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第250回 株式会社幸楽苑 代表取締役社長 新井田 傳(ニイダ ツタエ)氏
update 11/10/25
株式会社幸楽苑
新井田 傳氏
株式会社幸楽苑 代表取締役社長 新井田 傳(ニイダ ツタエ)氏
生年月日 1944年5月生まれ
プロフィール 福島県に生まれる。小学3年生の時に、電力会社を定年退職した父が食堂を開業。18歳の時に、父の食堂を継ぎ、「福島一の飲食店を創ろう」と決意する。決意を胸に上京し、修業を開始。修行先の一つである「幸楽飯店」から2文字をもらい、後に「幸楽苑」を開業する。帰郷後、ペガサスクラブの渥美俊一氏からチェーンストア理論を学び、その教えを忠実に実践。一大チェーン店「幸楽苑」の基盤を固めていく。店舗数は、2011年10月現在、450店舗。今後は、国内はもとより海外にも積極出店を重ねていく予定だ。
主な業態 「幸楽苑」
企業HP http://www.kourakuen.co.jp/
ブームの一方で、生き残りを賭けた戦いが繰り広げられているのが、ラーメン業界だ。都内だけでも月間60店舗もの店が姿を消しているという。鶏ガラベースのものから、煮干し、魚介とスープもバラエティ豊かになり、定番の醤油や塩だけではなくトマトやレモンラーメンまで誕生している。ラーメンに魅せられた店主たちは、いままでにない味を無心に追いかけているかのようだ。その一方で、消費者はいったいどんなラーメンを求めているのだろう、という疑問がわく。創業昭和29年を謳うラーメン店の老舗であり、東証一部上場企業でもある「幸楽苑」。今回は、このラーメン業界のトップリーダーである「幸楽苑」の社長、新井田傳氏にお話を伺った。

原点は父、司氏が始めた「味よし食堂」

「幸楽苑」の歴史を辿れば、ある小さな食堂に行きつく。1953年、福島県の会津市に開業された「味よし食堂」だ。創業者は新井田司氏。新井田傳の父親である。「父は電力会社に勤めていました。55歳で定年を迎えましたが、子どもたちはまだ学校に通っていました。末っ子の私はまだ小学3年生。だからまだまだ引退はできないと、退職後に大衆食堂をオープンしました。それが“味よし食堂”です」。
オープン当初は、父と母の二人。深夜営業に目をつけた両親は、真夜中まで働いた。「雪深いエリアですから、冬の深夜になると膝まで雪が積もる。雪を踏みしめ、2キロの距離を父と母は毎晩、歩いていたそうです」。
「深夜帯でなければ、素人が始めた店にわざわざ来ない」という父、司氏の判断だった。それが功を奏して、客が増えた。研究熱心な司氏は、人気メニューも開発。従業員も次第に増えた。店で働く父母をみて、新井田は育った。いい印象ばかりではない。「店を開いてからは母も仕事をしていましたので、私は祖母と姉たちに預けられたようなものでした。忙しい父と母をみて『絶対、店などやるものか』と思っていたように記憶しています」。

甘えん坊で泣き虫だった少年。

新井田は8人兄弟の末っ子である。長兄は小学3年生で亡くなっているので、実際は、7人兄弟のなかで育った。兄が2人、姉が4人。末っ子の新井田は、父母はもちろん姉たちからも甘やかされて育ったそうだ。甘えん坊で泣き虫。新井田は幼少期をそう表現する。
「小学校まで乳離れもできない甘えたでした。もう大きくなっていましたから、姉たちがみかねて墨を塗れとアドバイスしているシーンも覚えています。そのとき母が、この子はいちばん早く私と別れるんだから、と姉たちを宥めていたことも」。
ところで、新井田の名前は「傳」。「つたえ」と読む。新井田によれば、兄弟のなかで祖父に代わって父と母が唯一、命名した名前だそうだ。「傳」は旧字体で、いまの「伝」にあたる。父と母は何を伝え、残そうとして、この字を選んだのだろう。

最愛の母を亡くす。

高校になって最愛の母が亡くなった。それまで、成績優秀で福島でも有名な進学校に進んだ新井田だったが、気持ちがすさみ、机に向かう機会がめっきり減った。寂しさをまぎらわすため、友だちと群れて遊んだ。その一方で、父、司氏と会話をするようになった。「母がいなくなったので、話をしないわけにはいかなくなったんです。その時、父がどう思っていたかわかりませんが、私の素行を一度たりとも咎めませんでした」。父の存在がにわかに大きくなってきた。
ところで、母を失った「味よし食堂」は、どのような状態だったのだろう。父親と、数名の従業員だけとなり、店からも活気がなくなった。新井田が高校生だから、1960年代の始め。福島でも百貨店などができ、古いスタイルの大衆食堂は姿を消すだけになっていた。
むろん司氏も手をこまねいていたわけではなかった。一杯の注文でもイヤがらず、出前に活路をみいだした。だが、従業員がさらに減ると、出前も長時間待たせることになり、「味よし、なんて名前はやめちまえ」と玄関先で罵声を浴びせられることもあったそうだ。
大学進学を断念し、店を手伝い始めた新井田は、その言葉を実際に浴びせられている。小さな食堂は、まるで流れのはやい川面に浮く1枚の葉のようだった。

福島一の食堂に。

新井田が父の店を手伝うようになったのは、父の小さくなった背中をみたからだ。あれだけ大きかったはずの父の背中があまりに小さく映った。父を助けよう。新井田が最初に抱いた動機である。「上の兄2人は大学に行かせられなかった。だから父は、私1人だけでも大学に行かせたかったようです。『店はオレ一代でなくなってもいいんだから』と。それでも私は進学をためらいました。私は父が45歳の時の子どもですから、そのときもう父は60歳を超えていました。小さく見えた父の背中に向かって、私は店を継ぐことを一人決心したんです。でも、やるからには、雨漏りするこの小さな店の店主で終わりたくない。だから、福島一になろうと、決めたんです」。
しかし、当時の新井田はまだ18歳。何かができる年齢ではない。

1年半がむしゃらに修業した青年時代。

「人生、一度はそんな時がなくてはならない」。新井田がいう「そんな時」とは、寝食も忘れ、必死に何かに打ち込む時のことだ。福島一の食堂をつくろうと決意した新井田は、東京へ修業の旅に出た。1964年4月、東京服部栄養学校に入学。新井田は民友「春夏秋冬 私の道」で当時の気持ちをこう語っている。「父に楽をさせたいという思いと、事業を拡大させたいという決意を胸に秘め、奮い立つような思いでの門出であった」と。
新井田、18歳。青年の思いがいかに強いものであったかは、次の行動からも伺える。同じく「春夏秋冬 私の道」の一文を拝借しよう。「学校に通いながら、中華料理店を食べ歩いた。履歴書を持って、自分の舌と足で修行先を探し回った」。
いまほど情報が流通している時代ではない。自ら探すしかなかった。ただ、その行動が、青年の志をさらに強くしたのではないか。「ここぞ」と思った店に頼み込んでアルバイトをさせてもらった。そうやって、3店目で人生に多大な影響を受けた、四谷・幸楽飯店に出会った。

幸楽飯店から託された名前。

終業のタイムカードを押す。そこからが修業だった。「先輩たちが教えてくれるのは、それからなんです。だから、タイムカードを押してからがいよいよ本番です」。深夜まで厨房に居残り、黙々と中華鍋をふった。「八宝菜」「酢豚」、次々にメニューを修得。1年半で、すべてのメニューをつくることができた。「人の3倍も、4倍も努力しなければいけない時がある、私にとってはまさにあの時が、“努力の時”でした」。
一方、周りへの配慮も忘れなかった。店には、仏壇があった。その仏壇のご飯の上げ下げもいつしか新井田の仕事になっていた。そんな新井田の姿を店主であるケ 順宝氏は目を細めてみていたのではないだろうか。修業を終え、会津に戻ることが決まった時、ケ氏は、「『幸楽』をお使いなさい」とまで言ってくれた。いうまでもなく「幸楽苑」の由来である。人の3倍4倍、努力した新井田に思いがけぬ褒美が与えられたことになる。

めざせ、福島県、ナンバーワン。

1966年、上京して2年。修業を終え、「味よし食堂」ののれんを潜った新井田は、「福島一の食堂をつくる」という決意を胸に秘め、奮闘する。まず「会津一の食堂」だ。だが、資本も、人もない。「だから、小さな店をたくさんつくろう」と戦略を立てた。ただし、戦略といってものちに、ペガサスクラブで教えられたような理論的な戦略ではない。「6店舗まで出店して、会津一になった。ただ、6店舗になると管理が思うようにいかなくなってしまうんです。その時に出会ったのが、ペガサスクラブの渥美俊一先生です」。「ペガサスクラブ」といえば、この「飲食の戦士」でも度々登場するクラブ名だ。クラブの設立者である渥美俊一氏は日本にチェーンストア理論を根付かせ、チェーンストアの近代化を図った稀有なコンサルタントである。ちなみにペガサスクラブのメンバーには、飲食はもちろん流通大手がズラリと顔を揃えている。
新井田も、このチェーンストア理論に共感した一人である。話を伺っていると、この理論と心中するぐらいの思いだったのではないかという気さえする。 「それまであった業態を一つに絞ります。メニューもラーメンと餃子、チャーハンの3品に。製造直販でないとほんとうのチェーン店はつくれないと教えられ、製造工場も作りました。最初は、家を建て直して機械を入れただけの工場だったんですが、それでも必死の覚悟がいりました」。むろん、この決断が、上場企業への第一歩だった。
 結局、6店舗にもかかわらず「管理」に悩んだことが飛躍のカギとなる。実は、このことからも、新井田の「飲食の戦士」としての目の良さが伺える。いまある姿だけではなく、将来の姿をいまに投影することで、「物足りなさ」を映し出したからである。

日本一から世界一へ。

理論を取り入れ、メニューも3品に絞り、いよいよ会津から日本への進撃が始まった。片腕でもあり、知恵袋でもある現顧問との二人三脚は、ソニーやホンダの創業当時をみるかのようだ。
それから何年が経ったのだろう。いったん会長になった新井田は、2006年、社長に復帰する。店舗数は、2011年7月現在で438店舗になる。「今後、国内では直営店を年間10%ずつ出店する」という。一方、海外進出も積極的に行う予定。タイに直営5店舗と工場を造り、その後は現地の有能な人材と組みFC展開を進めていくつもりだ。
待遇や福利厚生にも、いま以上に注力するのだという。実は、「幸楽苑」は早くから残業問題に取り組んできた。「会長時代に、現場を俯瞰すると残業問題をなんとかしないといけないと。そういう体制の不備が見えてきたんです。それで社長に復帰した時にまっさきに手を打ちました。まず40時間のみなし労働時間を採用しました。それから残業を徐々に減らし現在は、店長といっても実質、月10時間程度ではないでしょうか。もちろん10時間で終わっても40時間のみなし残業代は支払っています。当然、40時間を超えれば、別途残業代が支払われます。ただ、超えるのは新店のオープン時の2ヵ月ぐらいですね。」。
飲食店としてこの数字は凄い。こういう体制も影響しているのだろう。年間100名を超える新卒者を採用する一方で、パートスタッフから店長に、という登用制度もうまく機能している。まるで人材難とは無縁のようだ。
だが、新井田は貪欲である。「まだまだ有能な人材と出会い、育てたい」と採用に拍車をかけている。教育といえば、麺マイスター、ギョーザマイスター、チャーハンマイスターがいる。その数、数千人規模となる。たとえばギョーザマイスターとなるには、きびしい筆記試験を突破したうえで、それ以上にきびしい実地試験がある。「出来上がったギョーザに温度計を刺します。中心の温度が90度に達していなければ不合格です。最後にかけるサラダ油のかけかたで微妙な狂いが生じます。4〜5回受けてようやくパスできるような試験です」。こんなマイスターが各店にいる。これが「幸楽苑」の絶対的な強みになっている。

一杯290円の幸福。

「昭和二十九年創業 中華そば二九〇円」が「幸楽苑」のキャッチフレーズ。「できる限り、この価格で通したい」と新井田はいう。むろんメニューはこれだけはない。イチオシの「とろ〜り豚バラ中華そば」やつけ麺通も唸らせる「濃厚魚介つけめん」、「味噌」「塩」「醤油」も、バラエティが豊か。ファミリーが気軽に入れる店づくりもいい。新井田によればラーメン市場は、7000億円あるという。この数字は居酒屋の規模を上回る。だが、これだけの規模がありながら、寡占化が進んでいないのはラーメン業界だけで、その理由はチェーン展開がむずかしいからだという。
そのなかで「幸楽苑」には、長年のノウハウがある。製造直販体制も確立している。前述の通りマイスターも揃っている。店舗で味がぶれることがない。そこが強み。10%の出店攻勢の裏に、見え隠れするのは、そんな体制への自信だ。
雨漏りする食堂からスタートした新井田の、戦士としての戦い。勝利の要因を挙げれば、「従業員を大事にすること」「取引先の方々を大事にすること」という父の教えを守り、忠実に実践してきたことだろう。
290円のラーメンが作り出す、幸福の瞬間。渾身の一杯に、父や母から受け継いだ創業者の魂を感じるのは私だけだろうか。「傳」。父と母は、息子の名をこう記した。

思い出のアルバム
   
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