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第261回 株式会社ビーシージー 代表取締役 中道英治氏
update 12/01/24
株式会社ビーシージー
中道英治氏
株式会社ビーシージー 代表取締役 中道英治氏
生年月日 1969年11月9日生まれ
プロフィール 大阪府吹田市出身。父は日本を代表する大手メーカーに勤務。3人兄弟の末っ子。中学卒業後、工業高専に進み、親元を離れ寮生活を始める。22歳で結婚。23歳の時に知人と共同でダイビングショップの経営を開始。28歳、経営権を手放し、大手居酒屋チェーンに就職。同社の日販・月商のレコードも塗り替え、常務執行役員に昇格。38歳の時に同社を退職し、翌2009年6月、「串もん酒場 ちゃい九炉」秋葉原昌平橋店を出店。2012年現在、9店舗を展開している。グループ会社には、オリジナル商品の開発を行う「有限会社BCG」、オフィスマネージメントに関するコンサルティング事業を行う「株式会社OFFICE BCG」がある。「BCG:ビーシージー」はいうまでもなく、子どもの頃に受けた予防注射の名称。残る9つの点が、中道流の経営戦略を象徴している。
主な業態 「串もん酒場 ちゃい九炉」他
企業HP http://www.bcg.jp/chiclo/

1歳の頃、万国博覧会が日本で初めて開催される。

大阪府吹田市で万国博覧会が開催されたのは1970年。開催の数年前から吹田市の開発は進み、一部はニュータウン計画により整備され、広々とした住宅街が登場する。今回ご登場いただく株式会社ビーシージー、代表取締役中道英治もこの住宅街で生まれた。万国博覧会開催の1年前、1969年のことである。
中道家は、大手電機メーカーで開発の仕事に従事する父を中心に、母と姉2人、中道の5人家族。「父も、母も勉強が好きだったのでしょう。父は昭和9年、母も14年の生まれですが2人とも大学まで進んでいます。父が出版した専門書をみたことがあるんですが、なかみは宇宙語でした(笑)」。
ともかく姉2人、秀才の父と母に囲まれ、育ったが、中道自身は勉強とは無縁だったようだ。
同じクラスの園児に苛められたのは、幼稚園の頃。
幼稚園は義務教育でないと知り、さっさとパスする。
「苛められた」と聞けば、なんとなく気の弱い少年をイメージしてしまう。だが、中道は、そんなにやわな少年ではなかった。

幼児の冒険。

幼稚園を辞めて、冒険が始まった。母が教育の一環にと、一人で電車に乗せたりしたからだ。母は気をもんだろうが、当の本人にすれば悠々たる一人旅。胆は昔から座っている。
小学校に上がってからもイヤな思い出がある。小学4年生の時のこと。「隣の席の女の子の靴がなくなって犯人扱いされたんです。先生にも問い詰められました。冤罪です(笑)。だったら、堂々と通えばいいんですが、なんだかイヤになって週の半分ぐらいしか登校しないようになっちゃいます」。
どこかで人間、スイッチが入る。中道のスイッチはこの時、入ったのかもしれない。このスイッチは、中道を新たな道に導く分岐点となり、親とも、兄弟とも違う方向に彼を導いた。

8畳に4人。すし詰め状態での生活が始まった。

中学を卒業する時、勉強にまったく関心のなかった中道には、行きたい高校も、行ける高校もなかった。母がみつけてきたのは三重の熊野にある工業高専だった。
中学になって体が大きくなった中道は、父と衝突するようになっていた。思春期は、時に少年を暴走させる。母は、寮生活を通じて、精神的に逞しくなることを望んだのかもしれない。
「時間割が決まっていました。勉強のじゃありません。生活のです。朝起きる時間から寝るまで。しかも、ずっとおなじ人間といっしょです。気が滅入りますよね。小さな部屋での生活ですから、へんな話、互いの体臭まで気になるんです。普通なら花の高校生でしょ。なのに、ぼくらはまっくらな青春の始まりです(笑)」。
「ところが、年次が上がると徐々に開放されるんです(笑)。18歳になると寮を出ることが許されました。熊野の田舎ですから、都会生まれのぼくらはある意味目立ち、地元の女の子たちからチヤホヤされるようになりました」。
抑圧された寮生活が終わった時、少年は、18歳の逞しい青年になっていた。強制的な指導がなくなり、大学生同様、今度は自由な時代がやってきた。そんな中道の前に一人の女性が現われる。

ペンションのオーナーの嫁さんになれ。

淡路島で住み込みのアルバイトをしている時だった。中道の前に、心惹かれる一人の少女が舞い降りた。いっぺんで好きになったという中道は、あの手この手で口説き始める。「かなりもてた」という中道だが、彼女に対する思いは真剣だった。決め台詞は、「ペンションのオーナーの嫁さんになれ」だった。
無事、付き合いが始まったが、結婚も、ましてペンションの経営もスグにとはいかない。工業高専は5年制。卒業まで、あと2年ある。この2年をまっとうに過ごし、卒業した中道はいったんIT企業に就職する。そして、22歳で結婚した。
約束を忘れていたわけではなかった。とはいえ就職した会社では成績を残し、評価もされていた。ペンション経営の目標は遠ざかるかに思えた。
そんな時、奥様が「いつになったらペンションを経営するの?」と切り出したらしい。もちろん「あれはやめた」とは言えない。覚悟を決めた。
20代前半だったが、資金も少しは貯まっていた。
「ペンションを経営するならアウトドアのことも、食のことも知らないといけない。そう思って、知人と共同でダイビングショップを経営しました。23歳の時です。5年後、28歳の時に経営権を手放し、今度は『食』だと、ある居酒屋チェーンに就職しました。ヒラ社員からのスタートです」。

ワタミ、入社。常務執行役員に。

その居酒屋チェーンとは、渡邉美樹氏が経営する「ワタミ」だった。まさか10年も在籍するとは思いもしなかった、と中道。実際、上司にも2年で辞めると公言している。
だが、10年。中身の濃い日々を送る。10年後の肩書きは、常務執行役員。「キャリア組みじゃない採用者のなかでは、かなり早く出世したほうです」。 少し、ワタミ時代を振り返ってみよう。
「最初は経営ノウハウを修得するのが目的です。ワタミを選択したのも、原価を明確に知ることができると聞いたからなんです。お金を貯める狙いもありました。だから、労働時間も気にならない。誰よりも仕事をしました。すると、半年後に店長の辞令が下りました」。最初に任されたのは武蔵小金井の店舗。競合店ができ、売上が下がってきた店を任された。
「売上が下がり始めて3ヵ月。ワタミには、<競合店などができて売上が下がっても3ヵ月経てば元に戻る>というセオリーがあって、セオリー通りならちょうど売上が戻る時だったんですが、元に戻したことで高く評価していただきました」。
その店が軌道に乗ると、今度は立川の店が任された。条件は同じ。こちらも期待通りに業績を回復。評価は俄然、高まった。
その後、旗艦店が任された。その店で当時レコード記録となる日販200万円、月商4500万円を達成する。課長となり、その後も、期待に応え、役職を上り詰める。
ちなみに、「新商圏」を担当したことがある。これは、まだワタミが出店していない地域にくさびを打つ仕事だ。「最初にポイントを打つ。そんな仕事です。全国の都道府県、その県庁所在地はいまでも頭のなかに入っています」。全国にワタミの新店舗を広げる。おもしろくないわけはない。だが、そんな時、かつての友人が、もの足りないというのである。

地位も、名誉も、投げ捨てて。

結局、10年でワタミを退職した理由は、中道という一人の男の生き様をまっとうするためだったのではなかったか。
「家のローンもありましたし、仕事ももちろんおもしろい。でも、昔の友人たちからおまえはサラリーマンで終わるような奴だとは思ってなかった、そんなことを言われ、考えこんでしまったんです。痛い点を突かれた、そんな思いです。それで38歳の時に独立を決意し、ワタミを退職しました」。
すべてを投げ出した。不安がなかったといえば強がりに聞こえるだろう。出世記録も塗り替えたことも、将来を嘱望されたことも、すべて過去の話になってしまうからだ。「大手の看板があるからできただけ」。失敗すれば、そう言われるかもしれない。ワタミの執行役員が、独立する。それはいろんな意味で失敗が許されない。プレッシャーも相当だったのではないだろうか。ただ、その一方で、「オレならできる」という強い思いもあった。ワタミで実践し、修得してきたことは間違いないはずだ。かくして、退職した翌年の2009年、「串もん酒場 ちゃい九炉」秋葉原昌平橋店をオープンさせる。

ビーシージー設立。始まった「9の戦略」。

開業後1年で3店舗を展開させるというハードな条件で、融資を受けた。店の近くに一軒家を借り、スタッフ6人で寝泊りする。食事と住居費は無料。ただし、無給。一軒家といえども6人の住まいともなればけっして広くはない。仕事でも、プライベートでもいっしょ。高専時代の寮のようだ。それでも、この寮には一つの目標に向かって進む「熱気」があった。
「27坪の店があたり月商700万円を売上げました。そこで上がった利益を貯め、2店舗目、3店舗目、4店舗目と1年で4店舗。そして2年2ヵ月で社名を象徴する9つの店ができました」。
串焼き、串揚げ、おでんも串に刺す串煮。3つの串ものが、「ちゃい九炉」の看板メニュー。ひと串、102円〜。「サラリーマンが週に3日飲みにくることができる、それを前提に開発した業態です。客単価は2500円ですが、2000円以内でも十分、満足いただけます」と中道。リーズナブルなだけではなく、味も、いごこちもいい店だ。オーナーである中道との軽快な会話もたのしめる。だが、これ以上は店舗を増やさないようだ。9店舗、これが自分1人でみることができる数字だという。
ただし、あくまで一つの業態に限っての話。「社名にあるビーシージーは、子どもの頃に受けた予防注射の名称です。あの注射を打つと9つの点が残るでしょ。あの9つの点が、うちの会社のポイントです。9店舗を達成することができましたので、今度は9つの業態をつくり、それぞれが9店舗を展開する。私一人ではなく、9人の社長を作ることができれば、9つの業態、合計81店舗が、更に増える。そういう計算も成り立つように思います」。
これはおもしろい発想だ。9×9×9…。これらを実現するためには、人づくりも大事になるだろう。最後に、その点を聞いてみた。

9人の社長づくり。

「すべてに感謝し、すべてに感動し、すべてに感激し、お客様の幸せに関わること、これが私たちの理念です。この理念に共感いただける人を採用し、社長に育成するのがこれからの私の仕事です」とのこと。つまり、9人の社長を生むのが、いまからの目標だ。
むろん、困難な道であることはたしかだが、中道ならそれもまた楽しみつつ実現してしまうのではないか、そんな気がする。中道の下で育った9人の社長が、また9人の社長をつくりだせば、無限に広がる。
それはまだずいぶん先の話として、9人の社長が育つ頃にはビーシージーにもう一つ、小さな点が生まれているかもしれない。それは数十年まえに奥様と約束したペンション。もし、この想像が当たれば、部屋数はもちろん9つだ。

思い出のアルバム
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高専の頃 新卒時代 ダイビングショップオープン時
   
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