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第253回 株式会社ROT 代表取締役 田子英城氏
update 11/11/15
株式会社ROT
田子英城氏
株式会社ROT 代表取締役 田子英城氏
生年月日 1978年7月25日
プロフィール 東京都板橋区生まれ。3歳の時に両親が離婚し、いまもホームグラウンドとなっている埼玉県戸田市に引っ越す。母のはたらく姿をみながら成長し、中学時代から事業に興味を持つ。偏差値49からの大逆転で、県内でも5本の指に入る進学校に進学。城西大学在学中、今の専務である武山氏と出会い、共に事業を立ち上げる。「埼玉ナンバーワンのレストランチェーンの達成」をビジョンに事業を展開し、現在、埼玉県戸田を中心に12店舗を展開。レストラン事業のほかにも、人財教育事業、内装・コンサルタント事業、不動産事業を手がけている。
主な業態 「Cafe & Dining SUN」「浜焼酒場 磯野くん」「居炉居炉」「鮮魚浜焼 田子商店」
企業HP http://www.rot-group.com/

今回ご紹介する株式会社ROT(ロット)はレストラン事業、人財教育事業、内装・コンサルタント事業、不動産事業を幅広く手がけている。内装・コンサルタント事業と不動産事業はすでに子会社しており、人財教育事業では次世代経営者の創出に取り組んでいる。コア事業であるレストラン事業ではカフェ、居酒屋など12店舗を出店。この多彩なビジネスの展開は、社長である田子の生き様を良く反映している気がする。では、いつも通り、飲食の戦士、田子の過去から振り返ってみることにしよう。

母に贈ったダイヤモンド。

田子が生まれたのは1978年7月。板橋区で生まれ、3歳の時に両輪が離婚し、母と弟と3人で母の実家がある埼玉県戸田市に引っ越している。父親の記憶はほぼない。離婚して以来、会ったこともないからだ。
離婚してスグに母は仕事にでた。6時まで事務をやり、夕食を子どもたちといっしょに食べてからレストランではたらいた。帰宅は10時。2人の息子はお行儀よく、母の帰りを待っていた。
さみしくなかったですか?と問うと、「ぜんぜん」という答え。「子どもの頃にも、事情を知った大人たちからたいへんねと言われました。でも、ぼくたちはぜんぜん、そう思っていなかった。片親だけど、その分、母親から愛情をたっぷり注いでもらいましたから」。 
田子にとって、母親の存在は大きい。もっとも影響を受けた人だという。感謝の気持ちも尽きない。母を喜ばせてあげようと思った。中学を卒業し、初めてもらったバイト代は、母の指を飾る小さなダイヤモンドの指輪にかたちをかえた。

偏差値49。もう、受験までわずか。

小学校の頃の田子は、スポーツも、勉強もでき、生徒会長も務めるような元気で活発な少年だった。中学になっても素行はかわらない。ただ一つ普通の中学生と異なったのは、すでに事業家だった点だ。むろん、中学生がやることだ。学校の勉強もある。許される時間も限られていた。それでも、卒業する頃には通帳に1,000,000円が貯まっていたというから驚きだ。
中学3年生になると、当然、受験がある。「当時、ぼくは天才だと思っていたんです(笑)。でも、共通テストを受けたら偏差値が49。あれには焦りました。でも、塾に行くお金なんてない。受験まで残りわずかです。先生に卒業できる出席日数を教えてもらい、自宅と図書館にこもって勉強しました。結果、偏差値は70程度までのび、県でも有数の進学校に進むことができました」。
猛勉強の末、進学校に見事、合格。だが、それはそれ。バイトはバイトである。中学の卒業式が終わった翌日から、コンビニエンスストアでバイトを始めた。

父親代わりのオーナー。

「いまは多店舗展開されていますが、当時はまだ2店舗だったと思います。中学の卒業式が終わった翌日からバイトをさせていただいたコンビニエンスストアの話です。父親のことはまったく記憶にありません。代わりにこのコンビニのオーナーが父親のような存在です」。
中学を卒業し、入学式を待たずに始めたアルバイトである。とにかく早く仕事がしたかった。母を少しでも楽に、という思いもあったのだろう。この最初のアルバイト代が母の指輪になった。
高校生になって「社長」という二文字が目標になった。コンビニエンスストアのオーナーの影響もあったはず。父親代わりのオーナーがいたから、道を外さなかったのかもしれない。ちなみに、中学時代に貯めた100万円、高校時代にコンビニのアルバイトで蓄えた50万円。これが大学の入学金になった。

大学在学中に現専務武山氏と出会い、二人で起業する。

城西大学に進んだ田子は、さまざまなアルバイトに精を出す。そんな時、あるバイト先で現専務の武山氏と出会った。性格的に同じタイプではなかったが意気投合した。2人で店を任され、やがて独立し、月間数百万円の利益を上げるようになる。これが、その後の資金になる。
「スポーツ施設を最初にやろうとしました。2人でまとまった資金があった。でも、うまく行きませんでした。融資が受けられなかったからです。そんな時、カフェに目をつけました。当時、戸田にはぼくらが行きたいと思うような店がなかったんです。それで、地元の同級生数人が「戸田で最高のお店をつくろう」を合言葉に集まり、ROT初のプロデュースでカフェ&ダイニング<SUN(サン)>をつくったんです。会社設立は2001年12月。<SUN>オープンは、2002年8月。ツテもなく、資金も潤沢にあるとは言えない。料理も素人だし、社長のぼく自身、損益分岐という言葉も正確には知らなかった。いま思えば、無謀に無謀を重ねたというところでしょうか。でも、その怖いもの知らずというか、いきおいがあったからできた気もします。大工の仲間につくり方を教わりながら、内装も手づくり。1日に20時間以上、試行錯誤を繰り返し、全員無給ではたらきました。夢中になった。あれが、ROTの原点だと思います」。

仲間に恵まれた10年。

田子の、また、みんなの思いをのせた「SUN」号は、順調にスタートを切る。およそ3年後の2005年には、2号店目、<お好み・鉄板焼き じゅうじゅう北戸田店>をオープンさせ、こちらが爆発的に売上をのばした。ホームページで当時の様子を次のように語っている。「一切の宣伝なしでオープン以来21日間連続で行列をつくるという偉業を成し遂げた」。また「内装は、デザイナーにすべて設計からデザインを任せ、<今までなかったお洒落なお好み焼き屋>をコンセプトにスタート。<他店には真似できない価格で、お洒落でおいしいものを提供する>をモットーにメニュー開発した」とも記している。
この後、紆余曲折はあったものの、この記事を書いている2011年10月現在で、すでに10年以上が経過している。次々、新たな業態も生み出した。順を追ってオープンの様子を記述する。
2007年4月に3号店である「串焼き居酒屋 居炉居炉 北戸田店」をオープン、その後、2008年7月「鮮魚浜焼 田子商店 武蔵浦和店」、9月「浜焼酒場 磯野くん 戸田店」、11月「魚吉鳥吉 戸田公園店」、2009年4月「RISA!RISA! 戸田公園店」、2010年1月「バンザイミート!武蔵浦和店」、4月「10北戸田」、12月「居酒屋こばとん屋」、2011年5月「55酒場北戸田店」、6月「多万吉屋北戸田店」と事業を拡大している。
特出しているのは、飲食事業だけにとどまっていない点だ。冒頭で述べたように、人財教育事業、内装・コンサルタント事業、不動産事業を展開している。この10年のあゆみを支えてきたのは、田子と専務の武山氏だけではない。有能で情熱的な仲間たちが、事業を支え動かしてきた。少なくとも、店で彼、彼女たちがみせるとびきりの笑顔が、株式会社ROTのエネルギーだったはずだ。仲間に恵まれた田子は、これからも人財を何より大事にしていこうと考えている。

思い出のアルバム
   

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