株式会社Big.Belly 代表取締役社長 大林芳彰氏 | |
生年月日 | 1973年4月2日 |
プロフィール | 東京都練馬区に生まれる。3人兄弟の長男。父がユナイテッド航空に勤めていたこともあって、早くから海外に旅行する。拓殖大学を卒業後、住宅メーカーに4年勤務。26歳の時に、代官山のレストラン「モンスーンカフェ」で食事したことをきっかけに、グローバルダイニングに入社する。アルバイトから正社員になり、29歳で料理長となる。その後、「モンスーンカフェ」渋谷、お台場、ららぽーとTOKYO-BAYの各店で料理長を歴任し、09年には旗艦店である「モンスーンカフェ」舞浜の料理長に就任。昨年3月、同社を退職し、株式会社Big.Bellyを設立。6月に、池袋西口オリエンタルビストロ&ワイン「AGALICO(アガリコ)」をオープンする。 |
主な業態 | 「AGALICO(アガリコ)」 |
https://twitter.com/agalicooo |
海外にはもう何度も行った。「AGALICO(アガリコ)」の内装デザインを決定するときにもデザイナーを連れバリに出かけた。まるで国内を旅行する気軽さで、海を渡る。
今回、ご登場いただく(株)Big.Bellyの社長、大林芳彰のことである。
大林が生まれたのは、1973年4月2日。
東京都練馬区で生まれ、千葉県成田市で育っている。
「成田に引っ越したのは、父がユナイテッド航空に勤めていたからです。父は、地上職でしたが、海外に行く機会も多かったのでしょう。私たち家族も夏になるとハワイに連れて行ってくれました。私は1歳の時からハワイに行っています(笑)。そのおかげで、海外を特別だと思ったことはありません」。
大林が1歳といえば、1974年。日本で万国博覧会が開かれてまだ4年目。一般人には、海外はまだまだ遠い存在だったはず。その点で大林は恵まれていたことになるだろう。
一方、大林はスポーツ万能な少年だった。甲子園出場経験のある父が少年野球チームをつくり、大林もチームに所属していた。ポジションはピッチャーかショートで、打順は1番。中学に進んでも野球をやったが、1年からレギュラーだったという。
高校に進学すると野球を辞め、スキーを始める。「クロスカントリー」で1年の時から、インターハイや国体に出場していたというから、スキーの才能もあったのだろう。
冬はスキー、夏はサーフィン。
ちなみに、いまもサーフィンには凝っている。サーフィンをするために、バリ島にも良く行くそうだ。実は、店舗のコンセプトのヒントもバリでみつけている。もっとも少年時代はもっぱらハワイだった。その様子が次の話からも伺える。
「高校は拓大紅陵高校に進んだのですが、実は、ハワイの高校に行こうと思っていたんです。さすがに親に反対されました。私の性格を知っているだけにハワイに馴染んで帰ってこないと思ったんでしょう(笑)」。
父も通っていた拓殖大学に進んだ。大学時代は、成田のチケットカウンターや母方の実家である大学そばのパン屋でアルバイトをして過ごした。
「就職は、住宅メーカーです。大手だったこともあり、スグに静岡に転勤させられ、九州、三重、名古屋と4年間で4回、転勤しています。転勤は、美味しいものを食べられたり、友人ができたり。友人ができると、ただで寝るところができるでしょ。だから、ぜんぜんイヤじゃなかった。営業職ですが、それなりの成績も残せたと思っています」。
なら、せっかく勤め、成績も残している会社をどうして辞めたのだろうか。「あるエリアに転勤になった時の上司が、伝説的な営業マンだったんです。ところが、私とは考えがまるで違っていました。休日も返上です。私は、いまでもそうですが、休みを充実させるために仕事をしているんです。なのに、その人は休みも仕事をして、それでいちばんでしょ。逆にいえば、いちばんを取っても、休みがないんです。これじゃぁ、先が知れているな、と。それが、退職の本音です」。ただし、次の職のアテはない。
「ハワイ出身の元力士が経営されている、ハワイアンレストランがあったんです。第一号店です。その店で、仕事を始めました。生まれてから何度も行ったハワイに興味があったからです。ただ、どうなんでしょう。業績はパッとしなかった。そんな時、代官山のレストランで食事をしたのがきっかけで、グローバルダイニングに転職します。レストランの名前は、『モンスーンカフェ』。当時、2時間半ぐらいマチがでる人気店でした。食事をした翌日には、さっそく店に行って『働かせてください』と頭を下げていました。最初は、正社員にはなれずアルバイトからです。もう、凄かったですね。できる人は、どんどん給料を取っていく。私も、夏のボーナス200万円って時がありました。もちろん、その逆もありです。数字が達成しないと降格もザラ。とはいえ、人を引き付けるパワーがあったんでしょうね。厳しさを目の当たりにしても、正社員になりたいと思う奴で溢れかえっていました」。
「2年ぐらいバイトして、オレには強みがないと気づくんです。調理をしていたんですが、カリスマと言ってもいいほどセンスのある先輩もいる。とてもいまのままじゃ敵わない。それで、いったん退職し、タイに渡ります。タイ料理を勉強し、強みにしようと思ったんです。3ヵ月、タイ料理を学んで、帰国。もう一度、グローバルダイニングのトビラを叩きます。戻ってくると、上司にも、周りにも宣言して旅立ったんですが、みんな驚いた表情をしていました。戻ってくるとは誰も信じてくれていなかったようです (笑)」。
3ヵ月に過ぎないが、タイでの修業は大きな意味を持った。自信も付いた。周りの目もかわった。大林は正式に正社員になる。
料理長に昇格したのは、29歳、2002年のこと。
「29歳で料理長になり、モンスーンカフェ渋谷、お台場、ららぽーとTOKYO-BAYの各店で料理長を歴任し、2009年には旗艦店である『モンスーンカフェ』舞浜の料理長に就任しました」。
次々と名店の厨房を任される。いつのまにか、大林もまたカリスマ的な料理人の一人になっていた。そして、いよいよ独立開業の日が近づいてくる。
2011年3月。大林は株式会社Big.Bellyを設立。設立から3ヵ月経った2011年6月1日、池袋西口5分に<オリエンタルビストロ&ワイン「AGALICO(アガリコ)」>をオープンさせる。
店内は、アジアのリアルな雰囲気が漂っている。それもそうだろう。設計は、著名なデザイナーに依頼し、彼らと共にバリにインテリアなどの買い付けにも行き、内装のイメージを膨らませ作り上げた渾身の作品である。
「スケルトンの状態から、練りに練ったアイデアを具現化するためにイメージを膨らませ、デザイナーと共に細部まで作り込んでいきました。ご覧いただければわかりますが、店内はオープンキッチンです。アジアのにぎわいが伝わります」。
「カウンターに座っているお客様がひょいと首をのばせば、調理している手元まで見えるでしょ。だから、安心感もあるんです」。
「臨場感」は、いまの飲食にとって、たしかに一つのキーワードのような気がする。「店内にはカウンター席とテーブル席を用意しています。そのほか、キッチンと窓を隔ててカウンターテーブルを用意し、立ち飲みのスペースをつくっています」。
席数は38席、坪数20坪、それでいて月商は1000万円に迫る。
「当初、想定した数字よりいい結果です。スタッフがいい。それがうちのウリです。メニューも1ヵ月毎に、新しいものに差し替えています。リピーターが6割なので、おなじものではなく、アジアのフレーバーを取り入れつつ、つねに新たな料理を生み出し刺激を与えていきたいと思っています」。
北千住に2号店もできた。今後はどうなっていくのだろう。
大林がたどり着いた答えは、「地域」というワード。そして仲間を大事にする思いだった。「末永く続けていくためには、地域の人たちから愛されないといけません。うちの店は夕方6時〜朝8時まで開いています。時間帯により客層がぜんぜん違います。でも、いずれの客層の人たちからも愛される店であり続けたいのです」。
一方、店舗が軌道に乗り、採算が取れればスタッフに譲るつもりと言う。起業家の先輩として、育成を柱に、スタッフを育て、起業家を輩出していこうとしているのだろう。
大林が、仲間たちとともに仕掛ける、次のレストランにも期待したい。
いずれにしても、海外に精通した、もしくは日本と海外の壁を意識しない大林だからできた、国際派のエンターテインメントレストラン、「AGALICO(アガリコ)」。
歩いていける「バリ」が大人気だ。
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