年代別社長インデックス
掲載時期別社長インデックス
オススメ求人サイト
リンク
第257回 株式会社壱番屋 代表取締役社長 浜島俊哉氏
update 11/12/13
株式会社壱番屋
浜島俊哉氏
株式会社壱番屋 代表取締役社長 浜島俊哉氏
生年月日 1959年4月24日
プロフィール 愛知県生まれ。高校2年時に喫茶店で始めたバイトがきっかけとなり、飲食の仕事を志すようになる。もともと独立を希望していたが、専門学校を中退後に「CoCo壱番屋」の創業者宗次夫妻と出会い人生が変わる。壱番屋、初の大型店を成功に導くと共に、マネジメントなどの手法を確立。2000年、副社長に昇格し、2002年に社長に就任。現在に至る。社是は「ニコニコ・キビキビ・ハキハキ」。ミッションは「経営を通じ人々に感動を与え続け、地域・社会に必要とされる存在となること」。現在、国内外合わせ1290店(平成23年11月末現在)を展開している。
主な業態 「カレーハウスCoCo壱番屋」「パスタ・デ・ココ」「麺屋ここいち」「にっくい亭」「うなぎ屋壱番」
企業HP http://www.ichibanya.co.jp/
採用HP http://www.ichibanya.co.jp/comp/recruit/

厳格な父は、イブでもかまわずゲンコツをふるった。

成績表を親に見せるのがイヤだった。とりわけ成績が悪いわけではなかったが、父親からみればもの足りなかったのだろう。終業式がクリスマスイブに重なると、イブにゲンコツが待っていた。
今回、ご登場いただく株式会社壱番屋の代表取締役社長、浜島俊哉の幼少の頃の話である。「父は公務員で厳格なタイプでした。3つ下に弟がおり、母を入れて全員で4人家族。父は怖かったですが、一般的には平凡な家庭だったんじゃないでしょうか」と浜島は振り返る。
浜島自身もごく普通のタイプの少年だった。ただ、小学生の時から卓球を始め、高校1年の夏まで続けている。当時、卓球に没頭する少年は少なかったはず。違うといえば、そこが周りの少年と少しばかり違うところだった。

小・中、戦いの相手は卓球台の向こうにいた。

好きで没頭しすぎたのかもしれない。卓球の話である。浜島は中学3年生になっていた。最後の大会が終わり、みんなが受験のため勉強を始めてからも浜島は卓球台を離れなかった。勉強をしないものだから、成績は上がらない。当初は、進学校を志望していたが、志望校を決める最終日の前日になって、急きょ、変更。担任に絶対受かる学校は…と尋ね、担任が答えた学校に願書を提出した。
悪いといっても、そこそこの成績を取っていた浜島からすれば、楽勝レベルの学校だった。実際、入学時は上位10人のなかに入っていた。もっとも卒業時にはケツから2番目まで順位を下げたのだが。
「最初は、楽しみにもしていたんです。でも、入学して卓球部に入った途端、萎えました。相手にならない。みんな弱過ぎるんです。それで、他の学校に進んだ先輩に頼んで一人武者修業にも出かけたりしたんですが、さすがにイヤになって夏までに退部しました。それからは帰宅部に甘んじます(笑)」。
戦う相手がいなくなった。

思いがけない人生の転機、もしくは新たなスタート。

「あれは、2年生になる直前の話です。みんなで旅行に行こうぜってなったんですね。じゃぁ、バイトしなくっちゃ、ということになって、私はある喫茶店でバイトを始めたんです。最初は、イヤで、イヤでたまらなかった。鉄拳制裁まであるような店でしたから。それでも3月〜7月、夏休みに入ってからは、毎日のように店に出ました。すると、イヤだったのが、楽しくてたまらなくなってきたんです。お客様から『ごちそうさま』『ありがとう』なんて言われるともう堪りません。いつか、オレも喫茶店をしようなんて思うようになるんです」。
良く働いた。夏休みは1日13時間、月間300時間、300円の時給で9万円。当時の高校生にすれば「スーパー金持ちだった」と浜島は表現する。ハイライト80円、セブンスターが100円。コーヒー一杯が210円だった頃の話だ。タバコを比較対象として挙げるあたりに、当時の浜島の生活ぶりが伺える。

平凡からの脱出。

小学校の頃から周りと比べ、秀でたところも、逆に劣っているところもなかった。だから「平凡」という表現を浜島は使ったのだろう。だが、喫茶店の仕事にハマるようになると、友人たちと話していてもつまらなくなった。
「大人の世界を垣間見たというか、もう知ってしまったわけですよね。友人が話すのは幼稚な話に聞こえ、バカバカしくなっちゃうんです。だから、学校には興味もなく、ただ寝に行っているようなもんでした(笑)。単位もギリギリ。卒業できればいいや、それぐらいに考えていたのです」。平凡な少年が、群れから離れ、いつのまにか自己というものを確立するようになっていた。

専門学校、進学。

大学進学は考えていなかった。成績も悪かったから、進学できる大学もなかった。それ以上に「将来、独立して喫茶店をしよう」、そんな思いで一杯だった。しかし、両親から、せめて専門学校でもと説得され、ある専門学校に入学する。試験がなく、先着順で合格させてもらえると聞いたからだ。だが、席は置いたものの年数回だけ出席して、中退する。
「第二語学に中国語を選択したんですが、あれが、いかんかった。1週間、講義が始まる日を間違って、教室に行った時には、みんな中国語で名前を言っているんです」。唖然とした。たぶん恰好が悪かったのだろう。英文タイプでも躓いたそうだ。それで結局、テーブルマナーと美食学、それ以外は顔も出さなくなった。浜島の言葉を借りれば、面白くないことをやっても意味がないとなるのだろう。その言葉を証明するように、喫茶店のアルバイトには一層、精を出した。

CoCo壱番屋、オープニングに参加。

高校時代からお金ができると洋服代に使ったというからおしゃれなんだろう。たぶんに生き様にも表れている。「専門学校からは独立するために、いままでとは違った喫茶店でバイトをさせてもらったり、珈琲の卸会社でもバイトをさせてもらったりもしました。転々としていたと言ってもいいかもしれません」。3時間でケンカして、辞めたこともあった。「潔し」といえば恰好がいいが、忍耐不足と言われてもしかたがない。
「そんな時、高校生のバイト時代に知り合った先輩から、ある店を紹介されるんです」。それが、CoCo壱番屋の1号店だった。浜島はアルバイトといえど、創業メンバーの一人。だが、CoCo壱番屋は通過点に過ぎないと心に決めていた。「まずは3年。カレービジネスのノウハウも将来、きっと役立つだろう」と思い仕事を始めた。ところが…。 「6ヵ月で退職しちゃうんです」。

創業者の奥様からいただいた<帰ってらっしゃい>の一言。

CoCo壱番屋での仕事は、申し分ないように思えた。それまで1日16時間以上の勤務で、13万円ぐらいだった給与が、12時間勤務で15万円以上になった。ピークの時間帯も限られている。「なんて楽なんだろう」。だが、半年も過ぎた頃、慕っていた先輩から店を出すので手伝くれとの連絡があり、CoCo壱番屋を辞めてしまう。
「けっして仕事がイヤになったわけではありません。誘ってくれた先輩は仕事もできる人でしたし、私も、彼にない技術を持っていたから成功できるだろうと思っていたんです。でもね。ケンカして2週間で辞めてしまった。彼の奥さんから、箒の持ち方や雑巾のかけ方から、口うるさく言われたことが原因でした」。
しかし、男がこれと決めて、2週間。バツの悪さもあったろう。だが、こういう時の浜島の発想は、決まってポジティブだ。この時も、迷わず創業者宗次夫妻の元を訪れた。それが功を奏し、奥様から「帰ってらっしゃい」の一言をもらうことができたのである。いわばこの一言が、浜島のターニングポイントとなる。

住み込み開始、店長就任。だが、前途、暗し。

再度、CoCo壱番屋のスタッフになった浜島は懸命に働いた。店の2階に住み込み始めたのもこの頃である。数ヵ月には、店長職が任された。浜島21歳の時である。
「オープン2〜3日まえに創業者に連れて行かれまして、『この店を任せた』と言われたんです。でも、どう思っておられたんでしょうか。私は、これはあかんと。だって立地がそもそもダメなんですから。私の予想は的中して、開店2日は良かったものの、それ以降はまったくダメ。何をやっても効果なし。サービス券にスタンプを押して団地に撒いたり。それはもう必死です。それでも好転せず、辛くて髪の毛まで抜けはじめました。店長から降格されるのはわかっていたんですが、もう頼むから楽にしてくれ、って気分でした」。
ついに店長、降格。ただ、それで楽になったわけではなかった。浜島の人生でこれほど辛く、逆に鍛えられた時はない。「創業者の宗次は、『浜島でダメならしかたがない』と言ってくれたんですが、降格は免れません。私は店舗に属さないヘルパーのような立場になったんですが、当然、店では店長が上です。いままで、私の下にいて、私が教えた人たちが、今度は私の上に立ちます。すると彼らはイヤな仕事を私に回すんです」。
降格というのは、こういうことだった。社会の厳しさを知った瞬間だったともいえる。

辞める、そう宣言した時、上司が「おまえしかおらん」。

もう辞めよう、ふたたび退職願いを出す浜島を直属の上司が引き止めた。そして、あるプロジェクトが進んでいることを教えられる。そのプロジェクトの店舗の長になるのは、「おまえしかおらん」と上司はいうのである。
その一言で翻意した浜島だが、「これで、ダメだったら辞めよう」と考えていたらしい。とはいえ、上司の一言は確実に浜島の心に火をつけたはずである。
「でかい店でした。いままでCoCo壱番屋は20席程度の店だったんです。それがファミリーレストランとまでは言いませんが、50席。2.5倍の席数です」。最初はたまげたに違いない。いかに立地が悪かったといっても、一つの店を潰し、店長を降格された身である。そんな自分に任せてくれた。そう考えると、もう、やるしかない。期待を裏切るわけにもいかなかった。
「高校時代のアルバイトで得た知識を総動員しました。それこそ、箒の持ち方から雑巾のかけ方まで。23号店だったと思います。テスト的な店舗でしたが、今後の方向を決める、おおげさに言えば会社の命運を賭けた店舗でした。それがわかっているだけに、初めて店長を任された時よりも必死でした。でも、アルバイトやパートを使うのも初めて。シフト管理のペーパーすらなかったんです。マネジメントも、ジョブローテーションなんて言葉も知らなかった」。

命を懸けた戦い。

「おもしろいか、おもしろくないか、これが大事なんだ」と浜島はいう。これから飲食を志す人に何か一言と尋ねた時の返答である。新卒採用の時には、<まじめで、野心家>と求める人物像をそう表現したそうだ。
まじめに、そして野心的になることで、楽しみは倍増する、そう言いたかったに違いない。
さて、今後の方向を決めるプロジェクトの一号店、つまり浜島が任された大型店はどうなったのだろう。「連日11時間の営業で1000人以上のお客様がやってきてくださいました。一杯のカレーショップに、です」。
こんな質問もしてみた。カレー店でチェーン化を成功している会社はほかにない。国民食なのに何故か、と。すると、「カレーは国民食だから逆にむずかしいんです。お母さんが簡単につくりますからね」。「でも、私たちは、この一杯のカレーに、それこそ命を懸けてきた。これが大きな違いだと思います」。
この「命を懸けた」という一言は、創業者宗次夫妻だけではなく、大型店を任された時の浜島にも当てはまる。命を懸けたからこそ、心底からマネジメントの<奥深さ>や<楽しさ>を理解することができた。そして、店長の経験が少ないにもかかわらず、初の大型店を成功に導くことができたのである。

社長の座を引き継ぐ。

2000年.浜島は、代表取締役副社長に就任する。浜島51歳の時である。その2年後、社長の座を創業者宗次氏から引き継いだ。「ごちそうさま」「ありがとう」の一言から始まった浜島の飲食人生。その一言はいま、何千、何万人ものお客様からいただく「ありがとう」「ごちそうさま」にかわった。
浜島に率いられた壱番屋は、今後も国内外で積極的な出店を行っていくそうだ。「ごちそうさま」を追いかけた浜島の戦いは、まだまだ終わりそうにない。
最後に、おもしろい話を聞いた。海外展開。すでに壱番屋は、海外に64店を出店している(米国:7店、中国:19店、台湾:10店、韓国:11店、タイ:14店、香港:2店、シンガポール:1店)だが、ぜひとも出店したい国があるという。その国は「インド」。「カレーショップがインドに出店する。たのしいでしょ」。そう言いながら、浜島は、少年のように笑った。

思い出のアルバム
   
ご登録はこちら

現在壱番屋では「独立候補社員」の募集を行なっています。
資金・経験がなくても最短2年でオーナーになれる
壱番屋の独立支援制度をご紹介します。

ご登録はこちら