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第263回 ぼてぢゅうグループ(株式会社東京フード・株式会社大阪フード) 代表取締役社長 栗田英人氏
update 12/02/07
ぼてぢゅうグループ
栗田英夫氏
ぼてぢゅうグループ(株式会社東京フード・株式会社大阪フード)
代表取締役社長 栗田英人氏
生年月日 1963年11月12日
プロフィール 大阪市住之江区に生まれる。5歳の時に東京に移り住み、東京のど真ん中で育っていく。小さな頃は、長嶋茂雄に憧れ、背番号「3」のユニフォームを着て遊んだ。一方、小学生から習い始めた水泳では、大会に出場するなど好成績を残す。私立成蹊中学校に進み、エレベーター方式で高校へ。大学は、高千穂大学に進学し、卒業後、父、北村貞次氏が経営する株式会社東京フードに入社する。取締役企画開発部長、常務取締役を経て2001年11月、代表取締役に就任。「ぼてぢゅうグループ」を率いる。この「ぼてぢゅうグループ」は「ぼてぢゅう」をはじめ、「ぼてぢゅう屋台」「ぼてや」「ぼてぢゅう燦」「香蔵製麺所」の4ブランドを展開。海外にも進出し、2011年12月23日現在、国内65店舗、海外12店舗を展開している。
主な業態 「ぼてぢゅう」「ぼてぢゅう屋台」「ぼてや」「ぼてぢゅう燦」「香蔵製麺所」他
企業HP http://www.botejyu.co.jp/

常連客だった父が「ぼてぢゅう」の暖簾を継承する。

もともとは薬品会社を経営されていたそうだ。今回ご登場いただく栗田の父、北村貞次氏の話である。その父が「ぼてぢゅう」の暖簾を譲り受けたのは、栗田が生まれる1年前の1962年のことである。
「『ぼてぢゅう』が創業したのは、1946年(昭和21年)のことです。西野栄吉さんという方が創業者です。この店の常連だったのが私の父で、1962年(昭和37年)に暖簾を譲り受けます。いまでいう『のれん分け』です。最初はサイドビジネスだったそうですが、いつのまにかこちらが本業になり、『ぼてぢゅう』というブランドと暖簾を継承するようになりました」。
「現在、ぼてぢゅうという名称は2社が名乗っています。そのなかで『ぼてぢゅう』の暖簾(商標権)を継承しているのは私ども『ぼてぢゅうグループ』だけです。父が暖簾を継承したのがその始まりです」。

5歳の時、東京に引っ越す。水泳教室、学習塾通いがスタートする。

「ぼてぢゅう」が東京に進出するのは、1965年(昭和40年)のこと。渋谷東急プラザ(現、渋谷東急店)に渋谷店を開設する。これは同時に、食い倒れの街で育ったコナモン文化の東京進出でもあった。この渋谷店がヒットし、1968年(昭和43年)には株式会社東京フードを設立するに至っている。
この年、栗田は5歳になり、東京暮らしを開始した。
「うちは3人兄弟なんですが、私が末っ子で上2人は女性です。何かにつけ厳しい父でしたが、私は末っ子だからでしょう。兄弟のなかでも可愛がられたほうだと思います。兄弟の中で東京に来たのは私一人でした。私一人ということもあったんでしょう。母は、私の教育に全力投球します(笑)」。
「小学生になると、私は水泳と学習塾に通い始めます。とにかく、水泳と塾という生活でした。小学生の記憶の大部分が水泳と塾で占めているのは、そのためです。水泳では大会にも出場し中学でも続けるんですが、練習が厳しく正直にいえば苦痛でしかなかった。その一方で塾にも通っていましたから、遊び時間も満足に与えられませんでした」。

エレベーターから足を外した?

「中学は私立で、エスカレーターで進学できる学校でした。中学になっても前半は水泳漬けの日々です。でも、次第に興味が分散します。高校生になると校則も緩くなって、自由度が増しました。髪型も、ロン毛やパーマもOKで、ヒゲも自由でした。いま考えれば、高校生は大人扱いだったんでしょうね。それを勘違いするというのか、叱られないのをいいことに、私も毎日のように六本木通いです(笑)。当時、ディスコが全盛期で、ビリヤードやカフェバーもヒットしていた時代です」。
「それでもキチンと家に帰っていましたし、学校にも欠かさず通っていました。実は、学校が大好きで、楽しくて仕方なかったんです。いま振り返っても高校時代がいちばん楽しかったぐらいです」。
しかし、楽しすぎたのだろうか。もしくはハメを外し過ぎたのだろうか。高校3年生の夏には、付属の大学への進学が決まっていたが推薦から外されてしまった。

大学時代、「ぼてぢゅう」のアルバイトを開始。

推薦を外されたのは高3の12月。いまさら受験勉強をしても始まらない。ところが運よく、大学に進学することができた。
これが転機といえば転機となった。
生活水準が高く家庭環境も似ていた学園生活とはまるで異なり、いろんなタイプの人間が思い思いの学生生活を送っている。その雑多な集団に、栗田はカルチャーショックを受ける。だが、このショックは自分を見つめ直す、良いきっかけともなった。 
   『ぼてぢゅう』を継ぐことを意識しはじめたのも、己を見詰め直した結果ではないだろうか。ともかく、そういう風にして『ぼてぢゅう』でのアルバイト生活が始まる。
もともと末っ子の栗田は父に可愛がられていた。だから、栗田にとって父はそれほど怖い存在でもなかったようだ。ところが、「ぼてぢゅう」でみた父は別人だった。
「仕事をしている父には近寄りがたいオーラがありました。家でいる時とは別人です」。これが、仕事をするということなのか。栗田は、父の背中をみて仕事の大事さと、その大事な仕事に取り組むスタンスを知る。
結局、大学を卒業するまでの4年間は、栗田にとって「ぼてぢゅう」の修業時代となる。就職は既定路線。すでに英才教育が始まっていたのだろうか。
「父は、現場を良く知らない。だから、私には現場を知るようにということなのでしょう。この大学の4年間も含め、現場のなかで叩き上げられました」と栗田は語っている。

父から子へ。

初代から2代目へ。2代目から3代目へ。多くの場合は、親から子へバトンが渡される。「ぼてぢゅう」の場合、最初のケースは違っていた。常連客だった父が「ぼてぢゅう」を継承し、その息子である栗田が、次代の店主となる。初代から数えれば3代目となる計算だ。もっとも東京フードで考えれば、栗田は2代目社長で間違いない。
さて、大学を卒業し、東京フードに入社した栗田は、現場でさまざまな経験を積んでいく。その後、取締役企画開発部長、常務取締役に昇格し、2001年、父北村氏が他界すると、その跡を継いで代表取締役に就任した。
2012年1月現在、就任からすでに10年が経過している。38歳で社長に就任した栗田も、すでに48歳。だが、事業意欲はますます旺盛だ。「ぼてぢゅう」に加え、「ぼてぢゅう屋台」「ぼてや」「ぼてぢゅう燦」「香蔵製麺所」などの新ブランドをリリース。海外に目を向ければ、シンガポールや韓国に12店舗を展開し、今後、更に拍車をかけていくという。

食文化の継承と発信。

世界に目をむける一方で、栗田は日本各地の文化やグルメにも関心を抱く。「ぼてぢゅう屋台」で「富士宮やきそば」「横手やきそば」「ひるぜん焼そば」がメニュー化されているのはその表れだろう。
「地域の本物の食文化を皆さんに提供していきたい」と栗田。浪速の味「お好み焼」を全国に広げた父の実績がある。ただ、父の方法をトレースするだけではない。大手企業となったいま影響も昔と比べられない。父よりも慎重になることが大事だ。
「○○風は、論外です。大手企業がそれをすれば、まったく違った味が独り歩きします。だから私どもでは地元でしっかり研修を受け看板をいただいてはじめてメニューに加えています」。
味へのこだわりだけではない。地元の食材を購入し、地域経済の活性化にも貢献している。
「地域に貢献しないのでは意味がありません。私たちが地域の食文化を広げさせていただくことで、その地域も潤う。これが理想です。そうならないと継続もありません」。
こうした地域文化の継承は、海外と日本という二軸でも考えることができる。日本の食文化をどう海外に伝えるか。発信する側となっても考え方は同じだろう。
食文化の継承と発信。ここでも栗田の手腕が問われていくことになる。

最後に。

いままで見てきたように国内でも、海外でも新たな芽を育て始めた「ぼてぢゅう」。その限りない可能性を広げていくのは言うまでもなく、若いスタッフたちだ。アルバイト時代から現場で育ってきた栗田だから、現場のスタッフに対する期待は大きい。
「人材の採用は積極的に行っていきます。お好み焼や焼そばといった定番メニューでどこまで世界に通用するか、また地域の文化を取り入れることで定番メニューの魅力をいかに高めるか。そんな戦いをいっしょに繰り広げてくれる人材と出会いたい」とのこと。
栗田の下で、共に挑戦する。可能性を追いかけるたのしい世界が待っているはず。なぜなら、お好み焼を含めたB級グルメは、実のところ、A級以上の可能性とパワーを持っているからだ。

思い出のアルバム
   
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