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第247回 株式会社未知インターナショナル 代表取締役 水本弥知秀氏
update 11/10/18
株式会社未知インターナショナル
水本弥知秀氏
株式会社未知インターナショナル 代表取締役 水本弥知秀氏
生年月日 1971年5月26日
プロフィール 大阪府岸和田市生まれ、和歌山県田辺市育ち。和歌山の自然に囲まれ、幼少期を過ごす。小学生から新聞配達の仕事を始め、5年間続けている。18歳の時にドラマ「HOTEL」のホテルマンと都会に憧れて大阪市内にある「堂島ホテル」に就職。25歳で独立開業を果たし、株式会社未知インターナショナルのルーツとなる一軒のワインバーを開業。現在は、お菜屋「わだ家」など多彩な店舗を経営するほか、飲食店開発・運営のプロデュース・コンサルティングまで、幅広い領域で活躍している。
主な業態 「きのこの里」「カフェ シャルボン」「ヴァンド・キッチン」「ASIAN DINING KUUROO」「わだ家」「麺匠 味冨久」
企業HP http://vk-michi.com/

和歌山県田辺市に生まれる。

in-職hyperの人気コーナー“クロスα”で「株式会社がんこ」の代表取締役会長 小嶋淳司氏をご紹介したことがある。年齢は違えども、この小嶋氏と同郷で、食堂を経営する水本の母親は、小嶋氏の実家が営むよろず屋から商品を購入していたという。水本は2歳の時に父親を亡くし、母の実家である和歌山に引っ越した。食堂は、母が一人で切り盛りする小さなお店だったようだ。水本には、腹違いの兄と妹がいる。兄とも、妹とも14歳離れているから、兄弟といっても一緒に遊んだ記憶はほぼない。むろん、和歌山で幼少期を過ごしていた時には、水本一人きり。「まるで一人っ子のようでした。友だちと遊んでばかりいました。勉強の方はどうだかわかりませんが、スポーツは万能でした」。豊かな自然のなかを駆け回り、強く逞しい少年になっていく様子が伺える。

岩蟹、カブトムシの幼虫がうん千匹。

食堂の裏に家があった。広い庭がある。その庭で水本は、岩蟹何千匹、カブトムシの幼虫何千匹、鯉、鰻、ザリガニを飼っていた。「小さな頃は、生きものに携る仕事がしたいと思っていました。岩蟹は、親戚が釣具店をやっていたので、そちらに買い取ってもらっていました。小さな頃からお小遣いをもらったことがないので、お小遣いは、そうやって調達していました(笑)」。
小学校高学年になると新聞配達も始めた。朝と夕方。朝日と夕日を浴びながら、少年は毎日、黙々と駆けていたのだろう。結局、5年間も休むことなく続けている。

ドラマ「HOTEL」の主人公に憧れて。

中学2年生になった水本は、メンバーを集めバンド活動を始める。担当はギターか、ベース。「私は、とにかく最初に憧れがあり、その憧れを追いかけるようにスタートする性格なのでしょう。この時、バンドを始めたのも、きっかけはC.C.Bのベースに憧れたことでした」。もちろん、単なる憧れではなかった。本気でミュージシャンになろうと思っていた。そんな水本の気持ちを変えたのは「HOTEL」というTVドラマ。「18歳の時にTVで『HOTEL』を観てホテルマンってカッコいいと思ったんです。高校も地元だったので、都会への憧れもありました。それで二兎を追いかけて堂島ホテルに就職したんです(笑)」。「田舎者ですから、フォークとナイフで食べたことなんてない。そんなまったくの素人からホテル業スタートです」。

仕事も、遊びも、本気モード。

「寝ずに遊んでいた」と水本は当時を振り返る。何しろまだ18歳。憧れの都会でエネルギーを発散する。「ボストンバックを担いで出勤しました。出勤はスーツでなければいけなかったからです。バックのなかには私服が入っています。仕事が終われば、着替えをしてディスコにゴーです」。このディスコ通いが、次の道を開いた。
「ディスコ通いの毎日です。当時の手取りは11万円ぐらい。給料の大半がディスコでなくなくなりました。この時、ディスコで、またまた憧れの対象に出会ったんです。人ではなく、VIPルームでした。いつか、オレもあの部屋に入れるようになってやろうと思ったんです」。 
これがハタチの時。むろん、簡単にVIPルームの住人になれるとは思っていない。覚悟を決めた。
「それ以来、上司としか仕事の話はしなくなりました。同僚とは、どうしても愚痴になりますから」。独立のために真剣に仕事に打ち込んだ。
何かを真剣に追いかけるためには、何かを捨てる覚悟がいる。この時、水本は何を捨てたのだろうか。
「堂島ホテル」では当初、レストランに配属されたが、その後、バーテンダーや営業に配置転換されていく。仕事も、まだまだ遊びも、本気モード。だが、VIPルームはいつまでも近く似あって、遠い場所。3年後、水本は独立を決意する。

14歳、離れた兄に従事する。

独立を志し、「堂島ホテル」を退職した水本は、さっそく開業のために物件探しを開始した。「でも、なかなかいい物件がみつからなくて。それで、すでに大阪で飲食店を経営していた兄のもとで、アルバイトを開始したんです」。
「結局、兄のもとにいたのは2年間です。ただ、この2年間が私のベースになっています。飲食のイロハは全部、兄から教わりました。兄といっても、仲良く遊んだ記憶もない。血はつながっていても、兄というより社長と呼ぶほうがしっくりきました」。
この兄の下でケータリングサービスを学び、売上を4倍にのばした。自信がつき、独立を再度決心。だが、資本はゼロ。母に頼って300万円を借りた。

アメリカ村の路地に咲く。

大阪、西心斎橋にアメリカ村がある。メイン通りから路地に入った雑居ビルの2Fの7.5坪。水本の独立は、そこから始まった。「なにしろ、資金が300万円です。安いところしか借りられない。でも、店さえ開けば1回来たお客さんは1週間以内に再訪させる自信がありました。業態はイタリアンバル。店名はフランス語でワインを意味するヴァンをつけ、『ヴァン・ド・キッチン』にしました。いまでこそバルが流行っていますが、当時はそんな店はありませんでした。私は料理ができなかったんですが、ホテル時代にオイルサーデンの作り方を教えてもらっていました。それがメイン料理です」。
この時、水本は、再訪させる自信をもとに2つの試みを行っている。
一つは、イタリアンバルという当時、珍しい業態の開発だ。7.5坪、決して広くない店内だが、立ち飲みスタイルなら入店できる人数は増える。そればかりか、雑多で、喧噪ともいえる雰囲気が、陽気なイタリアというイメージをつくりだすことも想定していたはずだ。
もう一つは、一人で行えるサービスを基本にワインをメインにしたことだ。「ワインは栓を開ければ、後はお客様が勝手に飲んでくれるでしょ」と、笑う。
この2つが客の心をとらえた。1ヵ月目の売上こそ低かったが3ヵ月目には満席になり、半年後にはオープン前から行列ができるようになった。何人もの常連が生まれた。アメリカ村の路地に、水本の1号店は見事に開花したことになる。

時代の寵児、その前夜。

もう少し1号店の話をしよう。水本が店を開いたのは25歳の時だから、1996年のことである。当時の日本のワイン事情は、どうだったのだろう。いまでは、カリフォルニアやチリ、またインド産なども見かけるようになったが、当時はまだまだヨーロッパワインが主流で、高価なモノだったのではないだろうか。そんななかで水本はブルガリア産に目をつけた。珍しい一方で、安価に提供できたからだ。「安くて旨いワインを飲ませてくれる店がある」とソムリエたちが口コミで広げてくれた。
一方で、女子力を使った。「女の子が来れば男は必ず来ることがわかっていましたから。お客様なんですが、女の子に手伝ってもらったりしていました。距離感がなくなることで、女の子たちは自分の居場所だと思ってくれるようになりました。そんな女の子がたくさん増え、週刊誌にも掲載されました」。「それ以外にも、お客様に料理をつくってもらったり、教わったり。何しろ一人ですから、お店を休んだことといえば、倒れた時以外ありませんね(笑)」。
ともかく水本の人間性が人を引き付けたのだろう。7.5坪の小さな店のなかが満員になり、連日連夜、宴が続いた。まるで、その後、時代の寵児となる水本の前夜を祝福するかのように。

スピード出店。だが。

この1号店成功後、水本は出店を重ねると同時に、プロデュースや食材の卸も手がけるようになる。実は、「堂島ホテル」にも再度、誘われた。「堂島ホテル」は何度か経営が替わっている。水本が7店舗程度出店していた時に、新たな経営者から誘いがあった。今度はプロデューサー的な立場だった。食材も卸した。ただ、経営元が破たんし、水本も1000万円程度、損害を受けることになる。
一方、5店舗目を出店する際にも注目を集めている。梅田の50坪、1F路面店。誰もが大手資本が取ると思っていた。にもかかわらず蓋を開ければ有限会社が、勝ち取った。むろん水本だ。何故だ。敗れた大手を始め、多くの業界人がそのわけを知ろうと来店した。そのなかの一人が、次の爆裂を生むきっかけを与えてくれた。
「当時、『ちゃんと』が猛烈に出店していました。カッコいいなと、ちょうどそんな時に、出店を支援するような会社の社長と出会い、1年で9店舗、いっきに19店舗まで拡大していくんです。」
出店は順調だった。利益も上がった。だが。

和田アキ子が飲食店をやろうとしている。

「19店舗になった時に何かが違うなって思い始めたんです。店をつくることがゴールになっていました。ほんとうは、開店していらっしゃったお客様を喜ばせたい、そう思っていたのに、です。それで、ただ店をつくるのではなく、もっと、おもしろい店をつくろう、と、店舗は縮小し、プロデュース業を本格的に始めました」。
この時、リリースした店が評判になる「赤ちり亭」だ。この後、プロデュースの領域で水本の卓越したセンスが発揮されていくことになる。
その代表作は、「わだ家」だろう。
「異業種交流会で知り合った方から、和田アキ子さんが飲食店をやりたがっている、という話を2、3度振られました。最初は、声をかけていただいているとは思いもよりません。何しろアッコさんのお店ですから。ところが、相手が本気だということが分かった。えらいこっちゃ、です。でも、評価してくださったわけだし、チャンスだから逃げ出すわけにはいきません」。
「それからです。アッコさんの行きつけの店をベンチマークして好きな料理を調べ上げました。アッコさんは太っている人が嫌いと風の噂で聞いて、ほんとかどうかわからないけど、ダイエットして10キロ以上落としました(笑)。とにかく必死です」。
店作りにこれほど真剣になったのは、水本の飲食人生においても初めてだったに違いない。和田アキ子というビッグネームと仕事ができる、その高揚感だけではない。出店した店舗を縮小してもやりたかった「おもしろい店づくり」。大げさにいえば、水本そのものが試される挑戦だったからだ。
だが、店の善し悪し判断するのは和田アキ子氏。飲食のプロではない。売上や利益などの指標と同様に、好き嫌いというモノサシもあるはずだ。「アッコさんがNOといえば、それで終わりですから。およそ1年半。アッコさんご本人と会うまでにそれだけかかりました。忙しいので、いただいた時間は10分。1年半を凝縮した10分間のプレゼンテーションが始まりました。NOと言われれば1年半の苦労が水の泡です」。

わだ家、誕生。

用意できるものはすべて用意したという。和田アキ子氏の好き嫌いひとつも見逃さずに調べ上げた。何しろ1年半である。「メニューまで用意していきましたから(笑)」。
いまでは笑う余裕もあるが、当時はどうだったのだろう。和田アキ子氏を前に、緊張しないほうがおかしい。「話に詰まれば終わりだと思っていたんです。だからどんな質問をされてもスグに応えるように心がけました。用意周到していても、緊張はします。与えられているのは10分。ところが10分が過ぎ、20分が過ぎ、30分間話をさせてもらえました。OKです」。天にも昇る気持ちだったのではないか。30分、話し込んで、でたOKである。十分に評価された裏付けでもあるからだ。
オープンは和田アキ子氏の誕生日に合わせ2007年の4月1日に。メディアが一斉にフラッシュを焚いた。むろん大繁盛である。予約の電話が鳴りやまない、そんな日が続いた。

若い人が飲食で働きたくなる、そんな時代をプロデュース。

「わだ家」1号店がオープンした後、水本は自らの店舗を改装し、FC店として「わだ家」をオープンしている。プロデュースだけで終わりではないのが水本だ。
最後に、今後の方針を伺った。「店舗は10店舗までですね。海外の出店は行います。国内はFCや通販に力を入れていく予定です」。
有効な独立制度を設けるのも目標だという。これから飲食の戦士となる若い人たちに期待を寄せている「若い人が飲食で働きたくなる、そんな時代をつくっていかなければいけない」という。
飲食に憧れる、そんなきっかけ。水本は、そのきっかけになりえる人物なのではないか。話を聞き終えてそう思った。だからこそ水本には、大いに若者たちに語りかけてもらいたい。「飲食は、こんなにもカッコいい仕事なんだ」と。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
1歳4カ月の頃 高校生の頃 19歳の頃。堂島ホテル時代。
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5
24歳の頃。独立前。 30歳の頃。  
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