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第277回 株式会社ホイッスル三好 代表取締役 三好比呂己氏
update 12/04/03
株式会社ホイッスル
三好比呂己氏
株式会社ホイッスル三好 代表取締役 三好比呂己氏
生年月日 1955年7月6日
プロフィール 東京都渋谷区恵比寿に生まれる。父方の祖父は揚州出身の中国人。ラーメン店を開業し、財を成す。父はパチンコ店で成功を収め、観光地の鬼怒川でホテルを経営するなど手広く事業を展開する。そうした事業家である祖父や父をみて育った三好は、玉川大学文学部卒業後、父が経営する中華料理店に就職。半年でウエイターから専務にされる。専務と言ってもまだ25歳。まだまだ波乱の人生は幕が上がったばかりだった。
主な業態 「中国ラーメン揚州商人」「揚州商人夢包」他
企業HP http://www.whistle-miyoshi.co.jp/

高級中華が舌を鍛えた幼少時代。

1955年(昭和30年)。当時の東京は戦後の焼け野原が一掃され、新たな出発の足音が鳴り響いていた時期だ。戦後、来日した祖父はラーメン店「正華」を開業し財を成していた。父親も事業家で、パチンコ事業で成功し、のちにはホテル業にも進出する。「当時はとにかく裕福でした」と三好は子ども時代を振り返る。
「父親は車が好きで外車ばかり乗っていた。趣味でムスタングに乗り、普段用にベンツを一台、そんな具合です。兄にもスカイラインGTRやポルシェを買い与えていました」。
「まだ私が小さな頃は、商売が特に上手くいっていたんでしょう。外食にも良く連れていってもらいました。それも高級な中華料理店が多かった。このおかげで、私の舌は鍛えられたんだと思います。また、家族で京都や奈良を見て回った時があるんですが、移動は全て外車のハイヤーです。家族の他にもお手伝いさんが一緒。羽振りが良かった証拠です」。
「とにかく裕福で、苦労したことがなかった」と三好が語るように、父はずいぶんな資産家でもあったようだ。

(株)楽コーポレーションで「オヤジ」との出会い。

都心から少し離れた町田市にある玉川学園。中・高を、この学園で学び、大学も系列の玉川大学に進んだ。文学部である。成績はお世辞にもいいほうではなかったのではないか。
  大学では中退まで考えた。とはいえ、学業に熱心になれなかったせいばかりではない。直接的な引き金になったのは、(株)楽コーポレーションでのアルバイトだった。
「私がアルバイトをした頃はまだ宇野さんが鍋を振っていた時代です。恵まれているでしょ。宇野さんと一緒に仕事ができたんですから。それで、すっかり宇野さんと仕事にハマって大学を辞めようと決意するんです。でも、頑張りすぎたんでしょうね。カラダを壊してしまいました。兄弟達にも大学だけは卒業しろと言われ、結局、退学は諦めます。もっとも、卒業までの残り1年半も楽でアルバイトを続けたんですが」。
三好がいう(株)楽コーポレーションは飲食の戦士でも度々名前が登場する。「当時は楽の真似さえすれば、人気の店ができた」と三好が言うように、相当なノウハウも影響力もあったようだ。中でも三好がオヤジとも呼ぶ代表取締役社長 宇野隆史氏は飲食を志す人間にはカリスマ的な存在であり、今なお師と仰ぐ人間が後を絶たない。

なんなんだ。こいつは、オヤジのカミナリ。

三好を知るエピソードがある。この楽コーポレーションでアルバイトを初めて3日後のこと。宇野氏が、カミナリを落としたそうだ。「この三好っていうのは、なめている奴だな」。先輩があわててフォローする。「なぜですか、頑張ってくれているじゃないですか」と。 
すると宇野氏はこう言ったそうだ。「そういうことじゃない。こいつはボンボンで今まで苦労したことがないらしいじゃないか。にもかかわらず3日で、苦労に苦労を重ねてきたオレと同じことができやがる」。
文字通り衝撃が走った。もちろん、うれしい衝撃である。
「そりゃ、うれしい。そう言ってくれる宇野さんにとたんに惹かれました。この宇野さんの一言が飲食を志すきっかけにもなるんです」
実際、大学を卒業する、もしくは宇野氏の下を卒業する頃には、ラーメン店を起業しようという思いを強く抱くようになっていた。

ウエイターから半年で専務になり、いい加減な性格がまた顔を出す。

大学を卒業した三好は、ラーメン店を開業するため父が経営する中華料理店に就職する。その際、父から出された条件はウエイターから始める気があればというものだった。むろん、断る理由はない。
実際、三好は一介のウエイターから仕事をスタートした。突然、半年で専務に昇格させられる。その頃の様子を三好はこう回顧する。
「それまでチャランポランに生きてきたでしょ。でも、この時はさすがに踏ん張りどころだと思ってがむしゃらに仕事をしました。それが半年で専務でしょ。社長の父親は鬼怒川のホテルの方にいたし、そうなるとまたいい加減な性格が顔を出し始めて。で、ぐうたら専務の出来上がりです(笑)」。
これが三好、25歳の時。それから3年経った頃、父が体を悪くする。
「もし、父が引退すればどうなるのか。兄弟はいましたが専務という立場上、私が会社を引き継ぐことになりかねませんでした。それが怖くてたまらなくなった。専務になって3年経っていましたが、何しろぐうたらですから。それで2000億円の企業を作ったある経営者に相談に行くんです。そうしたら、『これだと思う一冊の本、そこに書いてあることを忠実に守れ。それだけでいい』と言って下さったんです」。
「あの時は、救われた思いがしました。それでいいのかというのと、一冊ぐらいならオレでも読めるだろうって安堵したからなんです。何しろ、私は学生時代の4年間で8冊しか読んでいませんから。それも「龍馬がゆく」全8巻です(笑)。で、ともかく本屋に行くんですね。すると、すぐにだめだこりゃぁと頭を抱えることになりました。だって、そうでしょ。山のように本がある。この山の中から、これだという一冊を見つけるためには、何十冊も本を読まないといけない。それが分かったんです」。
勇んで本屋に向かった三好は、勇んだ分、落胆する。そんな三好にある日、一本の電話が来る。その電話は、三好の人生を180度転換させることになった。

ポールJ.マイヤー氏のSMIとの出会いと新たな出発。

SMIとは、ポールJ.マイヤー氏が考案した自己啓発プログラムである。このプログラムは、28ヶ国に翻訳され、世界80ヶ国以上で、数多くの人々のモチベーションアップや各種の能力向上などに役立っている。
その電話でプログラムと出会った三好は、さっそく付属のテープを聞き、その内容を耳にした。「初めて、そう、たぶん初めて燃えてきました。どうして自分がかくもこうなのか。その謎がみるみる解けるんです。オレ、変われるかもしれない。女房にそういうと、『あなたは凄い人の話が好きでしょ。だから、潜在的な願望があったのよ』っていうんです」。
  たしかに凄い人の話は好きだった。そういう偉人のようになりたいとも思った。でも、なりたいと思っても、なる方法が分からなかった。そのジレンマが、それまでの三好のやる気を削いでいたといえるかもしれない。
「ところが、SMIプログラムには凄い人になる方法が全部書いてあったんです」。

裸一貫になる勇気と矜持。

「突然、熱弁をふるいだした弟を見て、兄弟達は、あいつ頭がおかしくなったんじゃないかっていうんです。父の具合が悪くなり、これから兄弟4人で力を合わせなきゃいけない時になんなんだって感じです。それで、1対3の大ゲンカが始まるんです。もちろん、私が1です。売り言葉に買い言葉じゃないんですが、よし、オレはゼロからやる! そう啖呵を切っちゃうんです。その後、父親が亡くなり遺産相続ってことになるんですが、啖呵を切った以上引き下がれなくて。2億円ぐらいの遺産を放棄して、裸一貫で飛び出してしまいました」。
この勇気と矜持が、次の始まりにつながる。それが、三好の経歴を語る時に、最初に出てくる「SMIプログラムの販売代理店」という仕事である。
「これはおもしろいとますますSMIに惹かれ、ラーメン店を起業する前に、こちらの仕事をしようと思うんです。すると不思議なもので、代理店の権利の代金がそれまで貯めたなけなし500万円、それとぴったり同じだったんです(笑)。有り金を全部、つぎ込んだ訳ですから、もう何もない。そういう私を兄達がさすがに見かねたんでしょう。『古い机があるから持っていけ』『恵比寿の倉庫が空いているから使っていいぞ』と言って支援してくれました。そのおかげで、倉庫の一角を借りて、机一つ、カバン一つ、電話一本から事業がスタートするんです。のちの株式会社ダイナミックスパースンズ東京です。2年もたたず50人の部下ができ、年商は14億円ぐらいになりました。自分で言うのもなんですが、そうそうたる実績です」。

売れない部下はどうすればいい?

もともと祖父や父譲りの経営センスがあったのだろう。事業を開始するとすぐに軌道に乗り、瞬く間に実績を積み上げていくことになる。
「事業は順風満帆だったんですが、ただ一つ問題がありました。給与が完全歩合給制だったんです。50人もいれば売れる人間もいれば、そうでない人間もいる。売れなければ給与はありませんから、生活もできない。彼らのために何かできないか、そう思って始めたのが、もともとやりたかったラーメン店だったんです。9坪のラーメン屋で屋号は<元氣一杯>です」。
「以前、すかいらーくの谷真社長とお話していたら、『三好さん、それって記録だよ』って言ってくださったんですが、9坪のラーメン店で、この時1650万円の月商を記録しました」。
スタッフのため、と思って出店したラーメン店がバカあたりする。連日長蛇の列。当然、こちらの事業にも熱が入る。すぐに9店舗まで店舗網を拡大。「その時、弟が経営に行き詰っていましたので、彼が経営していた<揚州商人>を買い取りました」。
いよいよ<揚州商人>が登場する。

紆余曲折、たどり着いた一杯の味。

<「中国ラーメン揚州商人」の人気メニューに、月間2万食を売るラーメンがある>と色んなサイトでも紹介されているように、一押しメニューの「スーラータンメン」は大人気。他にも、数々の人気メニューがある。これだけのメニューを素早く提供する、そのスピードも人気のヒミツと言えるだろう。
さて、<揚州商人>を買い取り、この屋号を前面に出した。中国の雰囲気を取り入れた店作りも話題となり<揚州商人>は更に店舗網を拡大させていく。その拡大には調理方法など独自の工夫が施されている。現在の店舗数は首都圏に30店舗ということだ。
「すでに実質の経営は息子に譲っている」というが、まだまだ三好もこの店が大好きで、そう簡単に引退は決められないのではないか。それは、三好が「うちのはラーメンではない」と語った時の言葉の弾みから想像するだけの話なのだが。
「うちのはラーメンじゃない。中華料理の一つなんです。私が、小さな頃、祖父の店で食べた中華、父に良く連れて行ってもらった中華料理店の味、そして私が勤めた中華料理店で覚えた味、そして中国に何度も行き食べ歩いた中華の味をもとに再現しています。だから、日本のラーメンではないんです。普段、私は日本のラーメンはほとんど食べません」。
現在、三好は、前述の株式会社ダイナミックスパースンズ東京に加え、システムコンサルタント会社も経営する。いずれも順調だ。敏腕経営者という一面と、中国ラーメンに対する熱い思い。それが今の三好を支えている。
豊富な種類がある中国ラーメンだが、いずれも三好の紆余曲折の人生の中で辿り着いた一杯の味といえば、怒られてしまうだろうか。ただ、その味は、たぶん、SMIのプログラム同様、人を幸せにする力がある、そんな気がしてならない。

思い出のアルバム
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