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第256回 株式会社大台フードプロジェクト 代表取締役社長 貝谷祐晴氏
update 11/12/06
株式会社大台フードプロジェクト
貝谷祐晴氏
株式会社大台フードプロジェクト 代表取締役社長 貝谷祐晴氏
生年月日 1945年
プロフィール 大阪府出身。家具職人だった父親が戦後自宅を改修し食堂を始め、貝谷氏は両親が働く姿を見ながら成長していく。純文学が好きで「いずれは小説家に」と考えていたが、気づくと飲食の世界へ。大阪でのスナック経営をスタートに、2000年には68店舗を展開する飲食企業を上場へと導いた。一度は飲食業界からリタイアするが2004年に株式会社大台フードプロジェクトを創業。現在、大阪・兵庫・東京に28店を展開中。
主な業態 「居酒屋横丁」「豆一」「otto」他
企業HP http://www.chikuchikuya.com/

デフレの世に「女将のいる居酒屋」という発想

飲み放題、食べ放題、○円均一の店…。
“安い”“お得”をウリにした看板が乱立し居酒屋の価格競争が激化する中、あえて高級感を大切に雰囲気のある店を展開する企業がある。株式会社大台フードプロジェクト。
複数業態を展開する同社だが、例えば和食の『伝兵衛』は、女将と長年和食修行を積んできたベテランの料理長が客を迎えもてなす京料理の店だ。
「割烹料理の味と雰囲気を居酒屋価格で提供したい」という同社の社長、貝谷祐晴氏は、周りから失敗すると言われてもあえて信念を貫いてきた。「自分の好きな店、自分が行きたくなる店をやる」。1万円以上の価値の京料理を5000円で、さらには選び方によっては3000円でも楽しめる店。同業他社の逆をいく店は、領収書を求めないサラリーマンやOLにも支持され毎日賑わっている。

目覚ましはキャベツの千切りの音

1945年、大阪で食堂を営む両親の元に生まれた貝谷氏の思い出は、キャベツの千切りの音だ。「朝目覚めると両親は揃って食堂で仕込みをしていました。そこから聞こえてくるキャベツを刻むまな板の音が朝一の定番でした」。幼少時代、食事のほとんどをその食堂で食べていたという貝谷氏の思い出の一品はやきそば。特に小学生の頃には本当に父親がよく作ってくれたという。
そんな貝谷氏の幼い頃からの変わらない趣味は読書。特に純文学といわれるジャンルが好きで、時間さえあれば本を読んでいたという。「いずれは自分でも書いてみようとネタ帳を作ってストーリーを書きつけていました」。本に関わる暮らしを夢見ていた貝谷氏は、家業を継ぐでもなく、会社員になるでもなく社会人となっていく。「人に雇われたり雇ったりという関係性の中で生きていくのがうまく想像できなかった」というように、どこかおっとりとした文学青年であったのかもしれない。
収入は市場や飲食店、印刷会社のアルバイトで稼いでいたが、組織やそこでの出世にはまった興味が持てなかったという。しかし26歳の時、転機が訪れる。父親の友人がスナックの経営に行き詰まり、貝谷氏に店を任せたいという話が持ち上がったのだ。

3年目で12店舗に拡大。飲食ビジネスの面白さを知る

26歳で3階建て45坪のスナック経営を任された貝谷氏には、その店で長年働いてきた40代のベテランマネージャーが補佐役としてついていた。しかしその働きぶりはとても尊敬できるものではなかった。「新聞を読んだり、お馴染みさんが来れば席に着いて一緒に飲んでしまうような人でした」。接客を担当する女性スタッフを中心に30名が働くそのスナックの在り方を変えるため、貝谷氏はその40代のマネージャーに辞めてもらったという。
しかしそこからすべてのことが好転。スタッフがみるみるやる気になったそのスナックは、初期投資にかかった2000万円の借金(現在の価値にすると1億円)を1年後には返済してしまうほど活気のある店に変わっていた。
2年間1日も休まず働いた貝谷氏は、この実績を通し従業員のやる気を引き出し店を軌道に乗せる大変さと楽しさを実感した。当時流行り出した食事と洋酒と女性との会話を楽しめるスナックは勢いを増し、3年目には地元大阪で12店舗を経営するようになっていた。

次代の先端をいく居酒屋経営で「京都」に行き着く

大型スナックの多店舗展開という実務でビジネスを学んだ貝谷氏は、管理職を育てる重要性を認識するようにもなり、その後、時代の流行と共にニーズが拡大していった居酒屋経営に乗り出す。10店をスナックから居酒屋に転身させ、店主を任せることで人材を育成していった。
と同時に、読書と同じくらいお酒が好きな貝谷氏は、様々なお店を食べ歩きしてイメージを膨らませていった。中でも最も貝谷氏が心安らいだのが京都の割烹店。教育の行き届いた女将による接待と、長年の修行で培われた繊細な味を提供する料理人によるもてなし。自分が大好きな割烹の世界を、世の中のたくさんの人に知ってもらい楽しんでもらいたいと思った。
「大阪にいながらにして京料理を楽しめる割烹料理店を出そうと決めました」。安くて気軽な学生でも手が届く居酒屋とは一線を画す『割烹京都』のアイデアはヒットし、銀行の融資もスムースになっていくと同時に、業界での人脈の広がりにより中華、イタリアンなどの多業態のみならず冷凍食品の共同開発などの事業も膨らんでいった。

会社上場、そして引退、のはずが…

26歳で飲食業の経営者となった貝谷氏は、50代になると68店舗の飲食店を経営する会社を率い、2000年についに会社を大阪証券取引所に上場させる。実はここで詳細を明かせないのが残念なのだが、もろもろの流れの中で2004年に5年間続けた上場企業のトップのポジションを退く決心をすることとなる。
「60歳のちょうどいい節目でした。黙ってついてきてくれた妻にプレゼントしたい気持ちもあり、103日の世界一周船の旅を申込みました」。その船旅が終わったら、書き溜めておいたストーリーを元に小説を書く。そんな新しい人生の設計図も頭には思い描いていた。
しかし、飲食の世界はそう簡単に貝谷氏を手放さなかった。
自分が代表を退いた会社の社員が経営方針を巡って多数辞め、貝谷氏を頼ってやって来たのだった。急きょ世界一周旅行をキャンセルした貝谷氏は、知り合いの飲食店に元社員を売り込んでいるうちに「これはまだ自分でやりなさいという啓示なのかもしれない」と感じたのだった。
そして2005年、株式会社大台フードプロジェクトを早々に創業し、京料理『伝兵衛』をはじめとする本格派料理店を複数立ち上げる。
現在、大阪、兵庫、東京に店舗展開するが、店の乱立によって食い合いが進む中、あえて“人の繋がり”と“上質なサービス”を提供する店にこだわって勝負に出ている。
「人の真似をした店はいずれ失敗してなくなります」。貝谷氏は決して激安ブームには乗らないと宣言しているし、大卒新卒者を積極採用するなど(2011年は16名が入社)人材の社員比率の高さも大切にしている。
「あの人の店に行こう」「あの味を食べに行こう」。結局飲食の世界は、こうして選ばれる存在にならなければ生き残れない。だから貝谷氏は、これからも自分が行きたくなるような店だけを作り続けるのだ。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
昭和23年大阪下町「新世界」にて大衆食堂開店。貝谷氏は中央の小さい子。貝谷氏の飲食のルーツの店。 早稲田の学友と。右翼か左翼かの集会後の酒盛り。思想より酒盛りが好きな青春時代。 洋食の味と店舗デザインのリサーチ旅。後にカジュアルフレンチ店の展開を行う。
思い出のアルバム4  
海外に食を尋ねる1人旅。タイ、バンコクへ。この旅の経験でエスニックレストランの大型店を昭和60年に開業。    

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