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第268回 株式会社アップラインズ 代表取締役 滝川 徹氏
update 12/02/28
株式会社アップラインズ
滝川 徹氏
株式会社アップラインズ 代表取締役 滝川 徹氏
生年月日 1962年6月8日
プロフィール 滋賀県に生まれる。大学卒業後、病院で人事マンを10年、経験。学習塾を経営して独立し、成功を収めたが、多くの人たちと、より大きな感動を求めて「飲食」に挑戦。3年の苦心の末、開発した餃子「牛とん包(商標第4520228号)」で、「全国餃子名店対決(ナムコ&日テレ主催)」で優勝。その人気により、ナムコが主催する餃子スタジアム出店企業中トップの売上を記録するに至る。TV、雑誌でも頻繁に紹介され、2008年6月には世界食品コンテスト「モンドセレクション」において「餃子」で世界初の金賞を受賞する。2012年1月現在、同社は、プロデュース事業、食品事業、教育事業、ビジネスサポート事業を展開。食品事業では「〜餃子&麺〜包王」(3店)、他4店舗を運営している。ちなみに「牛とん包」は、直営店以外にも、ライセンス店をはじめ17店舗で食すことができる。
主な業態 「〜餃子&麺〜包王」「〜餃子酒場〜包王」
企業HP http://www.up-lines.com/
大陸生まれの母は、おおらかな性格で、心の広い人だった。世界で活躍できるような人になれ、 息子には、そう諭した。滝川が生まれたのは1962年。東京オリンピックが開催される2年前だ。警察官の父は、木材店の経営者に転身。高度経済成長の波にも乗り、事業は順調に育ち、妹を入れ4人家族の滝川家には、幸せの明かりが灯っていた。「父は厳格で、テレビの前でも足を崩さず正座です。一方、母は大陸生まれということもあったのでしょう、明るくおおらかな性格の人でした」。滝川は、母に似て、おおらかなタイプである。おおらか過ぎて、時には、周りの心配をよそに突っ走ってしまうこともあるのだが…。では、いつも通り飲食の戦士「滝川」の、足跡を辿ってみることにしよう。

人気者に憧れて。

「目立ちたがり」「一番」。小さな時から、目立つこと、一番になることが、好きだったらしい。小学校の運動会では、鼓笛隊の先頭に立ち指揮を取った。「目立ちたがり」の本領発揮である。野球もがんばった。野球漬け、と言っていいぐらいに。みんなの前でヒーローになる瞬間がたまらなかったのではないだろうか。中学からはボーカルとギターも始める。文化祭では、ステージにも立った。ファンクラブも出来た。
女生徒達にキャーキャー言われるのに最高の幸せを感じ、中学3年の進路指導では、ミュージシャンになると堂々、宣言。「スター誕生に出て…」とプランも披露したが、先生の一喝で高校進学に切り替えることになる。進んだのは県内でもトップクラスの進学校だった。転機が訪れたのは、高校3年の時。大好きな母が他界する。享年48歳。それまでいずれ海外で、と思っていたのだが、父のことを思うとなかなか行動に移すこともできなくなってしまう。大学卒業後も、県内にとどまった。就職先は、滋賀県の病院。意外だが、滝川の社会人スタートは、病院での事務職(人事部)だったのである。

1000万円以上ならいい。安売りはするな、恩師の一言。

「2つの病院を経験するんですが、印象に残っているのは、最初の病院です。2年目に上司となった事務長が、とにかくきびしい人だったからです。きびしいと言っても私にだけ。事務長の仕事が全部、私に回ってくるんです。膨大な仕事量と難易度の高さ、だから、周りの人は定時になれば帰るのに私は、毎日、深夜まで残業です。事務長も残っていますが、「まだかぁ」「やり直し」の言葉だけ。『かわいそうに』、周りの人からも、そう言われる始末です」。きらわれている、と思っていた。いっそ辞めようかと思ったこともある。だが、「何か一つぐらいは勝ってみろ!」と挑発され、「抜いてやる!」と誓ったことがクサビになった。「5年目の時です。私も少しは仕事ができるようになっていました。そんなとき、ある病院からオファーを受けたんです」。事務長に相談した。帰ってきた一言は意外だった。「なんぼや」。「えっ」と聞き返す。給与のことだとわかり、500万円と答えた。すると「オレの全部を引き継いだんだから、安売りはするな! 1000万円以下では売るな!」と言われた。そのときになって初めて、事務長の気持ちを理解することができた、と滝川は振り返る。「この人は、当初からオレのことを考えてくれていたんだ」。

経常利益2億8000万円。

10年一区切り、と滝川はいまもそういう。病院で10年、その10年を区切りに独立した。「病院の事務で終わりたくない、そんな気持ちがわいてきたんです。母から大きな世界で活躍する人間になれと言われていたことも影響しています」。病院を辞めて始めたのは塾の経営だった。「病院時代の最後の1年で、塾の経営を始めました。塾ならできるだろう、と」。素人だったが、戦略はあった。プロと呼べる女性講師だけをスカウトし、女子生徒だけをタ=ゲットにした塾を開く。退職後は一気に3つの塾を開校。戦略が功を奏し、10年後には7校、経常利益が2億8000万円に達するようになる。ちなみに、退職し独立したのは、奥様が「出産で実家に戻っているスキだった」そうだ。家を建てるための資金も、つぎ込んだ。気でも狂ったかと周りからは非難の嵐。だが、そんなことでは性格は治らない。

世界へ、日本一に。

無謀な戦いをふたたび始めたのは、やはり10年後だった。「塾の経営は順調でしたが、軌道に乗せるまでは一生懸命、乗ってしまえば飽きてしまうという悪い習性があり、次の展開を考え始めます。大きな人間になるには、大きな仕事をしなければいけません。世界や日本一というような言葉が頭に浮かびます。でも、どうすればいいかなんてわかりません。複数校あったとはいえ、しょせん滋賀の田舎の塾経営者です」。「ひらめいたのはサンフランシスコで、でした。サンフランシスコの町を歩いている時に、あの餃子をこの国でファーストフードとして売れば爆発する、と思うのです。私が、あの餃子とは、母方の祖父が満州鉄道に勤務していた時に、満州の家庭で食べられていた、といって作ってくれた手作り餃子です」。

新たな始まり。

無謀な虫が動き出す。今度は、餃子作りに専念する。「どうせやるなら、日本で一番美味いといわれる餃子を作って、メジャーにする」と決心。もちろん、料理の経験はない。全国の人気店を食べ歩いては試作と改良を毎日毎日。「結局、3年、格闘して8キロ太りました(笑)」。これがのちに、世界食品コンテスト「モンドセレクション2008」において餃子で世界初の金賞を受賞する「牛とん包」だ。とはいえ、当時は、素人が作った餃子に過ぎない。レシピはできあがったが今度は作ってくれるところがない。歩きまわったが、なかなか快諾してくれる食品工場はみつからなかった。それでも、あきらめない。1年間、探し回って、ある食品工場の社長がようやく引き受けてくれた。「これで生産することができる」。救いの神に思えたことだろう。だが、それはまだ次の戦いの始まりに過ぎなかった。

上京。手探りの戦い。そして。

「販路を開拓するために、この時、上京します。いつものことですが、塾の経営者が何しに来た、と冷ややかな目でみられます。一方、工場っていうのは、大量に作るから、売れないと大量廃棄です。ドカンと作って、ドカンと捨てる。販路が次々決まらないと、どんどんお金が捨てられていきます」。商品には絶対の自信がある、日本で一番美味いと思っている。足を棒にした。何度も頭を下げた。だが、返事はノーの連続。「何件目だったでしょうか。唯一、東武百貨店のバイヤーさんが、『商品も気に入った、おもえの志も気に入った』と、ギフトに採用してくださったんです。もう天にも昇る気持ちです。これを機に販路も順調に拡大、ホッとしたのもつかの間、今度はBSE問題です。名まえが、牛とん包でしょ。牛と付いているだけでアウト。もう、私もノックアウト寸前です。そんな私を救ってくれたのが、ナムコさんが始めた餃子スタジアムです。新聞でその存在を知り、ここでお店を出したい、これぞ求めていた場所だあ〜と。ただ、当初は店も無く、歴史も無く、行列店でも無く、何にも無い(笑)、全国の餃子の名店を集めたフードテーマパークですから、当然ながら出店はかないません。かろうじて、お土産用に置いてもらったに過ぎません。諦めきれません、どうしても出店したい。それからも何度もナムコの担当者のもとに通います。いつしか夢の出店場所になっていました。『今日は、何ですか?』、担当者は冷たくなる一方です。ところが、2003年、ナムコと日テレの主催で「全国餃子名店対決」が行われるんです。『滝川さん、出られますか?』、意思あれば通ず、大きなチャンスをいただきました」。

全国餃子名店対決、優勝。

この全国餃子名店対決には、もう一つの主旨があった。優勝すれば、餃子スタジアムに出店できる。逆に言えば、一店舗分あいたスタジアムの店舗に出店する権利を争う戦いでもあったのである。結果は、優勝。初出店にこぎつけた。しかも、出店企業中トップの売上を記録することになる、 絶好調。ただ、この鮮烈なデビューも、女神が気まぐれにほほ笑んだだけに過ぎなかった。こののち、滝川はJR東京駅に餃子と近江牛の店を出店。のちに「1億円が簡単に融ける」というほどの洗礼を受ける。予想売上月1500万円に対して、実績ベースでは月150万円。損益分岐点も、ラクラク下回る。初期投資に加え、毎月数百万円の持ち出し。貯金通帳から毎月、数百万円単位の金が消えてなくなる。しかし、この苦境も、バネにした。「牛とん包」につづき、2009年「モンドセレクション」で金賞を獲得する「節だし豚骨醤油らーめん」も、この時、生まれている。

小さくまとまるな、大きな男になれ、母との約束。

母は大きな男になれと言った。世界で活躍しろと言った。息子はその言葉を、母との約束のように忠実に守ろうとしている。母から譲り受けた気質のなかに、母とおなじ思いが潜んでいたと言い換えることもできるだろう。親から子には、言葉と血という2つの伝達方法があるからだ。だからだろうか。滝川は、店主で終わろうとしていない。どちらかといえばプロデューサーというアプローチを好んでいるように思える。「牛とん包」も「節だし豚骨醤油らーめん」もその一つだ。ブランドづくりとともに、滝川は、ビジネスモデルの確立に精力を傾けてきた。いまも、その思いはかわらない。「日本中の人に『牛とん包』を食べていただきたいんです。『なんじゃこりゃ〜美味いっ』て言われたい。それが、いまの目標です」、と滝川。どうすれば日本中に広がるか。模索はつづく。今年からライセンス店の募集を本格化するが、その他にも、異業種とのコラボレーションも、ひとつの方法かもしれない。他店と差別化したい飲食店にメニューとして加えてもらってもいいだろう。方法はさまざまである。ただ、どのような方法を取るとしても、結果は、みえている。なぜなら、「牛とん包を全国に!日本一メジャーな餃子に!」その夢がかなうまで、あきらめないで戦いつづけるからだ。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
小学校時代、鼓笛隊長を務める 病院勤務時代 塾経営時代
   

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