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第274回 株式会社聘珍樓 代表取締役 林康弘氏
update 12/03/19
株式会社聘珍樓
林康弘氏
株式会社聘珍樓 代表取締役 林康弘氏
生年月日 1947年8月
プロフィール 小・中・高をセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジにて過ごす。上智大学に進学後、アメリカ、カリフォルニア大学に編入。帰国後、サラリーマン生活を経て、聘珍樓に。のちに7代目社長となる。日本語はもちろん英語、広東語、北京語が話せるという。
主な業態 「聘珍樓」
企業HP http://www.heichin.com/

聘珍樓と父、林達雄氏。

今回ご登場いただく林康弘氏が生まれたのは、1947年8月。戦後からちょうど2年が経った時だ。父であり、聘珍樓6代目社長、林達雄(旧名バンチュウシン)氏の5人兄弟の末っ子である。
さて、林氏を語るには、そのまえに2つの話をしなければならない。一つは父である達雄氏について。もう一つは「聘珍樓」についてである。両者は、戦後、交錯するのだが、まずは、「聘珍樓」の話から進めよう。
ウィキペディアによれば、「聘珍樓」は、横浜中華街に本店を置く中国料理店であり、日本で現存する中国料理店では最古の屋号とある。
「聘」は迎える心、「珍」は尊ぶ心。また、別の意味で、「良き人、素晴らしき人が集まり来る館」という意味を持つらしい。ホームページには、中華街大通りに看板を掲げた写真が掲載されている。創業は1884年(明治17年)。同じくホームページには過去の新聞記事が掲載されており、「支那料理の横綱」として取り上げられている。この新聞記事は、『横浜貿易新報』のもので、発刊されたのは1934年(昭和9年)7月23日。すでに、「聘珍樓は創業五十年の業績に普く全国にしられた東邦最古の濱名物支那料理店」と記されている。創業年を明確に示す資料の一つである。
一方、父の達雄氏は、中国廣東省高明県(現佛山市高明区)に生まれ、19歳で来日している。いったん帰国して結婚するが、やがて両親と妻を残し、再来日を遂げている。林氏は、のちに廣東省を訪れるのだが、その時に、達雄氏のルーツとその詳細を知ることになる。
妻を残し、来日した達雄氏は、当時日本と国交が無かった新生中国に戻ることも訪ねることもできなくなり、その後60年に亘り仕送りをつづけていた。その仕送りが、当時、まだ貧しかった廣東省に住む、親戚を含めた多人数の生計を助けていたことも、その時、知る。親戚たちが達雄氏を神のごとく崇めていたことからも、当時の様子がうかがえた。達雄氏の60年前に国に残した妻はすでに一年前亡くなっていたが、彼女の部屋には、自ら産んだ子ではないのに、達雄氏が送った康弘氏ら兄弟の写真が飾られていたそうだ。
ともかく、両親と妻を残し来日した達雄氏は、中国料理の料理人として修業を積み、一国一城の主を夢みていた。ふたたびウィキペディアによれば、達雄氏は、「戦後、5代目社長であり、友人だった鮑金鉅から聘珍樓ののれんと土地建物を買い受けた」とある。1960年頃の話だそうだ。しかし、一時300坪もあった「聘珍樓」も、震災や戦災などの影響でわずか45坪ほどの、焼き豚や腸詰めを売る店になっていた。
父、達雄氏は、この45坪の店を80坪に再拡大するとともに、それ以前に、現在は林氏の実兄が相続した、もう一軒の中華料理店、萬珍楼(現在、両店は組織的には無関係である)を経営し、 名声を後世に引き継いでいる。ちなみに横浜中華街の発展にも大きく貢献し、1972年に帰化。それに先立つ1969年2月には、中華街の元老というだけではなく、留日華僑の重鎮でもあることなどの功績により、天皇陛下から勲五等瑞宝章を賜っている。
この偉大な父から、林氏が事業を継承したのは、1975年。「すでに80坪程度の立派な店になっていた」と当時を振り返っている。

父、達雄氏との関係。

では、子どもたちにとって、達雄氏は、どのような父だったのだろうか。「漢(おとこ)だな。すごい人ですが、こわい人でした」。そう言いながら、林氏は、いくつかのエピソードを語ってくれた。その一つ。林氏が高校生の頃の話である。
独学だが、14歳からギターを始めた林氏はミュージシャンの間でも注目を集め、有名なグループ・サウンズのメンバーの1人に抜擢されかけていた。「…かけた」というのは、むろん林氏が断念したからである。
「父に、ことの顛末を話し、高校を辞めたいと直訴しました。高校を辞めてグループ・サウンズに入って、TVや映画に出て…。私が言い終わると、それまで黙って相槌を打っていた父が、『それで?』って問いかけてくる。それで? おうむ返しに呟くと、私めがけてハイザラが飛んできた。ひたいが腫れ、それでデビューも、夢は煙と消えました(笑)」。
これ一つとっても、父と息子の関係が良くわかる。ちなみに、林氏は父親のまえで、達雄氏のことを「おやじ」と呼んだことがないらしい。ただし、絶対君主とおそれたからではない。父親を誰よりも尊敬していたからだ。「漢(おとこ)だったね」と表現する誇らしげな林の口調がそれを如実に物語っている。

父、危篤の一報でアメリカ永住断念。そして、父から解雇される。

さて、林氏の話をつづけよう。林氏は、小・中・高を「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」で過ごしている。「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」は2000年に廃校になっているが、明治43年に設立された英語教育主体のインターナショナルスクールである。大学は上智大学に進んだが、学生運動が激しく授業も困難となったため、1年後、日本を飛び出しカリフォルニア大学に編入。大学2年生からアメリカで暮らしている。林20歳。1969年のことである。
林氏は、当時のアメリカの様子を次のように語っている。
「アメリカ時代は、私にとっても一番楽しい時代だった。当時は、イージーライダーが封切されて、主演のピーターフォンダがカッコ良かった。自由の国アメリカの象徴でしたから」。ハイウエイを突っ走って、カナダまでかけたこともある。学費はバイトで賄った。「父は元々、米国留学にはあまり賛成してくれなかったので、4年間を通して、3000ドルしか出してくれなかった(笑)」。勉強ももちろんした。経営学を専攻して卒業、大学院に入りかけた時、父、危篤の一報が入った。「アメリカで暮らそうと思っていた矢先、父が危篤。急遽帰国しましたところ、幸いにも回復しました。その時だった、父から聘珍樓に入るよう言われたのは。アメリカ永住は、これにて断念(笑)」。
「しかしながら、当時は私も若く、父の下で、小さな飲食店で働いて生きて行く気にはなれず、苦労してアメリカで勉強してきたものを何も生かせないような気がして、なんでこんな仕事をと、反発しました。やる気がないからダラダラして、2回遅刻して、抜け出してパチンコしているのをみつかって、クビになりました(笑)」。
「家も出ることになり、取り敢えずはサラリーマンに。あるエレクトロニクス商社に入社しました。その当時、日本ではまだ半導体をつくれる技術がなかった。だからシリコンバレーの会社と合弁会社をつくっていました。暫くしてその会社をいったん辞めて、今度はソニーに中途入社。でも、入社早々に、フランス支社への配属の辞令が出たものですから、転職を考え、その後外資系の男性化粧品会社でマーケティングの仕事に就きました」。
6代目社長である、父、達雄氏から、林氏が「聘珍樓」の事業を継承するのは、すでに書いたが1975年のことである。「結局、サラリーマンを3年続けましたが、ここで聘珍樓7代目に。父の要請でした。店をどのようにしようと全て任せた、と。この時を境に改心し、この時が、私にとっての聘珍樓のホントの意味でのスタートだと思います」。

アメリカ時代の教訓。

父もそうだが、林氏ももとは中国(中華民国)国籍だ。アメリカにも中国のパスポートで入国している。だから、中国人のことを批判することは、けっして好んでではないだろう。だが、アメリカでの話は、辛辣だ。食にたずさわる者として、許せないのだろう。アメリカの中華料理店でバイトをしていた時に少し話を戻す。
「料理に当時台湾から輸入されていた劣悪で安価な人工化学調味料であるグルタミン酸ナトリウムを大量に使用していた。客には出すが、自分達こちらは一切食さなかった。しかしながらその店だけじゃなく、そのようなことは、世間ではまかり通っていた。化学調味料の過剰摂取は、健康に影響を及ぼすというのに、当時多量に使用していたのです。中国も、世界のグルメのルーツである中国食文化も台無しだ」。
チャイニーズ・レストラン・シンドロームと言われていた。もっとも中華料理だけではなく、ポテトチップスにも使われていたそうだが、チャイニーズ・レストランがやり玉に挙げられた。「なんてバカなことをするのだろうと。もし、私が帰ったら、絶対あのようなことはやらないぞと、その時、心に決めました」。
当時のアメリカにおける中華料理界の状況は、林氏にとってはとても残念であったが、いい教訓になった。だから、 現在では、「聘珍樓」では一切、その類の調味料は使っていない。
  そんな教訓も決意も秘め、いよいよ「聘珍樓」の舵取りを、行うことになる。

残された宝物。

「聘珍樓」の事業を引き継いだ林氏は、ことあるごとに父に質問を投げかけたそうだ。その度に明確な答えが返ってくる。その答え一つひとつが、林氏のいまの財産になっている。実質、1年7ヶ月というが、父との濃厚な時間であったに違いない。
「でも、父のほうから口出しは一切なかった。こちらから聞かないと何も言わない人でした。いったん任せたからには、任す、という、そういう人だったんでしょう。店には毎晩老人仲間と二人で、ソバを食べに来ていたけども」。
「でも、聖人君子じゃない。だから、その一方で、会長報酬として、毎月100万円持ってくるようにと言うんです。当時のお金だから相当なものでした。その理由を聞くと、「無償(タダ)で商売が手に入れられると思うな」との言葉が返ってきました。父の命令には逆らえない。自分の給与を15万に抑えて、毎月なんとか捻出しました。で、少しして父が亡くなるのですが、その時にカギを一つ渡されたのです。銀行の貸金庫のカギでした。開けてみたら、びっくり。私が渡していたお金ぜんぶ、一銭も手をつけずにありました。2000万円ぐらいになっていましたよ」。
「私では到底貯められない額でした。だから、父が代わって貯めてくれていたんです。少しぐらい使ってくれればいいものを。一銭も使わずに。これでは親孝行にまるっきりなってない」。
このお金を資金源に、林氏は「聘珍樓」の拡大に乗り出すことになる。唯一できる親孝行を行うかのように。

悠久の世界観。

最後に、もう一度ウィキペディアを参照すれば、「聘珍樓」の支店1号は、1978年2月にオープンした「吉祥寺聘珍樓」とある。その後、「池袋サンシャイン聘珍樓」(同年)につづき、「日比谷聘珍樓」「浦和聘珍樓」「渋谷聘珍樓」「南麻布聘珍樓」「吉祥寺聘珍樓新館」が次々オープンする。
1988年には、香港に、現地法人「聘珍樓香港有限公司」を設立。日本から初の中国料理店の逆上陸出店を果たしている。
現在香港では22年目の老舗になっていて、高い評価を得ている。中でもワンフロアで1000席ある、名都酒楼は飲茶の名店として、アジアでは有名店になっている。2012年2月現在で、国内9店舗、香港6店舗、バンコク1店舗の構成となっている。また、百貨店惣菜コーナーへも多数出店。2000年からは、インターネット事業も開始している。このあたりは、ウィキペディアを参照してもらおう。
林氏は「今日来店くださった方とは、一生のお付き合い」という。簡単な一言だが、この一言に熾烈なまでの真剣さが含まれているように思う。「うちが狙っているのはベストセラーではなく、ロングセラー」という一言には、金儲けではない林氏の事業の信念が透けて見える。
創業120年を超えた、日本最古の屋号を持つ中華料理店、7代目社長であり、総帥ともいえる人物は、たしかに悠久の世界観を持った人だった。

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