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第245回 株式会社ユウシン 取締役社長CEO 兼
株式会社マック  専務取締役COO 國松 晃氏
update 11/10/11
株式会社ユウシン
國松 晃氏
株式会社ユウシン 取締役社長CEO 兼
株式会社マック  専務取締役COO 國松 晃氏
生年月日 1975年12月30日
プロフィール 東京都練馬区に誕生。17歳の時に街でスカウトされ、雑誌やTVで活躍。25歳で芸能界と決別し、その後、カラオケ店でのバイト時代に、ユウシンの代表取締役である川島賢氏に見いだされ転職。入社後は、川島氏の薫風を受けつつ経営者としての実力を磨き、2011年5月、同社の社長に就任する。
主なプロデュース 「情熱のすためし」「だるまのめ」「油そば総本店」「鉄板王国」「カラオケマック」「カラオケマック館」
企業HP 株式会社ユウシン
http://usingroup.jp/
株式会社マック
http://www.k-mac.jp/index2.html

親子の貴重なキャッチボール。

今回、登場いただく株式会社ユウシン取締役社長CEO 國松 晃が誕生したのは1975年。出身は東京練馬区。父と母は駆け落ちするようにして結婚し、若くして國松を生んだ。住まいは、母方の実家から5分とかからない距離。幼い頃は、両親に代わって祖父母が一人っ子の國松を育てた。「父親に遊んでもらった経験がないんです。キャッチボールを1回やった、それぐらいでしょうか。居酒屋をやっていたので、朝まで仕事をしていたんです。だから疲れていたんでしょうね。休みはゴロゴロしているだけなんです」。当然、旅行や家族そろっての外食もない。それどころか食卓を囲むことさえ稀だった。家族サービス、ゼロ。貴重な1回きりのキャッチボールを少年國松は、どういう風に捉えていたのだろうか。

モテモテ期。

小学校の頃から「社長か、俳優に」と思っていた。社長は良くある話だが、俳優はそうない。それだけタレント性がある少年だったのだろう。「中学は中・高一貫の私学です。背が低かった1年の時はそんなでもなかったんですが、2年になって背丈がのびると急に女の子たちに騒がれるようになりました」。中・高一貫だから、高校生からの影響もモロに受ける。しかも都内の私学。遊びも派手だ。裕福な家庭の子息が多い。なかには大企業の経営者の子どももいて、1日に数万円の小遣いを使う。慣れてくると、それに違和感もなくなった。そんな仲間たちとつるんで遊んだ。「だれがいちばん多く女をつくるかで競ったりしていましたね。ぼくは人気があったんで当時9人の女の子と付き合っていました。毎日、交代でお弁当を作らせたりするんです」。そんな時、1人の少女が國松のまえに登場することになり、その途端に國松は純粋な少年に戻る。

奥様との出会い。

「父が家族を顧みることもできない人だったんで、オレは、ちゃんと子どもたちと食卓を囲めるようになってから結婚しようと思っていたんです。それで結局、14年も彼女を待たせてしまいました(笑)」。16歳から付き合い始めた2人は、30歳になってようやく結婚。この、彼女が、國松の人生の岐路になんどとなく登場することになる。「最初に出会ったのは高1の時だったんです。たまたまガムをあげたら喜んでくれて。それが、とても新鮮に映ったんです。一目惚れっていうんでしょうね。いっぺんに好きになりました。それまで付き合っていた9人の女の子とスグに別れたぐらいですから(笑)」。ところが、カンジンの彼女と会う術がない。再開は1年ほど先になる。「偶然、パーティで再開するんです。で、1年間、思い続けてきたことを告白しました」。

モデル時々、役者業。

彼女も後にモデルをするぐらいだから、美男美女だったんだろう。付き合い始めた2人が仲良く渋谷を歩いている時にスカウトされた。「最初は、彼女がスカウトされたんです。でも、彼女に渡された名刺を取り上げて(笑)、ぼくが事務所に電話をしました。一応、どんなところか、確かめておこうと。軽い気持ちだったんですが、最初からトントンと仕事が決まり、TVCMも決まって。高校3年生の時の初任給が100万円でした」。順風満帆。大学にも進学せず、モデルの道を進んだ。売れると有頂天になり、金銭感覚も、人生の平衡感覚も、おかしな調子になっていた。「ある時、調子に乗っていたんでしょうね。ディレクターの悪口をいってしまったんです。それが相手の耳に入ってしまって。いっぺんに干されてしまいました。もう、見事なほどに。この時は、土下座までして許してもらうんですが…」。芸能界は、華やかなだけではない。ドロドロした人間模様もたしかにある。國松もまた、その洗礼を受けたことになるのだろうか。「モデル時代は決してマイナスじゃなかった。いろいろなことを経験できましたから。いまでも、あの時の経験は役立っています」。「その後、役者に転向しようとするんですが、2ヵ月で給料が5万とかです。あれもまたいい経験でした。もっとも、それでは生活ができないので600万円ほどの借金をつくってしまいましたが(笑)」。

役者を辞め、社長をめざす。

小学校の頃から社長か、俳優か、と思っていた。俳優には一応、なった。代役ながら舞台で主役をはったこともある。経験も積めた。おなじ事務所で、いまやメジャーな俳優も少なくない。だが、國松は25歳の時、あっさり俳優業を辞めた。「25歳の時に、マネージャーが会社を辞めてしまったんです。それでオレも同じように事務所を辞めてしまったんです」。その後、俳優業から足を洗い、カラオケ店でアルバイトを始めた。ここでも奥様が登場する。「もともと彼女が働いていたんです。忙しいっていうから、彼女を少し手伝うつもりで始めたんです」。今度も気軽なつもりが、スグにいろんなことが気になりだし、それを実行すると周りから評価された。「古いカラオケ店だから、壁に穴だってあいているんです。そういうのを段ボールで塞いだりしました。当たり前のことしかしませんでしたが、サービスも少しずつ改善しました」。売上のアップを目論んでいたわけではない。だが、評価され、店長を任されるようになる。そんな國松を一人の男がみていた。「社長になる」というもう一つの目標の入り口に立ったのは、その時だった。

もう一つのスカウト。

もともと、このカラオケ店は(株)ユウシンが経営する店舗の一つ。思うように業績が伸びずやむなく売却した店舗だった。ところが、風の噂に「客が入りだし、業績もいい」という情報が、元オーナーの川島氏の耳に入った。川島氏は首を傾げたことだろう。その理由が國松という一人の青年が入店したことによるものだと知り、引き抜きを決心する。「何度か店にも来てくれました。最初は『時給1000円でどうだ』と言われました。たしかに少し高かったんですが、その時は少しばかり自信も出てきて、いつかこの店を買い取ってやろうと思っていた頃なんです。借金もあったんですが、貯金も実は200万円ぐらいあったんで、買い取れると思っていたんです。だから、もちろん首を横に振りました。すると翌日またいらっしゃって『1500円でどうだ』と。最後には『2000円で』と言われ、熱意にもほだされ、それならってオファーを受けることになりました。時給制でしたが何しろ2000円ですから、月60万円ぐらいにはなりましたっけ」。社長の目標はいったん横に置きつつ、ユウシンでの仕事が始まった。

月450時間。会社に寝泊りする日々。

才能があったのだろう。でも、それだけでもない。熱意も、情熱もあった。いきなり任された店舗の売上を伸ばしたことで、スグに月給制の社員に昇格。給与は60万から25万円に減ったが、それでも文句はいわない。もともとお金のために、というタイプではない。海千山千の芸能界で、自らを売り込むことと比べれば、造作もないことだった。1年後には、4店舗を同時に任されるようになる。26歳の頃の話。考えてみれば、モデルから転身してまだ1年しか経っていない。「月に450時間は働いた」と國松。「会社に寝泊りしていました。とにかく頑張った。だいたい居抜きで、それも大手のカラオケ店の横に出店するんです。それで、同様のサービスで料金を下げたり、利益を還元したりして。飲み放題やフリータイムなど、失敗を恐れず試みました」。「責任は持つ。だから自由にさせて欲しい」。そんな気持ちが社長の川島氏の心とシンクロする。片腕と認められ、専務になり、副社長になっていた。

新宿6店舗同時オープンを仕掛ける。

「実は、社長になったのは最近なんです」と國松は笑う。5月に川島氏から社長の席を譲られた。川島氏のほうが5歳上。それほど年が離れているわけではない。一人っ子の國松にとっては兄貴のような存在だ。そんな兄貴を慕いつつ、社長となった國松が今回、新宿6店舗同時オープンを仕掛ける。「たまたま物件が揃って」というが、6店舗同時は大仕事である。「人の採用だけでたいへん」と本音を漏らす。だが、口では、たいへんと言いつつも、社長になって初めての大仕事をまえに、楽しくて仕方ないという表情をする。心の底から零れた笑みだ。その笑みが、人を魅了する。モデル・役者から転身した社長。その今後に期待したい。

國松からのメッセージ

僕は学も無く、キャリアも全て0からスタートした。第二の僕を社内に作っていくのが今の楽しみです。
目の前のお客様に満足して頂く。
そんな当たり前の事に夢中になりながら一緒に夢をかなえていける仲間を集めていきながらお客様の事を常に考えて行動する集団を作りたい。
そして、なにも無いところから価値を作っていく
笑いや幸せを生んでいく。
その為の努力がつらく楽しいんですが、結果的に喜んでもらえたら、それでいい。
おいしい店を作りたいのではなく、無くては困る様な店を作って行きたい
あの店なんかいいよね。みたいなトータルの満足感で十分です
そんな仕事をしていきたいですね。
手を上げた人間にはどんどん仕事を任せて行きたい。そして、将来的には海外への展開や社員の独立支援等も考えています。

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