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第244回 株式会社あさくま 代表取締役社長 森下篤史氏
update 11/10/04
株式会社あさくま
森下篤史氏
株式会社あさくま 代表取締役社長 森下篤史氏
生年月日 1947年2月13日
プロフィール 静岡県生まれ。静岡大学教育学部卒業後、大手レジスター会社に就職し、トップセールスとなる。1983年、共同精工(現キョウドウ)を設立。その後、1997年、中古厨房機器販売の「テンポスバスターズ」を設立。設立5年後の2002年12月にジャスダック市場に株式上場。 2006年、名古屋市を中心に展開するステーキレストランチェーン「あさくま」と資本・業務提携。2008年、代表取締役社長に就任し、本格的に「あさくま」の再建に乗り出す。現在、株式会社「あさくま」を含め、テンポスバスターズのグループ会社は、16社。テンポスバスターズに続く上場予備軍も数多くある。
主な業態 「あさくま「BISTROT」
企業HP http://www.asakuma.co.jp/

鉛筆や消しゴミのカスが妹の入学式のお祝いだった。

兄弟仲がいい。長女がいて長男の森下。弟と妹が続く。森下が小学4年生の時に母が急死した。2年後父は再婚し、いまの母が後妻となるべく森下家の軒を潜った。「ガキ4人の家に来てくれて申し訳なくてさ。俺は一度だって、何かを欲しいなんて言えなかった」。父は役場勤め。生活が苦しいわけではなかった。「だけど俺には言えなかったんだ。母は学校の先生だからさ、通信簿をつけている時なんか、夜中の2時、3時まで仕事して翌朝にはガキ4人の弁当こしらえるんだから頭が上がんなかったよ。いま、あさくまでバツイチ手当っていうのを支給しているんだけど、それはかあちゃんから、女性の強さを教えてもらったからなんだ」。「そういや、妹はいまでも文句を言うんだよ。俺たち上が、かあちゃんにおねだりしないから、妹も我慢していたんだろうね。にいちゃんたちがくれた小学校の入学祝いが、ちびった鉛筆と消しゴミのカスだった時は、さすがにびっくりしたね。弟と一緒に教室の掃除のたびに拾ってビニール袋に入れていたんだ。だから、気持ちはたっぷり詰まっていたんだけどさ(笑)」。母は学校の先生、5人兄弟だったが、1人は幼くして亡くしている。

片道1時間45分の通学に根を上げる。

大学に行くため、愛知県まで通学した。「地元にはいい高校がなくて、大学に行くなら県外に行かなければならなかったんだ。ねえちゃんは、俺とおんなじ愛知に行って、下2人は長野の高校に行った。でも、通学がさすがに耐えがたく、『勉強する時間がない』って親に泣きついて、下宿住まいを許してもらったんだ。情けねぇよなぁ。俺と同じところから通学していた2人の女の子は3年間通い通したもの。ほんとに、オレはまだ、そんな情けない男だったんだよ」。いまでも、めげそうになると、その時の女の子2人を思い出す。2人が、「また、めげちゃうの、情けないよ」と囁きかけてくるからだ。ところが、まだ当時は、まだまだ「情けねぇ男」を抜け出せない。

教員試験、面接当日、まさかの寝過ごし。

高校を卒業した森下は、静岡大学に進んだ。教育学部。今度はとても通える距離ではない。ハナから寮で暮らした。「教師になるなら大学に行かせてやる、と父親はいった。役場の人間だから考えが堅いんだ。最初は俺もそのつもりだった。だから、教師の試験も受けた。筆記は合格したんだけど、面接試験の当日、11時からなのに目が覚めたらもう過ぎていた。チンタラ、ダラダラした生活していたから、ピシっとしていなかったんだ。男としても、学生としても。それで結局6年かけて卒業するわけ。就職は、地元の会社ならどこでもいいやって思って」。学生時代、企画力やリーダーシップはあった友人とイベントを企画したことも少なくない。ただし、と森下は振り返る。「瞬発力はたしかにあったんだけどね。困難に立ち向かい続ける継続力がなかった。情けねぇ極みだね」。

まったく売れない情けない男がいきなり…。

「情けねぇ青年」を拾ってくれたのは、東京電気(現東芝テック)だった。すでに株式は上場済。どこでもいいと思っていたが、案外、一流企業へ就職できた。だが、就職してからがたいへん。「ちぃーとも売れない。成績はもちろん最下位。当時、同期が35人くらいいたんだけど、ダントツのドンジリ。手を抜いていたわけじゃなかった。ちゃんとお客様のところは回っていた。でも、役場勤めの親父を見て育っただろ。俺も案外、まじめでさ。断られたら、あ、そうですかってなっちゃうんだ。そりゃ売れないよ」。そんな森下が2年目に化けた。「ところがさ。2年目に突入する頃のことだよ。俺はもう駄目だって思って中小企業診断士の資格を取ろうと一念発起するんだけど、それも挫折してさ、もうどうするかって時に、新商品が導入されたんだ。東芝テックっていうのはレジスターの会社なんだけど、あの時の商品はいままで格段に性能が良かったんだな。商品がいいから、ちゃんと回っているだけで売れたんだ。月に1台ペースだったけど、値段も格段に高かったからね。ドンべだった俺が7番目になっちゃった」。

暴走機関車に変身する。もう、だれも止められない。

2年目になって、突然、売れ出した森下は、昇格し2人の部下を任された。こうなると、やる気も突然、出てくるから不思議だ。元々、人に教えるのが好きなタイプ。部下2人を任され、熱が入る。勉強会を開き、教え始めた。部下に教えた知識は、彼らより、森下の血肉となった。それが功を奏し、全国4位の成績を収めてしまう。「ダメダメなんだけど、調子がいいんだよ俺って男は。それで部下ができたら恰好つけて『てめぇらついてこい』なんていっちゃって。ドンドン売っちゃう。おまけに、奴らに教えることで勉強するでしょ。それが俺の知識になった。全国で4位になったら、もっと森下に売らそうってわけで部下をあと4人に付けられた。もう天狗だから、よしよしって。で、今度は全国1位になっちゃった」。それから3年、森下は東芝テックで、トップの座を独占した。「当時は粗利が指標だったんだ。だから、何を売っても利益を上げりゃいい。で、俺は、みんなが1台50万円のレジを売っている時に、3500万円のオープンケースを売ったりしていたんだ。レジ10台で200万円の粗利、オープンケース1台で500万円、合わせて、粗利700万円。だれも追いつけないよな」。いったん走りだしたら止まらなくなった。レジスターやPOSシステムだけではなく、自社商品以外も開拓し、とにかく売った。「寿司とおにぎり」のマシンを売り出し、TVで取り上げられ、機嫌よくインタビューに応えていたら、あとで「いつからうちの商品が変わった」と本社から怒鳴れた。レジに使うロール紙も、本部より安く作って販売網に乗っけてしまった。サプライ用品を担当する部署から当然、クレームが入るのだが、売上・利益にクレームの声はかき消された。ついにはサプライ担当者が支払いを止める暴挙に出る。「だから、何一つ悪いことをしていない俺は、本社に乗り込んだんだ」。森下28歳の頃である。

会社をおん出された、小心男。

本社に出向くと、「おまえをこれ以上野放しにできない」と本社勤務が命じられた。営業本部勤めになったが、それで止まる機関車ではない。もともと販売スキルが違う。やりたい放題。スキーのリフトまで販売した。利益もすさまじかったが、赤字も出した。リース契約した会社が倒産し、大幅な赤字を叩き出したことがきっかけになり、「おまえがいると会社が潰れると、ついにおん出されてしまった(笑)」。森下32歳。もともと生真面目。野心家でもない。会社を興そうと思ったこともない。そんな森下である。社員6人の食器洗浄器販売の会社が、「専務で」と誘ってくれた時には、心底、救われた思いがした。1年間で売上を4倍に、利益を6倍にした。従業員も6人から24人に。ところが、それが原因でクビになった。「社長が会社を乗っ取られると思ったらしいんだ。乗っ取るつもりはないし、独立する勇気もない。会社に入れてもらってよかったと思っていたのに。仕方ないから一緒に追い出された3人で、共同で共同精工(現キョウドウ)という会社を作った」。これが森下、初の起業である。

独立、そしてテンポスバスターズ創業。

1980年、森下33歳のことである。前職で扱っていた食器洗浄器を仕入れて給食センターなどに販売した。ところが、売れ行きが伸びると仕入れ値をつり上げられた。80万円で仕入れていた商品が120万円になり、5台以上まとめて買えと迫られる始末である。しかも、現金払い、検査もこちら負担ときた。さすがに、ため息が出た。自社開発に乗り出した。それが功を奏す。すぐに100人規模の会社になった。「ところが、開発担当者がいなかったんだね、いいのが。それでフライヤーから煙が出て、ボヤ騒ぎを起こしたりして。バブルが破裂して、業績もだんだんと悪化。多角化でなんとか乗り切ろうと回転寿司店、英会話学校などをやったんだが、どれも上手くいかなくってね。そんななかで一つだけ、TVで観た家電製品のリサイクルをヒントにして始めた、厨房機器のリサイクルがあたったんだ」。これがのちに上場するテンポスバスターズの始まり。創業は1997年。創業より5年後の2002年には、株式を上場するに至っている。森下55歳の時である。

カリントウが減っていく。

2011年現在、森下は64歳になる。だが、まだまだ現役だ。あさくまに資本・業務提携を仕掛けたのはその査証だろう。2006年に資本・業務提携。2年後の2008年に代表取締役社長に就任。本格的に再建の指揮を執り始めた。森下の履歴同様、経営の発想も実にユニークだ。高齢者の女性を活用し、若手社員たちも驚く成果を上げさせている。それだけではない。チカラがあってもなかなか上手くいかないまま燻っている経験豊富なベテランスタッフを外部から登用し、人の再生まで行っている。最盛期120店舗あったあさくまも今や30店舗しかない。だが、それが逆に森下を挑発しているはずだ。店が毎夜泣きながら言うんだよ。「俺をもう一度再生してみろよ」と。最後にストレス解消方法を聞いてみた。すると「カリントウ」という答えが返ってきた。「会社で強がって社長をやっているだろ。だから家に帰ってほっとしたい時があるんだよね。そんな時、気がつくとカリントウを食べている。一袋なんてあっという間」。ストレスに比例してカリントウがなくなっていく。なんとも森下らしいエピソードだ。だが、そんな風にオンとオフを使い分けられること自体が森下の強みだと気づいた。「情けねぇな」と形容する高校時代から、すでに46年が経つ。だが、情けなかった当時を今も忘れていない。ひょっとすれば、森下はまだ、その情けなかった自分と戦い続けているのかもしれない。これが、漢(オトコ)、森下の生き方だといわんばかりに。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
中学3年のころ(写真左)。写真右は現テンポスバスターズ代表森下和光。 1998年頃。キョウドウ創業から5年ぐらい経過。 1990年頃。キョウドウ展示会。
思い出のアルバム4  
2000年。通商産業省(当時)のニュービジネス大賞を受賞。    

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