということもあって、カレーランキングで1位になってやろう、と思ったんです」。始めた当初は1702位。4ヵ月で堂々1位になる。1日2万アクセス。仕事の合間をみて、1日20回更新した成果だ。だが、それで終わりではなかった。
「キャラが立っていないな、ってことに気づくんです。人気のブログを観ていると、みんな個性がある。普通に書いていてもダメだな、と。それでカレーと言えばキレンジャーでしょ。で、マスクを被り始めたんです。ある意味、役者経験者ですからね、なりきるのは巧かったわけです」。それが大うけした。名づけて「カレー王子」。
日置は、いまでも店に立つ。そんな時、「カレー王子はいますか」とお客様がいらっしゃる時がある。「あぁ、いまちょっと。スグに呼んできますから」、そう言って厨房の奥に駆け込み、気合いを入れてマスクを被る。「え、いまの人でしょ」。そう言われても平然と正体は明かさない。マスクを被ればカレー王子だ。だが、少しずつ正体がバレ、歩いていると、「あ、カレー王子」と指差されることもあるそうだ。でも、それだけ人気があるという証拠。ブログから始まったカレー王子戦略は、すでにツイッター、フェイスブックの世界に移行している。カレー王子はますます人気のマトだ。
もちろん、この人気は、リアルな店舗にフィードバックされている。福岡の阪急にも出店したほか、現在5店舗。通販サイトも大人気だ。
「おかげさまで、もう全国区ですね。FC店をさせて欲しいという依頼も少なくないんですが、そうなるといまの生産能力ではどうにもならないんで、まだお断りしています」。そういう嬉しい悲鳴まで上げるまでに至っている。
ツイッターで、フェイスブックで、宮崎で1位になろうとした。しかし、フォロワーの数でどうしても抜けない人がいた。「東国原知事のおかげで万年2位でした」とのこと。そのことを知ってか、知らずか、あるTV番組で、東国原知事は、片手に日置の通販サイトの看板商品である「宮崎のこだわりカレー」を持っていた。これで、またまた人気に火がつく。ツイッターで、フェイスブックでのネットワークが縁で、店は10回以上もTVで取り上げられている。阪急百貨店に出店できたのも、ツイッターやフェイスブックのおかげである。「たぶん、阪急さんの歴史のなかで初めてのはずです。ソーシャル・メディアが評価され入り込めたのは」、そう言って笑う。
ただし、これだけ熱中し、利用しているものの、日置は「あくまできっかけづくりにすぎない」という。大事なことは、そのきっかけを通し、実際に出会ったときだという。だから、まだまだコンテンツを研き、興味を持ってもらいながら、一方では店舗、またサイトの充実にも取り組んでいこうとしている。
目標は世界いちバカなカレー屋。「お客様を笑わせて、なんぼの世界」と渾身の笑顔。お客様を笑わせるためにメニューを開発しているという。チキン南蛮カレーの味に絶対的な自信があって言えることなのだろうが。
それでも、その発想がおもしろい。
実のところ、店舗やサイトが人気なのも、チキン南蛮カレーが人気なのも、カレー王子が人気なのも、その理由は、日置という若き経営者の豊かな発想、役者へのこだわり、それらを含めた人間的な魅力に尽きるといえるのではないだろうか。今後のカレー王子の活躍に、ますます期待したくなった。
渡辺通り店の店長の弟と一緒に | 役者をめざしていた頃 | カレー王子としてイベントに参加 |
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