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第254回 株式会社ル・クール 代表取締役 橘 秀希氏
update 11/11/22
株式会社ル・クール
橘 秀希氏
株式会社ル・クール 代表取締役 橘 秀希氏
生年月日 1969年1月7日
プロフィール 愛知県知多市に生まれる。3人兄弟の次男。大学受験を控えた高校の秋、倉本聰脚本のドラマ「ライスカレー」を観て、突然、料理人の道を志す。辻調理師専門学校に進み、フレンチを修得。卒業後、名古屋の老舗ホテル、ナゴヤキャッスルホテル(現ウェスティンナゴヤキャッスルホテル)に就職する。23歳で、在カナダ日本大使館総料理長に就任し、渡航。2年の任期をまっとうし、名古屋ヒルトンホテルに就職。ゼネラルマネージャーから高く評価されたが、フレンチからイタリアンへ舵を切るため、単身イタリアへ。イタリア全土での修業を終えたのち、帰国。愛知県を中心に全国のレストランの立ち上げ及び、顧問、アドバイザーを多数務めたのち、2009年、直営店「ヴォーノ・イタリア」を開業。
2008年イタリアトリノで開催された世界生産者会議「テッラ・マードレ」で「世界1000人のシェフのひとり」に選ばれ、メディアに注目される。現在、東海地方のテレビ番組「東海うまいもん本舗」にレギュラー出演中、「NPO団体 スローフードあいち」会長、「名古屋市東洋学園さつき調理専門学校」非常勤講師、「日本福祉大学」非常勤講師、「M物産」顧問アドバイザーを務めている。
主な業態 「リストランテ ベッラビスタ」「ギャレリア ベッラビスタ」「どてと串かつの店 鉄」「ヴォーノ・イタリア」他
企業HP http://lecoeur-japon.com/
勝気というのではない。わがままでもない。敢えて言えば、エネルギーを発散する、その方法を知らなかった。いったんスイッチが入ると止まらない。墨汁で、みるみる教室が真っ黒になった。
小学生のこと。通い始めた書道教室で、友だちとケンカをした時の一コマ。良し悪しは別にして、橘という人間を良く表現しているエピソードという気がする。自身も墨で真っ黒になった橘は、どんな顔で家に帰ったのだろうか。

ヤンチャな少年時代。

橘は1969年、愛知県の知多市で誕生する。父は、大手メーカーで人事をやり、祖父も大手商事のサラリーマンだったから、サラリーマン家系の下に生まれた、3人兄弟の真ん中で、父に似た真面目一本の長男と、兄たち2人の性格を合わせもった3男に挟まれ、育った。橘自身は、兄弟のなかでもいちばん、手がかかるヤンチャ坊主だったとのことである。
小さな頃から習い事を始めた。だが、冒頭のエピソードのような少年だ。なかなか続けさせてもらえない。高学年になって、ようやく居場所をみつけた。それも、3つも。サッカー、ブラバン、ボーイスカウト。「いまもそうですが、あの頃は、3つ掛け持ちしていたこともあって、まったく休みがとれなかった(笑)」と橘。とにかく、サッカーにも、ブラバンにも、ボーイスカウトにものめり込んだ。
ちなみに、ブラバンではトランペットを演奏していた。中学時代は柔道部だったが、大会があるごとに駆り出されたぐらいだから、相当の腕前だったのだろう。いまでもサックスが趣味の一つである。
柔道も強かった。当時、柔道王国と言われた愛知県で県大会にも出場している。

TVドラマ「ライスカレー」でシェフの道へ

話は高校時代まで進む。高校は県内でも有数の進学校だった。「不良とも、生徒会の連中とも付き合えるバランスのいい人間」だったそうだ。公立高校だったが、学内推薦があり、ある程度の大学なら推薦で進学することができた。もちろん成績がいいことが前提だが、橘の場合は、推薦を受けられるだけの内申点があった。だから、3年の夏、担任の先生に言われたことも、「推薦で進学できるから、とにかく何も問題を起こさないでくれよ」の一言だった。橘も、その気でいた。受検間近の高校生だが、勉強をしないでいいのだから、気楽なものだ。
  ところが、あるTVドラマを観て橘の人生は、180度転換する。ドラマの名は、「ライスカレー」。カナダでライスカレーショップを開業しようとした青年たちのお話である。「ライスカレーを観ましてね、そうだ、料理人になろう、スイッチが入ってしまったんです」。高校3年の秋のことである。
「大学に進学せず、料理人になる」、料理人になる決意を告げると父は怒った。「もともと父はサラリーマン志向の人なんです。兄弟はもちろんですが、従兄弟まで使って辞めさせようとしました(笑)。いったんは大学に進んで、料理人になるにはそれからでもいいじゃないかなど、いろんな説得をされましたが、大学に進んでもやりたいことはなかったし、時間も無駄にしたくなかったんです。それで反対を押し切って辻調理師専門学校に進みました」。橘青年、18歳の決意だった。

無謀な、突撃、訪問。

辻調でフレンチを学んだ。卒業後、ナゴヤキャッスルホテル(現ウェスティンナゴヤキャッスルホテル)に就職する。「バブル全盛期だったんで、大量採用の時代でした。私も多くの同期たちといっしょに料理人の一歩を踏み出したのです」。
目標の突端に着いた。しかし、一つのリストランテに安住するつもりはなかった。目は海外に向く。「ハタチの時、持っていたクルマを売って、そのお金で仏語と英語を習いに行きました。ところが、語学ができても、海外にツテはない。だから、<国際>と名が付くところに行けば何かのきっかけをつかめるのではないかと時間をつくっては足を棒にして駆け回るんです。そうこうしている時に、海外とつながっている、それは外務省だ、と思いつくんです(笑)」。さっそく、新幹線に乗った。目指すは霞ヶ関にあるだろう外務省。「もちろん、門前払いです。でも、ホテルの仲間たちに恰好つけて出てきた手前、手ぶらじゃ帰れない。あれこれ悩んでいる時に、偶然、国際交流サービス協会の方が話しかけてくださるんです」。

23歳の「在カナダ日本大使館」総料理長誕生。

いまでも交流があるというその人物は、橘の無謀な行動にどこか胸打たれるものがあったのだろう。大使館に勤める料理人の試験を受けないか、その気があるなら、受付を済ませて今日はそれで帰りなさい、と、一つの道を示してくれたのである。
試験を受け、決まったのは、奇しくもライスカレーの舞台ともなったカナダ。その日本大使館の料理人。しかも、総料理長という肩書だった。反対していた父が、認めてくれるようになったのもこの頃からである。息子が、カナダにある日本大使館で総料理長を務める。父親として嬉しくないわけはない。だが、まだ橘は23歳。果たして、重責が務まるのだろうか、と心配されたことだろう。
「4年間、勤めさせてもらったキャッスルホテルを卒業し、カナダに渡りました。仏語も、英語も勉強していたので、なんとかなるだろう、と思っていたんです。でも、まだ23歳です。総料理長という肩書ですから、年配の人も使いこなさないといけません。インターネットもいまのように進んだ時代ではありませんから、レシピ一つも自らの足を使って名店を食べ歩き、修得しないといけない。大使館がカナダでも東の方だったので、ニューヨークなどに行って、おいしい店を食べ歩きました。そうやって新しいレシピを開発していくんです」。重圧は何通りもあった。国を代表するVIPが相手である。国によって食文化も異なる。それ以外にも、ワインは世界でも最高級。そのワインに負けない料理を作らなければならない…。大使の任期が切れる2年間、橘は、大使とは違う戦いを繰り広げた。

フレンチからイタリアンへ。

大使の任期は2年なんだそうだ。大使が代わると、料理長も代わる。これが不文律だったらしい。橘、25歳。「カナダに残る選択もあったかもしれませんが、私はカナダにあるヒルトンの料理長の紹介で、日本に戻ることにしました。名古屋ヒルトンです。もちろん、ポストは総料理長より遥か下。それでも、なんでいきなり若造が、という白い目でみられました」。
キャッスルホテルでも、大使館でも、苦労はしたが、それは料理についてだった。だが、名古屋ヒルトンでは、人間関係に悩んだ。「料理人も競争社会のなかで生きているんです。サラリーマンと比べて熾烈といえるかもしれません。入社して半年ぐらいは、受け入れてさえもらえませんでした。ただ、私は英語がしゃべれたのが良かった。ヒルトンの上層部は、ほとんど外国人なんです。そのなかの一人、ゼネラルマネージャーが、私を認めてくださって、私を指名して、いくつかの料理をつくらせてくれるようになったんです。そうなると誰も認めないわけにはいきません。年功序列とは違った正当な評価で、私が選ばれたわけですから」。
名古屋ヒルトンでも頭角を現した橘だが、徐々にフレンチからイタリアンに興味が移り始めていく。「キャリアを考えた時、これからは、フレンチよりイタリアンだ」。いったんそう思うと、橘はブレない。それはいままでの歩みからもわかるだろう。簡単にいえば、こうと決めれば、とことん進む。つまり「頑固」なのである。

イタリアへ。なんとかなるさ。

イタリアへ、そう思ってもまたまたツテがない。だが、記憶をたどると、一つだけあった。「キャッスルにいた時代、イタリアン料理のフェアがあって、イタリアから著名なシェフを招いたことがあるんです。私たちも、彼と一緒に写真を撮らせてもらって。そうだ。あの時のシェフがいる。そう思って当時の写真をひっぱりだし、それを胸にイタリアへ飛びました」。
いったんこうだと決めた時の、行動力は凄い。だが、フツーはこれを無謀という。無謀な旅と修行が始まった。無事、目当てのシェフに会い、イタリアで修行を開始した橘は、さまざまなリストランテを渡り歩いた。「英語ができればなんとかなると思っていたんです。でも地方に行けばぜんぜん通じません。そんななかでの修業です」。潤沢なお金があったわけでもない。コック服が私服化し、それで地下鉄に乗ったこともある。総料理長まで務めた男が放浪している。だが、橘には、それで充分だった。イタリアン。フレンチとルーツは同じだが、奥深かった。イタリア料理に魅了されていく。

日本に帰還。ル・クール設立。

もともと料理の腕はヒルトンのマネージャーまで認めるほどだ。イタリア料理もスグに己のものにできた。だが、このイタリア時代、修得したのは、料理だけではなかった気がする。人と料理とリストランテ、この3者が織りなすドラマのようなものを可視化できるようになっていたのではないだろうか。日本に帰国した橘は、その後、12年間ほど、プロデュース、顧問、アドバイザーという肩書で活躍するようになる。個人事務所、ル・クールも設立した。
そんな橘に再度転機が訪れたのは2009年。浜松の、あるリストランテのオーナーが、橘に運営をしてもらえないかという相談を持ちかけてきた。アッパーなイタリアリストランテだった。「浜名湖が見渡せるオーシャンビューのリストランテでした。でも、売上はたしかに低く、このままでは閉店を待つだけ。そんな時に声をかけてくださったんです」。
店名をそのままに、サービスをかえた。食べ放題のイタリアリストランテ。客単価はグッと落ちたが、売上は逆に上がった。2年間、売上はアップを続けている。このリストランテで開発したサービスをさらにバージョンアップし、落とし込んだのが、橘、初の直営店、「ヴォーノ・イタリア」である。

開店前に人・人・人。

食べ放題の魅力は、価格の高い安いではなく、価格が決まっていることだろう。これなら、安心して好きなモノを好きなだけチョイスできる。財布を気にすることがないから陽気になれる。旨いことはもちろんだが、「ヴォーノ・イタリア」の魅力は、陽気な時間を提供していることではないだろうか。
オープン初日。開店前から駐車場は満杯。ディナーでは、開店まえから長蛇の列をつくった。この人気はいまも衰えていない。
現在、店舗数は22店舗。イタリアリストランテだけではなく、居酒屋も展開している。100店舗、株式上場、そんな目標もとらえられるようになった。実力あるシェフがくった陽気なリストランテ。橘が23年間かけ、たどり着いたのは、「ライスカレー」同様、誰もが愛する味だったのかもしれない。だとすれば、この店は強い。

思い出のアルバム
   
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