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第252回 株式会社スパイスワークス 代表取締役社長 下遠野 亘氏
update 11/11/08
株式会社スパイスワークス
下遠野 亘氏
株式会社スパイスワークス 代表取締役社長 下遠野 亘(わたる)氏
生年月日 1974年7月23日
プロフィール 父は美術教師。兄が1人。高校卒業後、建築関連の専門学校に進む。在学時代と卒業後2年、有名飲食店も手がける建築工務店で働くが、挫折。飲食との出会いは22歳。国内ばかりかローマ、シドニーでも働き、帰国後に<飲食>と<建築>の知識を融合させ、水道橋に1号店の仕事馬をオープンさせる。一方で店舗のデザインや新業態などのトータルプロデュースを行い、注目を浴びる。「神田ミートセンター」、「品川魚貝センター」など、横丁業態の内装・施工・業態プロデュースほか多くの実績を持つ。
主なプロデュース 「炉とマタギ」「鉄火炉火」「神田ミートセンター」「品川魚貝センター」「魚介ビストロsasaya BYO」他
企業HP http://www.spice-works.co.jp/
2人兄弟である。2つ年の離れた兄はサッカーがやけに巧かった。兄の背中を追いかけながらサッカーを始め、兄ほど巧くなかったが高校まで続けた。兄はサッカーの名門校に進んだが、弟はレギュラー間違いなしの高校を選んだ。慎重だったわけではない。ただ、小さな頃からジブンのモノサシを持っていた、そんな気がする。
今回、ご登場いただく飲食の戦士は、そんな少年がそのまま大人になった株式会社スパイスワークス 代表取締役社長の下遠野 亘氏。運営する店舗はすでに32店舗に広がり、一方で手がけた店舗設計・デザインの数はすでに100店舗オーバー。それに加えプロデュースやコラボ事業でも数々の実績を残している。
常識にとらわれず、常に物事や仕組みに対して疑問をもって挑み、新しいものを創造し続ける同社。「肉寿司」「魚介ビストロsasaya BYO」などの店舗が良い例だろう。
今回は、この多彩な才能を持つ戦士にスポットを当ててみた。さっそく彼の過去から辿ってみよう。

父は美術の教師。その絵を真似て、何度もコンクールに入賞した。

下遠野が記憶しているのは、学校で美術を教える父の背中と、西船橋で有名な割烹料理店の娘であり、合間を見つけては店を手伝う母の姿だった。母方の祖父の店には、下遠野も小さな頃からお手伝いと称して通っていた。店で働く女性たちから可愛がられるのが、くすぐったくも、嬉しかったからだ。
小さな頃の記憶でいえば、母が作る料理も鮮明に覚えている。「いまでもそうなんですが、たくさんの料理がないとダメなんです。子どもの頃はボリュームも大事で、母はフライパンひとつを使って、私たち兄弟のハンバーグを一つずつ作っていました。兄も、私もサッカーをしていたので大飯食いだったのでしょう」。
そして絵を描くこと、モノを作ることも大好きだった。「良く父と写生に出かけました。コンテストに出品するといつも入賞です。我ながら凄いなと思っていたんですが、いまになって思えば父が描くのを真似てそれで入賞していただけなんです(笑)」。実際、どうだったかは判らないが、父の影響を受けながら幼少の頃に味わったモノづくりの楽しさは、下遠野の心に克明に刻まれた。

建築関連の専門学校に進学。アルバイトで限界を知る。

高校に行ってもサッカー部に所属。レギュラーの座を獲得した。兄と比較すればまだまだだったが、強豪校ではなかったから巧い選手の一人に選ばれた。小学校から続けたサッカーに終止符を打つのは、専門学校に進んでからだ。
「建築関連の専門学校に入学しました。一方、アルバイトで飲食店の内外装を手がける建築工務店で働き、実践を通しながら建築のノウハウを学びました。もっとも、設計やデザインではなくもっぱら施工のほうで、その当時から現場でも寝袋一つあれば眠れるチカラを身に付けました(笑)」。「規模はそれほど大きくありませんでしたが、新宿の有名店も手がけるような会社で、先輩たちはできる人ばかりでした。彼らの仕事ぶりをみて、自分との差を強烈に感じてしまうんです」。
勉強にはなったが、限界を知ることにもなった。モノづくりを行う人間にとって、能力の違いを見せつけられることほど辛辣なことはない。「どうして、こういう風にできるんだろうって、諦めの境地です。凄いから学ぼうというんじゃなくて、オレにはできないと後向きの思考に陥っていたのかもしれません」。ある意味、逃げるように退職。好きなバイクに乗って日本中を駆け回った。「もともと旅行も好きだったのですが、その時は、買ったばかりのハーレーを乗り回したかっただけだったかもしれません。何かスカっとしたい、そんな気持ちだったんでしょうね」。

「お帰り」の代わりに待っていたのは、「子どもが出来た」の一言だった。

「いま思えば、タイミングが良かったような気もしますが、当時は、ビックリです。だって、仕事を辞めたばっかりだったし、まだ結婚もしていなかったので。まさかアルバイトで<娘さんをください>というわけにもいかず、それでスグに仕事に就かなくてはと、飲食店に駆け込みました。いったん挫折はしたものの、設計やデザインの仕事を諦めていたわけではなかったので、現場を知ればプラスになるんじゃないかと迷わず飲食店に就職したわけです。それが22歳の時です。最初に修業したのはイタリアンレストランです」。
スジが良かったのだろう、そしてたゆまない努力のかいもあってか数年もかけず料理長にまでなっている。その後、赤坂の本格イタリアンレストランでも修業し、イタリアに渡る。いったん帰国し、フランス料理の店で働いた後、再度、海外へ。「今度はシドニーです。著名なジャパニーズイタリアンの店で働きました」。これらの経験をすべて糧にして、シドニーから帰国後、いよいよ独立開業をめざし走り始めた。28歳。妻と子ども3人を抱えたチャレンジがスタートする。はたして、成功するのだろうか。

下遠野31歳。挑戦。

下遠野が手がける店舗には顧客の意向がしっかり組み込まれている。これは下遠野が単なるアーティストでないことを意味している。いままで見てきたように、決して平たんではない人生から<名より実>の大切さを学んできたからではないだろうか。実際、下遠野がプロデュースする店や業態は、着飾った美しさではなく、あくまでナチュラルなテイスト。それでいて、「こうきたか!」と思わせるアイデアと力強い魅力に溢れている。
シドニーから帰国した下遠野はその後2つの仕事を経験し、満を持して1号店である『大人の隠れ家 窯焼き料理・肉料理・旨酒 shigotouma 仕事馬』をオープンさせ、独立開業した。「最初はモデルルームみたいな感じだったんです。つまり、こういうお店を手がけていますよ、というモデルです」。その店は、予想をはるかに超え人気となる。水道橋の路地裏にポツンとあるにもかかわらず、18坪の店の月間売上が900万円というから驚かされる。<カフェのような、和食のような、ビストロのような店>と下遠野は表現している。いたるところに遊び心を加えながらお客様が心地よいと感じる店造り、現場スタッフの痒いところに手が届くような配置、料理に対しては生産者さんの思いやその素材を最大限に活かしたメニューづくり、ストーリー性のあるコンセプトは店をより引き立たせた。
この店の成功で下遠野が大切にしている空間全体にストーリー性を持たせた意味のある店創りの魅力が認知されるようになった。飲食の現場を知るからこそできる店創り、若き料理人の挑戦は、時を経る毎に幾重にも成果の輪を広げていく。

商売デザインと“お手伝い”から産まれる新たなコラボレーション

下遠野は、決して自分がプロデューサーであるとは思っていない。
あくまでも“お手伝い”ととらえている。他社とコラボし、ホンモノを残すために今まで様々な仕掛けをしてきている。
「打ち合わせをしていて心がけていることは、経営者の方のフトコロに入っていくこと」。実際、下遠野の話からは業界の様々な経営者の名前が飛び出してくる。
名前だけではなく、その人の性格まで。。。実をいうと、下遠野が持つもっともすぐれた能力とはこの一面から読み取れるのではないか、と思ったりしている。つまり、人との出会いを大切にするチカラ、人を好きになるチカラだ。そのチカラが吸引力となって、多くの経営者、クライアント、仲間、スタッフたちを引き付けるのではないだろうか。
業界の最前線を走る下遠野。彼もまた人が好きな飲食の戦士の一人。彼が手がける多くの仕事は、たくさんの笑顔を生んでいるに違いない。
余談だが、下遠野の店で使われる食器類は、父の創作品らしい。息子のためと言いつつ、せっせと好きなモノづくりに取り組んでいる父の姿を想像すると、親子はやっぱり似ているなと微笑ましい気分になった。

思い出のアルバム
   

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