株式会社鮒忠 代表取締役社長 根本 修氏 | |
生年月日 | 1970年5月24日 |
プロフィール | 東京都中野区生まれ。祖父の代から続く名店「鮒忠」の長男として誕生する。小学生時代からサッカーを習い始め、中・高と続け、大学でも同好会に参加する。その一方で大学時代にはジェットスキーにも熱中。熱中しすぎたばかりに学生生活は7年間に及んだ。大学卒業後、アサヒビールに入社。4年間、薫風を受けたのち、「鮒忠」に入社。三代目社長として、社内の改革にも注力。33歳の時、二代目が他界し、「鮒忠」三代目社長に就任する。 |
主な業態 | 「鮒忠」「雷うさぎ」「ほおずきや」他 |
企業HP | http://www.funachu.co.jp/ |
「焼き鳥の父」と言われる人がいる。今回、ご登場いただく根本 修の祖父、根本忠雄氏だ。焼き鳥は戦後の焼け野原から日本が復興していくなかで庶民の間で流行する。ただ、当初は鶏肉が高価な食材で、代わりにガラ、スジ肉、あるいは雀を使っていたそうだ。
そんななか祖父、忠雄氏は、儲けを度外視して鶏肉を使った「焼き鳥」を売り出す。これがヒットし、後に「焼き鳥の父」と言われるようになるのである。
もう少し祖父の話を続けよう。1946年に復員した忠雄氏は。同年9月1日、浅草千束に川魚料理の店「鮒忠」創業する。ところが、冬場になると肝心の川魚が捕れない。それで、鶏肉を串焼きにした「焼き鳥」の販売を開始する。その一方で「鶏丸むし焼き」がヒットする。1951年に法人化し、初代、代表取締役社長に就任する。この忠雄氏の後を継いだのが、根本の父。父は引き継いだ「卸」「ケータリング」「レストラン」の3事業を軸に業績を伸ばしていく。その父から根本は33歳の若さで会社を引き継いだ。
では、いつも通り時計の針を根本が生まれた時まで戻してみよう。
「鮒忠」三代目となる根本が生まれたのは、1970年5月24日。鮒忠はすでに名店と言われていた。「父は厳しく、祖父は柔和な人でした」と根本。父も、母も浅草生まれで、生粋の江戸っ子だった。根本が3歳か、4歳の頃に、家族はいったん東京を離れ千葉の市川市に引っ越しをしている。
当時の根本は、どんな少年だったのだろう。本人曰く、「ヤンチャで手に負えない少年」だったらしい。「ガキ大将で、いつも誰かをいじめていた。勉強はキライ。やってないし、やってもできなかったから」と言って笑う。ワンパクな少年像が、目に浮かぶ。小学校になるとサッカーに没頭した。中学・高校でもサッカーを続け、大学でも同好会に入っている。ただ、レギュラーとして颯爽とピッチを駆ける少年ではなかったようだ。「なかなかレギュラーにはなれなかった」と悔しげに話す。それでもサッカーから離れなかったのは、根っからサッカー好きだったからだろう。
ただ、大学生になると、サッカー以外にジェットスキーに興味を持ち始めた。大会にも出場している。その一方で、アルバイトにも精を出す。ガソリンスタンドや飲食店でも働いた。ただ、不思議なことに「鮒忠では一度もバイトをしようと思わなかった」そうである。
興味の向くまま、アレコレと精を出しているうちに、4年間が過ぎた。それでは足りないとばかりに、結局7年間、学生生活を送っている。「当時は留学したいと思っていたんです。でもなかなかチャンスがなく、7年間もズルズル大学生を続けてしまいました」。
就職先は、すんなりアサヒビールに決定した。
「私が配属されたのは大阪です。それまではずっと親許で生活していましたから、大阪に行くのが楽しみでした。でも、実際に赴任すると、朝から晩まで仕事です。一人暮らしを楽しんでいる余裕はありません。寮には寝に帰るだけでした」。当時、アサヒはキリンとの首位争いの真っ最中。根本が入社して2年後、アサヒはついにキリンを抜き、売上、堂々1位になる。根本も、その一端を担っていたわけだ。アサヒビール時代は、大学より早く過ぎた。「4年でアサヒを卒業して、鮒忠に入りました。修行期間終了です」。
飲食でも世代交代が進んでいる。ただ、名店と言われる店の場合、ベテランの職人を抱えているケースが多く、次代経営者よりも、社歴も、キャリアも当然、彼らが上回っている。根本も同様だが、いったん外に出て修業を積んだとはいえ、まだまだ若い跡取りをベテランたちは白い眼で迎えがち。跡取りが改革に乗り出そうとすれば、尚更だ。
「平社員からスタートしましたが、周りの目が気にならなかったといえばウソになります。考えながら行動し、苦労もすすんでしました」。そんな姿勢が評価されたのだろう。2年目には取締役に名を連ねることになる。そんな時、社内で問題が起こった。
「この問題が契機となり、そこから鮒忠の大改革が始まります。役員の総入れ替え、事業部の設立。退職金も廃止しました。まさに改革ですね。問題があり、改めて根本家で責任を持っていこうと。そしてみんなの手で建て直していこうと。父親が先頭に立って、我々が補佐しながら、組織を作り変えていきました。ただ、その改革の途中に父親が病になり、他界してしまったんです。私が、入社4年目のことです」。
社長になったとたん、いままで見えていないことが見えてきた。それは頂に登ったことで初めて見える世界があるのと同じだろう。むろん綺麗な風景ばかりではない。社長という肩書が、重くのしかかった。「会社をみないといけない。幅広い目を持たないといけない。祖父や父の苦労を初めて実感できた気がします」。老舗の名店の三代目である。ある意味、誰もが羨むポジションだが、その一方で、苦労も絶えないようだ。
「誰でも、得手不得手があると思うんです。だから、無理にこれをしろ、あれをしろとは言わないようにしています。もちろん最終ジャッジは私が行うわけですが、みんなの意見もちゃんと取り入れる、そういうスタイルの経営をしていこうと思っています。ロゴは6年ほどまえに変更しました。2年前に寮を改装して本社にしました。少しずつですが、鮒忠は生まれ変わり始めています」。
むろん、変わればいいと闇雲に思っているわけではない。「鮒忠らしさや、昔ながらの良い部分をいままで以上に引き出し、未来に、しっかり伝えていきたいと思っています。歴史を守ること。これもまた私たちの大事な使命だと思うからです」。
三代目となり、7年。「焼き鳥の父」である偉大な祖父から、そして父から引き継いだ、「鮒忠」当主の座。ただ、引き継いだだけでは意味がない。発展させて、初めて継承した意味もある。
「今年は攻めていきます。直営店をのばすなど方法はいくらでもありますから」。
すでに根本も40歳。社長職も7年目を迎え、脂も乗っているところだ。「鮒忠」三代目が披露してくれる次の展開に、注目したい。
根本はこう振り返る。
「父も、母も、私を大事に育ててくれたと思うんです。でも、干渉はされなかった。好きなようにやればいいと。たぶん、私を信用してくれていたからでしょう。私もまた、部下たちを信じ、みんなで一つになって鮒忠という歴史ある店や会社を未来に残していきたいと思っています」。
実際に、父と一緒に働いた時間は少なかった。ただ、父はしっかりと「人の育て方」「経営のあり方」を、自らの生き様を通し息子に伝えていたようだ。
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