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第276回 株式会社エムファクトリー 代表取締役社長 長谷川 勉氏
update 12/03/26
株式会社エムファクトリー
長谷川 勉氏
株式会社エムファクトリー 代表取締役社長 長谷川 勉氏
生年月日 1970年4月28日
プロフィール 千葉県出身。高校時代、テニス選手として頭角を現し、1989年渡米。ウェストバージニア州の総合大学「セーラムインターナショナル」大学にテニス留学する。1994年同大学ビジネスマネジメント科卒業後、2年間サラリーマン生活を送ったのち、「い志井グループ」代表、石井宏治氏と出会い、1997年同グループ入社。「新宿ホルモン」「日本再生酒場もつやき処 い志井」など、新業態立ち上げにかかわり、現在は、株式会社エムファクトリーの社長として、新宿に直営2店舗、FC6店舗を展開。株式会社い志井の副社長も務め、グループ110店舗の経営にもかかわっている。
主な業態 「新宿ホルモン」「日本再生酒場」「ホルモン横丁」「東京ハヤシライス倶楽部」他

やんちゃな少年時代。

今回、ご登場いただく株式会社エムファクトリー代表 長谷川 勉が生まれたのは、1970年4月28日。ちょうど日本で、万国博覧会が開催された年である。長谷川の父はもともと船乗りで、マグロ漁船にも乗りハワイやブラジルなどを航海したそうだ。結婚を契機に陸に上がり、のちに銀行員となり、開発者ともなって、とある大臣賞も獲得している。
一方、母は、三浦ではいちばんの鉄鋼会社の娘さんだった。「最初は、料理ができなくって、親父から習ったそうです(笑)」、つまり、それぐらいのお嬢様だった。
そんな父母が結婚し、長男が生まれ、5年後に、次男の長谷川が生まれた。
「兄は、私と違ってエリートです。勉強もトップだし、スポーツも万能だった。女の子にもモテて、毎年、バレンタインはたいへんだったんです」。
「持ちきれないぐらいのチョコを抱えて帰ってくるんですが、我が家まで追っかけてくる子がいたりして」。
長谷川がさっぱり勉強しなかったことに比べ、生徒会長も務める兄は、いつも品行方正。
「私が小学校1年生の時、兄は6年生でしょ。とにかく、私はやんちゃだったから、校長先生にまで叱られるんです。私の横には、生徒会長の兄がいて、いつもいっしょに頭を下げてくれていました。だから、いまでも兄キには頭があがりません」。
兄弟の仲は良かった。「5年も離れていたから、互いに嫉妬するような関係でもなかったから」だそうだ。

テニスに出会ってやんちゃな少年卒業。

「私が行った中学は、ガラが悪くて、窓ガラスは割れているし、机が凶器に化すし、バイクが校内を走り回っているのも、いつもの風景でした。私も、入学式から短ラン、ボンタン、金具付の靴といういで立ちでしたから、批判はできないんですが(笑)。ただ、小学校では手に追えなかった私が、中学ではスポーツ少年になるんです。兄キの影響で軟式テニスを始めたからです」。
短ラン、ボンタンを着た不良と、清々しいテニスウェアをまとった選手が同一人物とは思えないが、長谷川は、たしかに、その両方で注目された。
「ケンカは他校に殴り込む、そんな時の助っ人役です。助っ人で四番みたいな感じなんですが、クラブのこともあったので、できるだけ控えるようにしました(笑)。一方、テニスは朝から晩まで。暴力に走らなくなったのは、こちらでエネルギーを使い果たしていたからでしょう」。
授業開始まで、2時間の朝練。作ってもらった弁当は授業中に食べ、昼の休憩1時間まるごと練習。使い走りにパンを買わせておいて、午後の授業中に食べ、放課後、ボールがみえなくなるまで、みっちり練習する。そんな生活を3年間、送る。ケンカはあくまで付き合い程度にとどめて。
「1年の夏からレギュラーになり、3年時には関東代表、全国でもトップクラスの選手になっていました」。
運動能力が抜群に高かったのだろう。しかも、ケンカでもそうだが、誰にも負けたくないから厳しい練習にも耐えられる。上手くなるわけだ。

日本に敵はもういない。戦う相手を求めて渡米を決意。

ケンカも、女も、仲間も好き。ケンカと、女は、ほめられたことではないだろうが、それだけ長谷川は人が好きなのだと思う。一匹狼ともいうが、反面、さみしがり屋の面も覗かせる。仲間といっしょにいる、その空間がいい。ケンカにしても、テニスにしても。
中学時にテニス界で頭角を現した長谷川だが、高校になると硬式になる。おなじテニスでも、雲泥の差。まるで違うスポーツという人もいるぐらいだ。その硬式テニスをするために、少し離れた千葉市内の学校に通うようになる。そこでも高い順応能力をみせ、1年の夏にはレギュラーを獲得。高校3年生の時には全日本クラスになっている。
やんちゃ坊主は、いつのまにか、テニス界のヒーローになっていた。大学もテニスの推薦で自由に選択することができた。
ところが、「日本にいたら、また遊び呆けてしまうと思ったんですね。エラそうな言い方ですが、もう日本では敵がいないぐらいに思っていましたから。一方、大学ってどういうところか、兄キをみてだいたい想像がついていましたから、オレみたいなのが行くのは危険だと(笑)。それで、結局、推薦をぜんぶ断っちゃうんです。断って、海外へ、そんな気持ちもあったんですが、何をどう間違ったのか、津田沼の予備校に通います。最初は志はあったんですが、そのうち授業にぜんぜんでなくなっちゃうんです」。
カフェでバイトを始めた。靴が好きだからと、リーガルショップでも始めた。リーガルショップでは、アルバイトで日本一の売上を上げたと表彰される。酒が好きだから、バーの仕事も掛け持ちするようになる。バイトが楽しくてしかたない。
アルバイト代は、3つかけ持って月に40〜50万円。当時としては大金だ。だが、むろん何も残らない。楽しい気持ちにウソはなかったが、その一方で、澱のようなものが溜まっていったのではないだろうか。たとえば、遊べば、遊ぶほど冷めてしまうような。ともかく、半年間、そのような生活を送ったのち、長谷川は一念発起し、渡米を決心する。父親に頭を下げた。テニス留学。行き先は、ウェストバージニア州の総合大学「セーラムインターナショナル」大学だ。

手も足もでなかった。だから、泣いた。人生最初の経験。

長谷川が渡米し、大学に進んだのは1989年。ところが、半年たったぐらいだろうか。めずらしく、メゲた。「辛くって、オヤジに電話したんです。もう、やっていけないって。正直、怒られると思っていたんですね。なさけねぇ、って言われるかもしれないとも。でも、オヤジは、じゃぁ、帰ってこいって。なんか嬉しくなって、逆に逃げ出せないなって思ったんです。帰ってこいよ、というオヤジの優しさが身に染みたっていうのかな。いつだって、帰れる、そう思えたことで、よっしゃ、もう一回って気持ちになれたのかもしれません」。やれるところまでやってダメだった帰国すればいい。時に、割り切ることでチカラが生まれる。
「1年間は、ぜんぜん勝てませんでした。とくに最初の試合は、まったく歯が立たなかった。ボールに触れることもできなかったんです。フルセットやって25分。最短レコードです。それだけ相手にならなかった証拠ですね。生まれて、最初に泣いたのは、この時です。それで、食事はもちろん練習メニューもコーチの言う通りにやりはじめました。そのおかげでしょう。2年目からは体格が良くなり、少しずつ勝てるようになります。そして、最後には大学から表彰されるまでなりました」。「もちろん、練習の一方で遊びもしました。特に、テニスで勝ち始め、注目され出すと状況がいっぺんします。帰ってもいい? と泣き言を言っていたのがウソのように、帰りたくなくなるんです(笑)」。
とはいえ、当初、父親と約束したのは4年。その4年目が近づいてくる。「MBAってあるじゃないですか。あれを取ろうと思いまして。実は、アメリカからオランダの大学に編入するんです。普通はすぐには取れないんだけれど、オヤジとの約束もあるんで、1年でやってやろうと。でも、ハンパじゃなかったですね。いままでいちおう勉強はしてきたんですが、まるで別物です。ぶ厚い本を渡され、じゃぁ、明日まで読んで意見を述べろ、って言うんです。だいたい読むだけでたいへんです。ただ、負けるのがイヤだったから必死にやりました。結局、1年でMBAは取得できませんでしたが、挑戦したことには意義があったと思っています」。

勝つまで、やめない、ツッパリ人生。

やりたいことも、やり残したことも、あった。だが、約束は、破れない。1994年、長谷川は日本の土を踏む。天才タイプのスポーツ少年が、もっといえばやんちゃ坊主が、スーツを着る年になっていた。
「メーカーに入社しました。在籍は2年です。その間、何度もトップセールスになった」。何をやらしても、トップになる。ただしく言えばトップにならないと気が済まない。
「負けない」と「負けたくない」は違う。長谷川は「負けないタイプ」ではなく、「負けたくないと思うタイプ」だ。だから、勝てない試合でも挑んでしまう。そして、勝つまで止めない。相手にすればこれほどやっかいな人間もいないのではないだろうか。
中学の入学式の学ランでの出陣。殴られボロボロにされて、二度とおなじ恰好で来るなと脅されている。しかし、翌日も平然とおなじスタイルで登校。結局、上級生が認めるまで、おなじ恰好で通したらしい。勝つまでやる。まさにツッパリ人生だ。
このエピソードに、長谷川の原点が映し出されているようにも思う。
さて、まだまだ、長谷川の人生はいまからだ。

い志井グループ、代表、石井宏治氏との出会い。それは負けてもいい、人との出会い。

「帰国後は、スグに調布に住みました。サラリーマン生活のスタートです。会社はオヤジの紹介です」。サラリーマン生活を送っていたある日、彼女と行ったバーが気に入り、通うようになる。
「その店のバーテンダーが長谷川さんとおんなじタイプのおもしろい人がいるんですよ、っていうんです。時計とか、車の趣味も似ているんじゃないかって。興味がわいたんですが、その時は、そのままです。ところが、ある日、隣に座ったおっさんが、話しかけてくるんです。趣味も含めて気が合うんです。それでも、バーテンダーは何も言わないんですよ。そうなんです。そのおっさんが、私と似ているとバーテンダーが言っていた人だったんです」。
話をする度に惹きつけられた。これが「い志井グループ」代表、石井宏治氏との出会いである。「この男となら一緒に仕事がしたい」、長谷川の心はスグに決まった。
1997年、い志井グループに入社。もっとも入社当時、石井氏は話し掛けもしてくれなかったそうだ。実績のない人間を贔屓にするわけにはいかない。そんな石井氏の気持ちも察し、長谷川は、「最も忙しくて最も儲かっているところで働かせてほしいと志願する」。そして本店勤務が叶った。もともと売上が高い店だった。その店の売上を伸ばし、最高売上を樹立!! 石井氏から、「それ以上売るな」という指令が出たぐらいである。

すべてのエネルギーが「飲食」という事業に向かって注がれる。

不良というレッテルを貼られることを望んだわけではないだろう。だが、暴走するエネルギーは、まっすぐに暴力に向かった。中学時代に出会った軟式テニスが、スポーツと長谷川を結び付け、エネルギーはプラス方向に転じる。高校、渡米、大学と、テニスを中心とした生活を送りながら、エネルギーは、いくつもの方向に進む。恋にも、勉強にも。そして、石井氏との出会いが、新たなエネルギーの方向を決めたように思う。
「飲食で働く人は、人が好きだ」、多くの人を喜ばせたい。その思いが、次々、人気の業態を生み出していく。いま、長谷川のエネルギーは、「飲食」、その一点に注がれている。負けたくない、という気持ちも含めて。

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