株式会社ビーヨンシー 代表取締役社長 石井宏治氏 | |
生年月日 | 1954年、東京生まれ。 |
プロフィール | 1979年、25歳で単身渡米。西海岸のカーメルで出会ったレストランオーナー夫婦に人生を教わり、帰国後の26歳から父親の跡を継ぎモツ焼き屋を経営。その後、株式会社ビーヨンシイを設立。 モツ焼、ホルモン焼を中心に73店舗(直営店9店舗、のれん分け・FC・準FC64店舗。08年8月現在)を展開。 株式会社ビーヨンシイ代表取締役社長、有限会社エムファクトリー取締役会長。学生時代より競泳選手を志し、現在も防衛大学校水泳部の監督を行っている。 |
主な業態 | 「もつ焼き処い志井」「やきとり処い志井」「カフェバァーンズ」など |
企業HP | http://www.ishii-world.jp/ |
東京・中野の駅前でホルモン焼き店を経営する両親の元に石井氏は生まれた。黙々とホルモンを焼く父親は、元役者の父と元芸者の母を持ち、元気に店を切り盛りする母親は商人の娘として育った人物。育った環境のせいか仕事を離れれば粋に着物を着こなす二人は、異色なホルモン焼き屋の店主だった。住まいはお店の2階。店内を通らなければ“家”に入れなかった石井氏は、仕事帰りに飲みに来ているサラリーマンたちに可愛がられ、よくサイダーをごちそうしてもらったという。
その後、店舗拡大のため調布にお店を移した『い志井』だが、石井氏は家業を継ぐ決心がつかなかった。「ホルモン焼き屋なんて格好悪い。俺は水泳の指導者としてだって生きていける」。25歳。逃亡まがいのアメリカ旅行に旅立つ。「アメリカで自分がやるべき何かを探そう」。
しかしなんの伝手もない石井氏は、放浪するしかなかった。西海岸から中西部へ、中西部から東海岸へ。5カ月経つ頃には軍資金が底をつき帰国しなければならなくなる。レンタカーをサンフランシスコに向けて走らせる心は沈みきり、お腹はペコペコ。モントレー半島に入った時だった。突然、見た事もないようなキラキラと光る海に包まれたお伽の街に入る。カーメル(今では俳優のクリント・Eが市長を勤めた街として有名)だった。そして1軒のレストランが視界に入った。「中を覗くとじいさんとばあさんしかいなかった。食べて逃げちゃおうかなと、車をいちばん出しやすい位置に置いてハンバーガーとコーラを注文しました(笑)」。
相手は人生経験豊富な老夫婦。石井氏がどう装っても挙動不審な態度は見抜かれていた。「観念しました。全部食べ終わる前に厨房に入っていって、お金がないことを正直に話しました」。しかし驚いたことに、白いヒゲをたくわえた185cmはある長身の店主はゲラゲラ笑い出したという。これは後日分かったことだが、この老夫婦は石井氏のおかしな様子を見て賭けをしていたのだという。もしこのアジア系の青年が無銭飲食だったら、夫のトムは念願の釣り竿を買ってもらえる。トムさんとしては「お前よくやった!」のゲラゲラだったのだ。
お詫びのしるしとして皿洗いをした石井氏だったが、今度はその老夫婦に引き留められることになる。何せ洗い物が上手い、早い。ハンバーガーのネタのこね方、味付け、形成が見事。窮地の場面で『い志井』での手伝いが助け舟を出してくれた。2階のゲストルームに招かれ、1週間滞在することになった。
そしてアメリカ滞在最後の日。その日はどうやら20名規模のパーティがあるらしく、石井氏もさっそく厨房で手伝いをはじめようとした。すると「今日はお前のお別れパーティだ」という。そしてパーティ終了後、トムさんが給料をくれた。「このお金でレンタカーを返して、無事に日本に帰りなさい」。石井氏はサンタクロースがここにいたと思ったと同時に、日本に帰ったら真面目に父親の仕事を手伝おうと決心したという。
「僕はアメリカでアメリカ人から人情、サムライの魂を学びました。トムさんに恥じない仕事をしよう。心に誓いました」。
調布に戻った26歳の石井氏は、新たな店舗を構えモツ焼き屋をオープンする。父親から伝授された焼き方、味付け、同じ素材。しかし『い志井』ののれんを下げるまでは一向に客が入らず、お店は潰れかけたこともあったという。
「のれんて凄いな、父親がやってきたことは凄いなとつくづく思いました。サービスを変えているわけではないのにお客さんがどんどん増えていく」。大規模な店舗にすることにも、多店舗展開をすることにも一切の興味を示すことがなかった父親の頑固一徹な仕事ぶりに、ここでも石井氏は救われる。
現在、直営店9店とFC店など64店を展開する石井氏だが、調布のお店を始めた当初はそうした経営ビジョンは微塵も持っていなかったという。きっかけはある一本の電話だった。「『い志井』さんのお店を群馬でやらせてもらえないだろうか」。高崎食肉センターに伝手があるというその人物がきっかけとなって、高崎食肉センターの理事長の小櫻氏と知り合った石井氏。二人は“ホルモンを心から愛する気持ち”が共通項となって意気投合。すぐにビジネスパートナーとなった。
ただし約束事があった。「ウチが提供するホルモンは、これから石井さんが新しく始める店で使いましょう。だってそうでしょう?これまでの仕入れルートを断ってウチと付き合ったら、その業者さんと家族はどうやって食べていくの?」。ここにもサムライがいた。石井氏は商売の師、人生の師とまたもや出会い、FCという道を切り開いていく。
「年間60を越えるFC加盟の問い合わせをいただくのですが、実際にお任せするのは5店舗ほど。家族だと思って付き合える人にしか任せたくないし、仕事じゃなく人生としてホルモン焼きをやってくれる人とだけ一緒にやりたい」。
石井氏のFCは、一見外からは倍々ゲームで増えているように見えるが、実は慎重に選別されている。しかしそれでも成功の確立は100%にはならないという。「人を見極めるというのは本当に難しい。それは今でも僕の課題です」。
モツ焼きでベースを築き成長路線を走ってきた石井氏だが『クリスマス亭』という洋食の店も経営している。それは、調布で1店舗を切り盛りしていた時からの夢の店。
「アメリカでお世話になったトムさん夫婦の店とまったく同じ作りの店を建てたかったんです。1階はレストランですが2階は自宅、ゲストルームでは社員が泊まったり、留学生を預かったりしています」。
しかし億単位の費用がかかったこの店が、バブル崩壊後の90年代に経営を圧迫する。初の社員を集めての緊急会議。「水の出しっぱなしや電気のつけっぱなしをやめようよ」。石井氏が社員にこんなケチ臭い話をしたのははじめてだったが、社員は冷静だった。
「社長、一ついいですか。そういうことも大事ですが、社長のベンツがいちばんのネックだと思うんですが」。石井氏は翌日、所有していたすべての車を売った。なにせ石井氏が“車大大大大好き人間”であることは社員たちはよく理解している。それをすべて売ったことで社員全体が一丸になることができた。「石井は本気だ」。どん底からの復調。社員の頑張りのおかげだった。
早ければ08年内に、私たちは石井氏の新たなチャレンジを見ることができるかもしれない。
「飲食店をやりたいという独立志向の方はとても多い。でも資金の問題、仕入れルートの問題、調理の技の問題…。お金とノウハウが手に入らず困っている人も多い。だから僕は今、それらすべてを支援する道場のような店をやろうとしています。銀行の融資なんかがなくてもお店が開けるようなスキーム作りも考えているんです」。
場所は赤坂。元は鉄板焼の店だった店舗を活用し、ジョッキ生1杯350円、ホルモン1本90円の“安さをいちばんの売り”にしたお店をオープンするという。働くのは独立志願者。ここでサービスや経営のノウハウを学び、独立に際しては石井氏やその仲間の人脈を通して入ってくる店舗物件を活用できるという。
これまでお世話になった方への感謝の気持ちを、この“独立志願者の道場”を通して次に繋げていこうとしている石井氏は、現在、赤坂の店舗オーナー、ビール会社の社長、その他協力してくれるスタッフなどと打ち合わせを重ね、オープンに向けて奔走している。日々忙しく走り回る石井氏だが、幸せとは何だろうか?
「それはお客さんが本当に美味しそうに食べてくださる顔を見る時ですよ」。やはり石井氏の仕事の原点はここにあり、店舗拡大の原点もここにあるのだろう。それと忘れてはならないもう一つの幸せ。車だ。「ちょっと暇ができれば九州にだって運転していきます」。業績復活と同時に、もちろん趣味の車はさっそくラインナップしていた。
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