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第262回 株式会社南国酒家 代表取締役社長 宮田順次氏
update 12/01/30
株式会社南国酒家
宮田順次氏
株式会社南国酒家 代表取締役社長 宮田順次氏
生年月日 1968年4月3日
プロフィール 東京都渋谷区桜丘に生まれる。2人兄弟の次男。幼稚園から大学まで学習院で過ごす。大学卒業後、三井不動産に入社。バブルが弾け、家業の不動産事業の業績が悪化したときに、三井不動産を退社し、家業の再生に乗り出す。グループ内の飲食部門「株式会社南国酒家」の拡大にも精力的に取り組み、2010年2月、同社の社長に就任。現在、「日本の、美味しい中国料理」を21店舗で提供している。一方、「おいしいものニッポン」という企画を年2回、開催。全国の都道府県とタイアップし各地の食材の普及にも一役買っている。
主な業態 「南国酒家」「南琳華」
企業HP http://nangokusyuka.co.jp/
庶民の間で中華といえば、ラーメンや餃子がすぐに思い浮かぶ。ところが、ラーメンにしろ、餃子にしろ、日本で改良が加えられ中国料理とはまったく違った料理に進化している。「焼餃子は中国にないんです」。ある経営者がそう言って笑っていたのを思い出す。
一方でアッパーな中国料理は、そういった進化とは一線を画す。進化を拒み、逆に純化することで価値を高めていこうとするかのようだ。広東、北京、上海、四川と謳い純度と独自性を訴求する。コック長にも中国人が少なくない。そのようなアッパーな中国料理のなかで「日本(にっぽん)の、」というスレーズを謳う中国料理店があった。それが今回、紹介する「南国酒家」。社長は宮田 順次。初代から数え5代目社長である。餃子やラーメン、またほかの中国料理店とは異なる、独自に進化をとげた「日本の、」中国料理。その原点はどこにあるのだろう。

1967年、宮田家に次男誕生。

「南国酒家」が誕生するのは1961年。宮田の祖父にあたる宮田慶三郎氏が創業オーナーである。初代社長は蘇 杰(スー・キット)氏という中国人だった。「祖父は歯科医師で、医学博士でした。アメリカの学会に出席した際、マンションに感銘を受け、帰国後すぐに不動産開発会社を立ち上げ日本で最初のマンション『渋谷コープ』を開発しました。このマンションの地下に、初代社長の蘇さんが中国料理店をつくり、祖父がオーナーを務めることになったんです。店名は『南国酒家』渋谷店。南国酒家、50年の始まりです」
創業店がオープンして4年、原宿に2号店が開業する。その2年後に、次男の宮田が生まれる。
「祖父は歯科医でもあり、不動産会社の経営もやり、3代目の南国酒家の社長もしますから多彩な人です。また明海大学(旧城西歯科大学)、朝日大学(旧岐阜歯科大学)の創設者も祖父なんです」
「父はといえば、もともと丸善石油(現コスモ石油)で人事をやっていましたが、祖父に請われ立ち上げ間もない南国酒家に入ります。いかにオールマイティな祖父でも、さすがにレストラン事業までは目が届かなかったからです。祖父の次の4代目社長は父で、現在も父がオーナーです」
「私が生まれた頃はもう不動産事業も波に乗り、南国酒家も生まれていましたから、むろん不自由なく育てられたと思います。平日はなかなか父に会うことはできませんでしたが、休日は家族で外食することが多く、その度に舌を鍛えられていきました。もっとも当時はただ美味しいと思うだけで、舌を鍛えているんだという風には父も、私も思っていなかったんですが」

学習院、育ち。

幼稚園から「学習院」というのだから、育ちの良さが伺える。だが小学校の頃には、独りでラーメン店めぐりをするなど「食」に旺盛な興味を示す。小中高とバスケットボール部に入り、コートを駆け回る。ところが、高校になって膝をこわしてしまった。それがもとで部活を辞める。
「部活を辞めてからは、けっこう遊びました。渋谷も近くだったので、高校3年の頃は渋谷にたむろしていました。もっともそれでハメを大きく外すことなく、大学に進学します。大学ではゴルフ部で、ハンディは11でした。一方で、飲食店にかなり精通していまして。友人からデートに使える店や流行っている店を聞かれては答えていると、『男版、HANAKO』というあだ名がつきました(笑)」
小さな頃から、いい料理を食べ、舌を鍛える一方で、店をみる目も養っていたのかもしれない。いずれにしても友人たちからすれば、いざという時、頼りになる男の一人だったに違いない。宮田に聞けばはずれがない、そんな気がするからだ。
ところで、大学もむろん「学習院」。つまり、幼稚園から大学まで「学習院」で育ったことになる。「宮田家、生まれ。学習院、育ち」とでも言えばいいだろうか。

バブル崩壊、宮田家は、大丈夫か。

1968年生まれだから宮田が大学を卒業する年は1989年。日本中がバブル経済にわいていた頃だ。1980年代後半から1990年代初頭まで、不動産を中心に日本経済は急角度で上昇した。ディスコが流行り、経済というステージでも多くの人が狂ったように踊っていた。宮田が社会に出たのはそんな時代である。
「祖父から不動産はおもしろいぞと言われていて、それで三井不動産に就職しました。結局、三井不動産には4年いたんですが、同期で辞めたのは、私ともう一人だけ。じつのところ、私も辞めたいと思って退職したわけではないんです。私が入った頃は、バブルの真っ只中でしたから、不動産、絶好調の時代です。ところが1990年代に入ると急に雲行きが怪しくなり、私が退職する1993年頃には、バブルの反動で一気に経済が下り坂を転げ落ちます。三井不動産でも正直、きついなって感じだったので、じゃぁ、うちの不動産事業はどうなんだと心配になり調べてみると案の定、傾きかけていたんです。これは、いかんと三井不動産を退職し、実家の不動産会社に入りました。だから、もともと南国酒家で仕事をしようと思っていたわけではないんです」

孤独な戦い。

「当時の南国酒家は、平日から1時間、2時間の待ちがでるような超人気店でした。この店が不動産事業を救ってくれます。私が入社した当時の店舗数はFC含め12店舗。ここから上がるキャッシュを不動産事業に回してなんとか食いつないでいくんです」
「ところが、数年経ち、不動産事業が安定してきたと思ったら、今度は飲食バブルが弾け、南国酒家の収益が低下します」
「ただ、これは周りの環境のせいばかりではないでしょう。南国酒家は中国料理店の老舗ですが、老舗かどうか以上に旨いかどうかが大事です。一方で消費者の嗜好も時代によってかわる。人気があり、行列ができるのをいいことに、時代によってかわる消費者の声に耳を傾けなかったことが収益を低下させた原因のような気がします」
不動産会社に入り再生を行っていた宮田が、レストラン事業にも関与するようになる。「南国酒家を今度は救ってやらないと」、そんな気持ちがあったのかも知れない。ただ、その点を宮田にたずねると「単に食に興味があったから」とのこと。とはいえ、いくつもの食材を自ら探し歩き、料理長に使ってみないかというあたりホンキ度が伺える。ただし、宮田が探してきた食材は、まかないに使われる程度で店のテーブルに並ぶことはなかったそうだ。何かを変えないといけない。宮田の孤独な戦いが始まった。

料理長、招へい。

平成11年、6代目総司厨長に横浜高島屋の料理長を務めていた久保寺を招へいすることで、宮田の独り旅が終わる。老舗料理店の大改革が始まった。
「卓上のしょうゆからネギひとつに至るまで、たくさんの種類を取り寄せてみんなで比較検討しました。たとえば、しょうゆは30種類のなかから4つに絞り、料理によって使い分けるようにしました。ネギもそうです。中国料理にとってネギは大事な食材の一つです。いままで習慣的に使ってきたものも改めて見直したんです」
「海鮮や肉、野菜などもそうです。いままで中華材料専門の問屋から仕入れていたものの大部分を寿司や高級西洋料理専門の問屋に替えていきました」
名店の料理長が工夫を凝らし、つくる料理がまずいわけはない。ただ、消費者の嗜好は変わる。
老舗と言われる名店の多くが、じつは時代とともに多様な変化と進化を繰り返してきたことからも知ることができるように、食の世界でも時代を敏感に読み取らなければ生き残っていくことはできない。こうして食材探しから始まった宮田の挑戦は「ガイアの夜明け」でも紹介されるようになる。
「大々的に言うつもりはありません。ただ、私たちは中国料理をもっと日本人に合うように、旬の食材を探し、中国にはない四季を取り入れた料理を提供していきたいと思っているんです」
「日本の、」そう「日本の、美味しい中国料理」。これが新たな南国酒家のコンセプトになった。

社長、就任。

2010年2月、兄の佳明が3代会長となり、宮田が5代社長になるという人事が発表される。宮田はこの頃から新たなギアを入れ始めた。いま年2回開催している「おいしいものニッポン」もその一つで、宮田ならではのユニークな試みだ。
「年2回、全国のどこかの県とタイアップして、その県の食材を使った料理を提供しています」。ためしにホームページを開くと、いまはちょうど島根県が取り上げられていた。「おいしいもの島根県」と銘打ったこのページには「神々の国・島根県が育んだ、個性豊かな食材たちを南国酒家ならではの繊細で滋味に富んだ、美しい中国料理に仕上げました」と記されている。
「ほかにも東北産の蝦夷アワビというのがあって、これは中国で大人気です。ただ、大きいものだけが好んで消費され、味は抜群なんですが小さいものは価格が叩かれてしまうんです。それで、この小さいアワビを乾物にして、いつでも美味しくいただけるようにしました」
もったいない。そんな文化のある日本人だから生まれる発想、そんな気がする。そのうえ、「日本で消費することで、食料の自給率アップにもつなげていける」という。
「これからは店単位というのではなく、もう一つの指標として会社という単位も大事になってくる気がしています。私たちでは『おいしいものニッポン』に代表されるような活動を通し、消費者の人たちに南国酒家という企業を理解いただきたいと思っているんです」。たしかに、食の安全・安心というキーワード一つとってみても店舗のバックボーンとなる、企業への信頼が大事になるだろう。

50年、そしてこれから。

いま手元に「南国酒家」、50年の歩みを記した冊子がある。50年を迎え、プロジェクトチームをつくり作成したそうだ。別の冊子では、改めて、理念も体系づけてある。
社長になって2年。宮田は更にギアを一段うえに切り替えた。
「事務所もちょうど移転したところなんですよ」。インタビューに伺った数日前に引っ越したそうだ。企業体質をシャープにし、新たな取り組みもスピーディに行っていくためだ。
「今後はネットでの販売にも取り組んでいきたいと思っています。焼売や肉まんの工場つくって、それを日本だけではなく、日本の味として中国にも売っていきたいんです」
通信販売、それだけをとらえれば、さほど大きな話とは思えない。ただ、これは宮田が仕掛ける壮大な計画であり、新たな戦いのような気がしてならない。「南国酒家」で生まれた「日本の、美味しい中国料理」を、店という枠を超えて発信していこうという試みでもあるからだ。
老舗の中国料理の新たな戦い。日本で独自に進化を遂げた「中国料理」が、中国の人たちにも熱烈歓迎される、その日が待ち遠しい。

思い出のアルバム
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