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第249回 株式会社レッツジャストドゥーイット 代表取締役 後藤 隆氏
update 11/10/25
株式会社レッツジャストドゥーイット
後藤 隆氏
株式会社レッツジャストドゥーイット 代表取締役 後藤 隆氏
生年月日 1970年10月3日
プロフィール 東京都に生まれる。父は新宿で中華料理店を経営。職人気質で、のちに後藤が教師になるというと猛反対するような人だった。教師になって儲かるのか、それが言い分。また、小学校も出ていない父の口癖は「勉強しろ」だった。中学から私立の日大二中に進み、エレベーターで高校まで進学する。だが、本人は中学時代からサーフィンに熱中し、大学進学よりもむしろサーフィンのプロを志望するようになる。専門学校に入学し、卒業すると、いったん留学。向こうで、ヘリコプターのパイロット資格を取得する。だが、帰国後は職を転々とし、26歳の時には、サーフィン中心の生活をするため千葉に移り住んだ。独立まで経験した仕事はおよそ30。35歳で独立して、初めて社会人になった、と笑う。2011年7月現在、オープンして5年。マスコミにも多数取り上げられ、売上は順調だ。人気の秘密を聞いてみた。すると「さぁ、どうでしょう?」という答え。このとらえどころのない人間性が後藤という人を物語っている気がする。
主な業態 「大人のラーメンレストラン RYOMA本店」
企業HP http://www.ryoma-5.com/

人気爆発のラーメン店「RYOMA」

中野区、新井薬師前駅から徒歩スグのところに、「大人のラーメンレストラン」がキャッチフレーズのRYOMAがある。グルメサイトで調べると、おしなべて好意的な評価が寄せられていた。特に店側もイチオシの「塩丸味ラーメン」や「sioトマトラーメン」が人気のようだ。だが、人気の秘密はこれだけではない。
RYOMAでは、オーソドックスなサイドメニュー「鉄板餃子」のほかに、「RYOMA鉄板」という3種の鉄板メニューがある。ボリュームもあり、こちらをオーダーするとラーメンがサイドメニューに降格してしまう。RYOMA鉄板+ミニラーメン+ライスのセットが980円。旨さとボリューム考慮すれば、お値打ち価格。普通のラーメン店に飽きた人、また大人の雰囲気のラーメン店を探している人には、オススメの店舗といえるだろう。
今回、取材させていただいた戦士は、このRYOMAを経営する株式会社レッツジャストドゥーイットの創業者 後藤隆。では、この人気ラーメン店「RYOMA」が出来るまでを追いかけてみよう。

人気の中華料理店を経営する父の背中。

後藤が生まれたのは1970年10月3日。父は新宿の一角で中華料理店を開いていた。生粋の料理人で、旨い料理をつくるのだが、客と揉めることも少なくなかったそうだ。「流行っていたほうだと思いますよ。でも根っからの職人で、とにかく瞬間湯沸かし器のような人。母やボクにとっては絶対的な存在でした。父がいるだけで、ビクビクしていたぐらいです。一方、母は温厚でホールに出て店を手伝いながら、経理もすべて母が担当していました。客とのトラブルを止めていたのも母です。母がいなかったら、店は上手くいってなかったでしょう。うちの父は秋田の生まれなんですが、小学校も出ていなかったんです。字も書けない人です。だから相手に気持ちをうまく伝えきれなかったんでしょうね。それで、スグ怒ってしまう。息子の私には、その分、口うるさく勉強しとろと言っていました。たしかに怖い父でしたが、愛情はたっぷり感じて育ちました」。
後藤は、そんな父の背中を見て育った。

サーフィンに出会った夏。

「週末になると、海に出かけました。朝4時から自転車に乗り、1時間かけ世田谷のショップに出かけます。一緒に海に連れて行ってもらうんです」。父の一本気な性格を受け継いだのだろう。熱中すると趣味程度では済ませられなかった。
本気でプロを目指した、と後藤。高校になってからは、プロになるため中退も真剣に考えた。「でも、度胸がなかった。あと一歩、前に進むことができませんでした」。
プロのサーファーになろうという思いを募らせるほど、悶々とした日々が過ぎる。この思いは、大人になっても消えることはなく、26歳になった時に決心し、千葉に移り住んでいる。むろん、サーフィン中心の生活。仕事はあくまで生活の手段に過ぎない。波に乗る時間をつくるため、比較的、自由が利くアルバイトを転々とする。
「パチンコの店員、カラオケ店、バーテンダー、鉄道関連のケーブル工事、自動車部品のプレス工場、海の家、工事現場の作業員など、いろいろなアルバイトを経験しました。千葉に引っ越してからは、プロサーファーと一緒にいる時間も多くなったこともあって、少なからず自信もついてきました。それで、サーフィン中心の生活にしようと、サーフボードの製作工場に就職しました。1日中サーフィン漬けですから、たのしくて仕方なかった。何かを作り出すよろこびに気付いたのも、この頃です」。
とはいえ、捧げた時間がプロへの切符を保証するわけではない。結局、30歳になって東京に戻る決心をするに至っている。

千葉に移り住むまでの日々。

ところで、高校から26歳までの後藤はどんな人生を送っていたのだろう。高校を卒業後、大学には進学せず、英語の専門学校に入学し、20歳の時にアメリカに留学している。当時はバブル全盛期。「ヘリコプターのパイロットが高給取りだったので、チャンスだと思って。でも、免許を取得した時にはすっかりバブルが弾けてしまっていて、ヘリのパイロットのニーズもなくなっていました」。結局、帰国後、最初に就職したのは、大手の就職支援会社。2年後にフリーランスの営業に転身。
フリーランスといえば、カタカナで恰好はいいが、結果がすべて。成績が悪ければ給与はゼロ。「言い訳が通用しない世界です。評価は“0”か“100”。この時、初めて“自立”とは何か? と問いかけた気がします。このフリーランス時代の経験は、いま振り返れば、大きな財産になっています」。
ともかく、26歳まで職を転々とした。
サーフィンだけに熱中できる日々に、恋い焦がれた。
それで結局、26歳の時に、千葉に移り住むことにしたのである。

35歳、遅い独立。

さて、30歳になって東京に戻った後藤は、5年後の2005年、一軒のラーメン店を開業する。これが冒頭で紹介した大人のラーメンレストラン「RYOMA」だ。ラーメン店で何年もかけ修業したわけではない。それだけに発想は自由だ。
グルメサイトの書き込みにバーのよう、とあるように、ラーメン店の造りではない。むしろバーという表現が適切だ。この店の造りが、後藤という人間を、またその生き様を表現していると言えなくもない。
東京に戻った後藤は、家系ラーメン店でアルバイトを開始。とたんにラーメンに魅了された。「半年後には店長になり、独立を志すようになります」。店が繁盛して、複数の店舗を経営するようになれば、ある程度自由な時間ができるだろうという下心もあったそうだ。そうすれば、また海に戻れる。そして、35歳の独立開業を果たした。「RYOMA」誕生である。

二番煎じ、猿真似、モノマネは嫌い。

独立後の快進撃は、さまざまなメディアで取り上げられていることからも、伺い知ることができる。「RYOMA」は、瞬く間に、ヒットチャートでいえば上位に食い込んだ。だが、二号店目は、撤退。「まだまだ勉強が足りなかった」と後藤。だが、成功ばかりでは、いずれ大きな失敗もする。最初に躓いたことも、後藤ならプラスにするだろう。「二番煎じ、猿真似、モノマネは嫌い」と後藤はいう。経営理念も、いわばそれだ。 波乗りをしたことがないのでわからないが、波をただ追いかけるだけではうまくいかないのではないか。次の波を予測し、待ち、そして、乗る。これが、二番煎じではない店づくりにつながるのではないだろうか。波に乗り、バランスを保ちながら、快走する。この絶妙な感覚は、店の経営にも活かされているはずだ。

思い出のアルバム
   

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