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第240回 株式会社マルハンダイニング 取締役社長 佐谷友巳氏
update 11/09/20
株式会社ポッカクリエイト
飯沼 浩氏
株式会社マルハンダイニング 取締役社長 佐谷友巳氏
生年月日 1972年9月
プロフィール 東京の亀戸に生まれる。父は宮大工。母方の家系が教育関係だったこともあって体育教師になるべく、日本体育大学に進学する。だが、4年後、教員試験に落ち、憔悴している時に1本の電話がかかってくる。それがマルハンとの出会い。平成7年、新卒3期生としてマルハンに入社。この年、渋谷にパチンコタワーを立ち上げたマルハンは業界の旗手として認知され、その後、売り上げ2兆円を超える巨大企業に成長する。店長、またSVやエリア長として佐谷はその成長を支える。実績が買われ、2006年に初代労働組合の委員長に、また2008年にはマルハングループの飲食部門であるマルハンダイニングの社長に任命される。
主な業態 「ごはんどき」「M's キッチン」「カレー専門店 ホッタジ」「てんがらラーメン」「ワフカフェ」
企業HP http://www.maruhandining.co.jp/

志、高く。

マルハンダイニングと聞いて思い浮かべる企業は? と聞けば、多くの人が「マルハン」と答えるのではないだろうか。むろん、正解。マルハンダイニングは、パチンコ事業を中心とした巨大なエンターテイメント企業「マルハン」の関連会社であり、飲食事業を担当している。ただし、単なる子会社と考えるのは早計だ。2009年3月段階で売上高は100億を超え、「ごはんどき」をはじめとしたブランドは6ブランドにまで広がり、店舗網は2010年7月末で500店舗を超えている。特筆すべきは、もう一つのブランド、三ツ星ブランドで通販事業にも乗り出していることだ。
2011年3月1週目には楽天ショップで「スイーツジャンル賞」を受賞するなど、本格的なアイテムを持ち、独立独歩の歩みを強めている。
今回、ご登場いただく戦士は、このマルハンダイニングの社長、佐谷友巳。マルハンに新卒3期生として、入社。2008年にマルハンダイニングの社長に就任。2011年7月現在、すでに3年が経過している。マルハンダイニングは確実に変わりつつあるが、佐谷は、「まだまだ満足できる状態ではない」という。その志の高さもまたマルハンイズムの一つといえるのではないだろうか。

宮大工の父と、体の弱い母と、スポーツ好きな少年。

佐谷は1972年9月、東京の亀戸に生まれる。「父も、亀戸の生まれです。宮大工で週末にしか帰ってこない人でした」と佐谷。ウィキペディアによれば宮大工は「渡り大工とも呼ばれ、何年も家を離れ社寺のある地に居住して材料、技法を検討しながら仕事を進める」のだそうだ。佐谷の父が週末にしか帰ってこなかったのも、そのせいだろう。
「厳しい父でした。『人に迷惑をかけるな、弱いものイジメはするな』と教育されました」。父が子どもたちに厳しく接したのは、母親が心臓を患っていたことにも関係するのかもしれない。佐谷が小学校に上がる前のこと。母が長期の入院を余儀なくされ、2歳離れた妹と2人、親戚の家を転々とすることになった。親戚といっても他人の家である。2人は小さな体を寄せ合って暮らした。これが兄妹の絆を強くする。幸い、母は2年後に無事退院した。だが、完治したわけではなかったようだ。
「小学生の頃、父から『母はいつ死ぬか分からない』と、そんな風に言われました。脅かして、しっかりさせようと思ったんでしょうね。それからです。母親を見る目が変わりました。家の手伝いを積極的にするようになったのも、その一言があったからです」。
ところで学校ではどんな少年だったのだろう。「学校でいちばん足が速かった。小学校ではサッカーに没頭し、県大会にも出場しました。中学になってからは、野球を始めました。野球は大好きだったんですが、坊主になるのがイヤで、高校1年で辞めてしまいます。早い話、色気づいてきたんです(笑)」。サッカーではレギュラー。運動神経は抜群だった。
母方が教育関係の家系だったこと、また運動が得意だったので、将来、体育の教師になろうと決め、大学は日体大に進んだ。

体育の教師志望から一転、パチンコ店の、新卒3期生となる。

高校からアルバイトを始め、工場のラインや居酒屋で働いた。大学時代は運転代行のバイトに精をだし、家庭教師、スノーボードのインストラクターを務めたりもした。特に運転代行は儲かった。「バブルの時代でしたから、1日3万円ぐらい儲けました。時給に加え、チップがもらえるんです。2人1組でアタマ(客の車を運転)とヒモ(後ろから付いていくだけ)に分かれてやるんですが、気に入られると指名まで入ります。月に50万円は稼いでいました。もちろん全部、使っちゃいましたが、お金を効率よく手に入れる方法は、この時に学んだ気がします」。
バイトに明け暮れたが、教師の道を踏み外したわけではない。教員にならなかったのは、単純な話、試験に合格しなかったからだ。教員以外は考えていなかったからショックは大きかった。そんなとき、一本の電話がかかってきた。
「たまたま家にいたんです。その時、リクルートから電話がかかってきたんです。マルハンという会社の新卒採用の件でした。新橋で担当の方とマンツーマンで話を伺いました。食事をしながらです。その時、面白い!夢がある!と思ったのが、マルハンに入社しようと思ったきっかけでした」。
新卒3期生。社長から、「キミたちが業界を変えるんだ」と言われ、感動した。
ところが、当時のパチンコ店は不人気業種の一つ。佐谷の母が最後まで反対したのも頷ける。だが、息子の意志が固いとわかると「決めたことには責任を持ちなさい」と激励する。この時、母は、何に責任を持てといったのだろう。
まず「決めた」こととは何か。パチンコ「マルハン」に入社することではないだろう。マルハンに入社して業界を変えること。そう佐谷の母は、そこに責任を持てといったのではないか。果たして、大きな課題を与えられた佐谷は、無事、そのミッションを完了することができるのだろうか。何事も「言うは易く行うは、やはり難し」である。

スピード出世。旅館の風呂場で言い渡された昇格の話。

マルハンが新卒採用を開始してちょうど3年目。それまで10名程度だった採用数を一気に83名まで広げた。平成7年、のちにマルハンのシンボルともなる「パチンコタワー」を渋谷にオープンする計画が進行していたからだ。「2階から6階の5フロアがパチンコフロアーです。台数でいえば1000台以上。これだけの店を渋谷にオープンするのですから、マスコミもほっておきません。盛んに取り上げられ、オープンしてしばらくは開店前にかかわらず1000人以上の行列ができました」。ただし、佐谷が社長の言葉に胸を躍らせたのは、まだ計画が進んでいた頃で、そのための人材採用と育成が開始された頃だ。
「入社して1ヵ月少し、ゴールデンウィークが過ぎた頃でしょうか。パチンコタワーへの配属が決まりました。新卒が大量に配置されました。私もそのうちの1人です」。マルハンのシンボル「パチンコタワー」は平成7年7月7日グランドオープンする。
「新卒だけで、20人ぐらいは配属されました。この新卒たちが、いままでとは異なるサービスを積極的に展開します。私も負けないよう笑顔で懸命に働きました」。その姿勢が伝わったのだろう。佐谷は、多くの顧客から支持を集めた。「当時は、評価制度の一つでユニークな試みがあって、お客様や従業員に投票してもらって、その得票数で1位が選ばれるスーパースター制度というのがあって、私はいつもスーパースターに選んでいただきました」。
その結果、昇格も早かった。「慰安旅行があって、その宿の風呂場で私を含め3人に昇格が言い渡されました。副主任です。各階に主任が1名、副主任が2名配置されます。私は、タワーの顔となるフロアで副主任を務めることになりました。給料は良かったですが、さすがに肉体的には限界でした。副主任は実質的なフロア責任者ですから、2人いっしょには休めないんです。相方が3連休を取った時には、3日間で睡眠5時間なんて時もありました」。

店長に。つぎも行くぞと、不振店に。だが、ライバルの抵抗にあう。

佐谷は、マルハンで一つずつ階段を上っていく。パチンコタワーでの実績が買われ、マルハンの重要エリア静岡にある店舗の店長に抜擢される。最初は400台の店舗、スグに800台の大型店を任された。「少し天狗になっていました。400台の店も業績は良くなかったんです。それを立て直しましたから、つぎも行くぞと。
「ところが、思わぬ苦戦を強いられます。ちかくに、ライバルの最重要店舗があったんです。最初の1ヵ月ぐらいは奪われていたお客様を取り戻せたのですが、向こうが巻き返しを図ってきました」。ライバル店も必死。情報戦が繰り広げられる。
「せっかく取り戻すことができたのに、とスタッフも意気消沈です。早くもう一度巻き返そうと。でも、私は、焦ってはダメだと言い聞かせました。天狗のハナを折られたのがかえって私を冷静にさせたのでしょう。タイミングを図りました。これで、負ければ終わり。そんな背水の陣をひき、赴任した翌年の1月初旬。相手のスキをついて全精力を傾け、仕掛けます」。
「決め手になったのは、貯玉再プレーシステムの導入です。貯玉再プレーはいまでこそ一般的になっていますが、当時はまだめずらしいシステムだったんです。斬新さもあって、お客様が次々に戻ってきてくださいました。貯玉とはカードに出た玉を蓄えておけるシステムです。リピートが保証されます。これで一気に水をあけました」。佐谷27歳の時のことである。

初代マルハンユニオン、中央執行委員長

その、1年後には15店舗を統括するスーパーバイザーに。また全国で常に上位の成績を上げていた西沢田店(現沼津店)の店長にも抜擢される。エリア長を経て、2006年10月、今度はどえらいことをしでかすことになった。労働組合の立ち上げだ。
「すでに従業員が1万名になっていました。そろそろ労働組合を立ち上げないと、という危機感が会社全体にあって、私が中心になって労働組合を立ち上げていったんです。」。労働組合は、経営層と対峙する重要な組織である。その組合をつくり、長に立つということは、従業員1万名の代表となることでもある。いきなり大役を買って出た佐谷だが、調べてみると、意味合いも必要性も理解できた。わからないが、手探りでもやるしかない。
この時のマルハンをホームページに記載されている沿革に沿って紹介すると、2002年2月にパチンコ店100店舗を達成。2003年4月に飲食事業を独立分社化し、株式会社エムフーズ(現マルハンダイニング)を設立。翌2005年1月にパチンコ業界初の売上高1兆円達成。同年6月資本金3億9300万円から100億円に増資。翌2006年8月パチンコ店200店舗達成。翌月の9月に労働組合「UIゼンセン同盟マルハンユオン」が結成されている。結成時、佐谷はまだ33歳。その時で1万人の長になった。

マルハンダイニング、社長就任。

マルハンの成長期の歩みの上に佐谷の軌跡を重ねてみると、改めて採用の重要性が理解できるのではないか。新卒3期生として入社した佐谷が、面接で言われた社長の言葉を胸に抱きながら、会社を変え、業界を変えてきたその様子が伺えるからだ。体育教師を目指した運動神経抜群の青年はいま、マルハンという巨大企業のなかで重要な位置を占めるに至っている。
労働組合の委員長の任を解かれた佐谷は、今度はマルハンダイニングの社長に就任するようにという指令が下りた。2003年に設立し、パチンコ事業とは異なるもう一つの柱として期待されながら、単独ではなかなか業績を上げられなかった飲食部門を立て直すために、現マルハン社長、韓 裕氏の懐刀として送り込まれたのである。2008年10月10日が、株式会社マルハンダイニング社長、佐谷の誕生日だ。
2011年で3期目を迎える。この間取り組んできた改革は徐々に成果を上げつつある。「だが、まだまだ」と佐谷。可能性の大きさを実感しているだけに、満足できるレベルもおのずと高くなるのだろう。
いずれにしても飛躍のカギを握るのは、人の「採用と育成」といえるのではないか。時計の針を戻せば、佐谷がかつてマルハンの門を潜ったのと同様に、これから入社する人材が、いまからのマルハンダイニングの原動力になるのは間違いないからだ。
これこそイズムの継承かも知れない。「飲食業界にはまだまだ多くの可能性がある。その可能性のトビラを開けていくのは、ほかならないキミたちだ」。若者たちに語りかける、そんな佐谷の言葉が聞こえてきた。

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