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第241回 株式会社ウィルプランニング 代表取締役社長 横川 毅氏
update 11/11/27
株式会社ウィルプランニング
横川 毅氏
株式会社ウィルプランニング 代表取締役社長 横川 毅氏
生年月日 1975年3月12日
プロフィール 東京都国立市に生まれる。父は、「すかいらーく」の創始者、横川四兄弟の四男、横川紀夫氏。中学から、自らの意志で中・高一貫校である「自由の森学園」に通い、豊かな感性を育んでいく。高校卒業後は大学に進学せず、4年間長野の白馬村でスキー三昧の生活を送る。いったん東京に戻り、専門学校でホテル業を学んだ後、北海道のリゾートホテルで勤務する。その後、飲食店で店長になるなどして経験を積み、父が経営する「NINJA」に入店。2008年に経営参画し、2010年より同社代表取締役社長に就任する。
主な業態 「NINJA AKASAKA」「BANQUE」「深沢1136」「とんたん」「KYODO406」
企業HP http://willplanning.jp/

食事も、仕掛けも楽しめる、エンターテイメントレストラン「NINJA AKASAKA」

中途半端なエンターティナーはどこか滑稽である。ところが、ある一定の線、たとえば想像の域を超えると、グイグイと引き込まれてしまう。レストランのケースでは、料理が旨ければなおさらだ。トコトンまでリアルを追求したうえに、抜群に旨い料理を出すエンターテイメントレストランが「NINJA AKASAKA」である。
店内は店名通り忍者屋敷のよう。まず隠し扉からKUNOICHIが登場し席へと案内してくれる。薄暗いなか従うように進めば、あちこちで仕掛けに出くわす。忍者屋敷の仕掛けを楽しみつつ席に着けば着いたで、料理でも楽しい思いをさせてくれる。手裏剣の型を模したグリッシーニなど、こだわりのNINJAメニューが次々に登場するからだ。しかも、いずれも旨い。店内には、有名な映画監督のサインもあった。映画に引けを取らないエンターティナーの空間を十分、楽しめる。
今回は、この「NINJA AKASAKA」をはじめ、ワインラウンジ「BANQUE」、ほか3店舗を経営する(株)ウィルプランニング社長、横川毅氏にご登場願った。

「すかいらーく」の生みの親が、生みの親。

横川が生まれたのは、1975年3月12日。出身は東京の国立市である。1970年代は、日本の外食文化にとってターニングポイントとなる時代である。1970年、万国博覧会が開催される。翌年、マクドナルドやケンタッキーの第一号店が銀座と名古屋市の一角でオープンする。その一方、ファストフード同様に、当時、一斉を風靡するファミリーレストランも70年代初頭に次々、誕生する。
チェーンストアオペレーションなる理論をひっさげたレストランチェーンはまたたくまに主要都市を制覇する。日曜ともなれば家族連れが長蛇の列をつくった。当時の子どもたちにとっては、間違いなくレジャーの一つだった。
この飲食黎明期をリードしたのが、のちに最大手となる「すかいらーく」である。創業は1970年7月7日。創始者の横川四兄弟はあまりに有名だ。この四兄弟の四男、横川紀夫氏の元に横川は誕生した。長男と妹に囲まれた次男坊である。

父の顔を見ることは稀。家族旅行は5年に1度ぐらい。

「すかいらーく」創始者の一人である、横川紀夫氏の息子。その意味を横川自身はどう捉えていたのだろう。身近な分、「○○会社の、社長の息子」というより、友人たちにも羨ましがられたのではないだろうか。
だが、横川にすれば、友人たちの方が羨ましかったかも知れない。「平日に父と顔を合わすことはまずない。土日に少しだけです」。キャッチボールの回数もそう多くなかったに違いない。
横川家は、横川が幼稚園になるまでに一度、大阪に引っ越している。「すかいらーく」の関西進出の足掛かりをつくるためだった。「予想以上に上手くいったようで、幼稚園になる頃には東京に戻ることができました。それでも幼稚園は荻窪、小学校は国立と、都内を転々としました」。小学校に上がるまでは公団住まいだったそうである。
「旅行に行ったのは数えるぐらいですね。家族旅行と言えるのは、5年に1度ぐらいあるかないかです」。多忙な父は仕事に追われ、その一方で、子どもたちは母に守られながら、自由奔放に育っていく。

「自由の森学園」入学。

「いとこの影響もあったんだと思います。いとこから聞いた学校なら好きな郷土芸能の勉強ができるのではと、埼玉にある“自由の森学園”という中・高一貫の学校に進学します。木工が好きで、木で家具を作るような授業もあったんです。片道1時間半。中学生にすれば長い時間でしたが、通える距離だったんで寮住まいは許されませんでした。全国から子どもたちが来る学校でしたから、通える奴は通え、ってことだったんでしょう(笑)」
「“自由の森学園”は、校名通り何をするのも自由です。代わりに責任は自分で持たなければなりません。最低限のルールさえ守れば、モヒカンの頭だろうが、ピアスをしようがお咎めなしです。私は、興味がありませんでしたが、異性関係も自由だった気がします。良くも悪くも大学のような学校です。だからでしょう。大学に進学する人は少なかったですね。芸能や芸術関係に進む人が多かったような気がします。中・高という思春期を、自由で、それでいて自己責任というルールを明確にした学校で学べたことは、私の人生にとって、大きな意味を持っているような気がします」。
中・高で合計6年間、往復3時間の行程を通い続け卒業する。「大学に行くつもりはまるでなかった」と横川。「スキーが好きになっていて、それで、就職もせずに“長野の白馬村”のロッジでアルバイトを始めました」。子どもの頃から説教めいたことを一度も言ったことがない父が、この時は「フリーターのような生活はダメだ」と反対したそうだ。結局、スグにスキーの大会を開催する会社に就職した。仕事をしながら、スキーに没頭。大学に進んだ友人が社会に出るまでの4年間を、横川らしく、スキーと共に過ごした。

2年間の勉強を経て、北海道に。

スキーブームに陰りが見え始める。1995年、長野オリンピックが最後の花火だった。4年間、好きなことに打ち込んだことと、スキーにビジネスとしての将来性がないと判断したことで、いったんスキーから離れた。東京に戻り、ホテルの専門学校に入り直す。「宿」が、横川のテーマになっていたからだ。
「“宿”には、それこそ飲食もあれば、物流もある、販売もあれば、宿泊というサービスもある。この多様なサービスが一つになったビジネスに惹かれました。それで、勉強し、卒業した後は北海道のリゾートホテルに就職するんです。手取りはわずか11万円。通勤のガソリン代をひくと残りわずかです。ホールだと残業代も付いたようですが、私はフロントですから、残業も付かない。もっとも、1回の勤務が18時間拘束で、明け休みがある。時間はたっぷりあったんですが」。ところで、この時、持っていた車は、クロスという雪上障害物競走の大会で優勝した時の賞金で買ったものだ。2年間勤め、横川は、北海道を後にした。

厨房とホールの間にある壁が、みえた。

「伊豆の旅館で働きたかったんです」。北海道から、温暖な伊豆をめざし南下した。しかし、旅館はたいていが家族経営。バイトの口もなかった。アキができるまでと思い、都内の飲食店に勤めた。「新店舗を立ち上げるという話だったんです。だから、立ち上げも勉強させてもらえると思って」。ところが、赤字店に配属される。月間200万円、堂々の赤字店である。「とんかつ」の全国チェーンが挑戦した居酒屋の新業態だった。
「コンセプトは良かったんですが、お店がキャバクラも入っている雑居ビルにありました。ランチはスグに改善できたんですが、夜がなかなかうまくいかない。5時以降になると周りの店が営業を開始しますから、常連さんはともかく、新規のお客様が気軽に入れるような感じではなかったんです」。それでも数ヵ月後には、あと少しで黒字転換のラインまで持っていくのだが、オーナーが代替わりし閉鎖することになった。
結局、この閉店まで7ヵ月間、横川の孤軍奮闘が続いた。業績との戦いだけなら良かった。何より辛かったのは人との戦いだ。「板長は、私よりずいぶん年配の人でした。フレンチ出身です。なかなか考えが合いませんでした」。店が終わると、飲みに誘われた。財布代わり。給料が全部消えていった。厨房とホールの間にある壁。この壁を崩そうと試みたがその度に挫折感を味わった。閉店と共に、横川はこの会社を去る。

1年間、料理人と戦え、オレ。

「まだ“宿”という選択肢はありました。でも、宿をするにも、料理人を使わなければいけない。だから、この時感じた料理人との壁をなんとかしなければと、レストランの厨房に1年と決めて入ったんです。そのレストランが、父が会長を務める“NINJA”でした」。 
  NINJAは冒頭でご紹介したように、エンターテイメントレストランである。父、横川紀夫氏にとっては、「すかいらーく」とはまた違った食文化を発信するための拠点だったのではないだろうか。その店に息子が入ってきた。父としては、どういう思いだったのだろうか。
というのも、「すかいらーく」の創始者である四兄弟は、兄弟が仲違いすることなく会社を経営していくためにいくつかのルールを設けていた「子どもを会社に入れない」というのも暗黙のルールだった。だから、不思議なことに横川一族の子どもたち、つまり横川のいとこたちは、たいていがサラリーマンだという。
そのなかで、会社を経営する横川は逆に「かわりもん」の部類に入る。
もっとも、転職時には、社長になる気などさらさらなかった。板長とのバトル。そのバトルに勝てる力を手に入れるためだけに入った。たまたま入った会社が父の会社だっただけである。
だが、周囲は、それでは許してくれなかったようである。

2010年社長、就任。

「すかいらーく」と比べれば、スケールも、整っている制度もまるで違う。だが、規模の大小が仕事の楽しさを決めるわけではない。制度も、整っていないからこそ逆にフリーハンドでつくることができる。転職して3年後の2010年、先代の社長から椅子を譲り受けた。
「価値ある食文化の創造」と横川は語る。これは、横川が示した企業理念でもある。「食文化は、生活にいちばん密着しているんです。だからその人の人生の価値を上げられる、また満足度の水準を上げられる価値ある食文化を提供していきたいんです」。
もちろん、スタッフの満足を追求することも忘れてはいない。「いま、うちの会社には、NINJAのようなエンターテイメン性が強いレストランだけではなく、普段使いの“深沢1136”を筆頭に、経堂駅ビルにあるイタリアレストラン“KYODO406”、北海道帯広発祥のご当地グルメ豚丼の“とんたん”などを展開しています。エンターテイメントレストラン以外の店は、将来、頑張ってくれたスタッフに譲っていくつもりです。十分に採算が取れるようになった店からです。テーマ系の店は、出店にもそれなりの資金がなくてはなりませんが、他の店は、資金もそれほどかからない。だから、二号店、三号店と出店していくことが可能なんです。実際の契約は、フランチャイズとは違い、もう少しゆるやかな関係になると思います」。
社長となれば、4ケタの年収も可能になる。その年収を手にできるようにするのが、社長横川の今の目標の一つだ。

「すかいらーく」誕生より41年目。

一つの時代が終わり、また新たな時代が始まる。その時代は、飽食な時代を卒業した日本人が求める<次なる食文化の時代>と言えるかもしれない。かつて父や叔父たちが日本の食文化に吹き込んだ新たな風。その風とは違った風を横川は起こしていくのだろう。この取材をさせていただいたのは、2011年8月。ちょうど「すかいらーく」誕生より41年が過ぎたばかりだ。ここにも、たしかに創業者たちの志が受け継がれている、と思った。

思い出のアルバム
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