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第280回 株式会社ペッパーフードサービス 代表取締役 一瀬邦夫氏
update 12/04/10
株式会社ペッパーフードサービス
一瀬邦夫氏
株式会社ペッパーフードサービス 代表取締役 一瀬邦夫氏
生年月日 1942年10月2日
プロフィール 静岡市に生まれる。母と2人暮らし。高校を卒業後、赤坂の旧山王ホテルにてコックの修行を開始。1970年に独立し『キッチンくに』を開業。1985年には、有限会社「くに」を設立し、のちに4店舗の直営店を展開するに至る。1994年、低価格ステーキ店「ペッパーランチ」の展開をスタートさせ、長年の構想を実現。「ペッパーランチ」を事業の柱に据える。現在は、国内外で主力の「ペッパーランチ」事業を展開するほか、オーダーカットステーキ店の「炭焼ステーキくに」、とんかつ店の「かつき亭」「ステファングリル」などのレストラン事業、また「とんかつソース」「冷凍ペッパーライス」等の商品販売事業を行っている。
主な業態 「ペッパーランチ」「炭焼ステーキくに」「かつき亭」「ステファングリル」他
企業HP http://www.pepper-fs.co.jp/

母と2人の少年時代。

七輪に向かって少年が黙々とうちわを扇ぐと、真っ赤になった炭がカチカチと音を立てる。これが一瀬家の朝餉の準備。
「新聞をギュッとにぎって。枯れ枝を入れ、火をつけるんです」と言いながら、一瀬は目を細める。一瀬が生まれたのは、1942年、静岡市。いつ頃からだろう。からだの弱い母に代って、一瀬が朝餉の支度をするようになっていた。
「味噌汁はこう作れとか、魚はこう焼くんだよとか。そういや、あの時おふくろから、料理を教わったことで、私の飲食人生は始まったのかもしれない。うん、そんな気がするよ」。
一瀬の記憶のなかには、いつも母がいる。
「おふくろはからだが弱かったから、気になってね。朝ごはんを作ってから、私は学校に行くんですが、大丈夫かなっていつも気にしていました。だって、オレとかぁちゃんの2人しかいないんですから」。映画に行ったのに、クライマックスを観ないで帰ってきたこともある。心配でたまらなくなったのだ。
一瀬の母は小唄を教えていた。弱いからだをおして仕事にも行った。これも、いつからだろう。駅に降り立つと大きくなった息子が、自転車で待っているようになった。「かあちゃん、ごくろうさん」。母はうれしげに、荷台にのり、息子の腰に手をまわした。息子が力強くペダルをこぐ。自転車の揺れも、母には心地よかった。

母の一言で起業を決意。

一瀬が高校を卒業したのは、1960年のこと。昭和でいえば35年。戦後の爪跡が消え、いよいよ高度成長経済がスタートする頃だ。「ナポリって店に就職したんですが、おふくろに『日本で五本の指に入るコックになれ!』ってハッパをかけられたんです。そうか、でも、いまのままじゃ無理だと思って、本格的な料理を勉強するために旧山王ホテルに転職しました」。旧山王ホテルは、戦前、帝国ホテル、第一ホテルと並ぶ、東京を代表する近代的ホテルの一つ。ただし、一時アメリカ軍に接収され、アメリカ軍の専用施設になっている。一瀬は、このホテルで9年間、勤めた。
「いつまでも人に使われていてはいけない」。転機はまたも母の一言だった。一瀬、27歳、1970年のこと。母の一言で、独立に踏み切った。その店が『キッチンくに』。東京の下町・向島に生まれた、たった3坪7〜8席のステーキ屋である。
「最初に勤めたナポリから、椅子とかテーブルとか冷蔵庫とかをもらってきて、ペンキを塗り直して」と、一瀬はふりかえる。独立と同時に結婚した奥様も手伝った。『キッチンくに』の船出である。むろん、自信に溢れていた。
ところが、閑古鳥が鳴いた。どうすればいいのか。知恵を絞る。答えはごく単純なところに落ちていた。
「ステーキというだけで、敬遠されてしまうような時代だったんです(笑)。いまもステーキは高いと思われがちですが、当時は、その傾向がいっそう強かったんです。で、そうかと気づいて、とにかく目につくところにメニューと料金を載せた看板をかかげたんです」。
これが、功を奏する。敷居は高いが、その一方で誰でも惹かれるステーキである。価格さえ分かればあとは財布と相談すればいい。良心的で、美味しいステーキの店があるとたちまち人気化する。数年後には、4階建ての自社ビルを建てるまでなった。
だが、いっけん順調にみえたが、問題もあった。スタッフが続かないのだ。なぜだろう。一瀬は思案する。「そうか、いつまでも1店舗だからいけないんだ」。「だから、希望が持てずに辞めてしまうに違いない」。そう考えた一瀬は、多店舗化に舵を取る。43歳の時である。だが、それは険しい山登りの始まりだった。

多店舗化への挑戦

「1店舗から、2店舗へ。これがうまくいかないんです。それでも、なんとか4店舗まで出店することができました。私が49歳の時です」。
ただ、手放しで喜んではいられなかった。複数店舗の出店は達成したが、逆にスタッフとの絆を弱くする結果を招いたからである。ピンチが訪れる。
「その時の私は、とてもフレンドリーな社長だったんです。正直にいえば、辞められるのが怖くって、叱れなかった。言い換えれば、リーダーシップがなかった。辞められちゃいけないからスタッフの機嫌をいつも気にしているような社長だったんです。そんな社長が4店舗も経営すればどうなるか、答えは簡単です」。
スタッフにとって良かれと思っていたフレンドリーな経営は、店舗が増えることで行き詰り、会社を倒産寸前まで追いやることになった。
「あの時、心底、気づきました。私のチカラでスタッフを幸せにしないといけないんだと。フレンドリーな経営者でも、会社が潰れたら終わりでしょ。スタッフを路頭に迷わせることになる」。
経営者は強くなくてはいけない。スタッフを初めて叱った。リストラを決行するための会議の席だった。給料は減らすが、誰一人クビにしようとは思わなかった。みんなで乗り切ろう、事前にそう語っていたのに、会議になると承諾していたはずのスタッフたちからも、不平不満が漏れた。「ここで、負けちゃいけない」と思った。「辞めたければ、とっとと出て行ってくれ」。一瀬は、スタッフをまえに、初めて啖呵を切った。この一言がカンフル剤になったのだろう。誰一人、出て行かず、誰もが見違えるように仕事に精を出すようになった。業績は数カ月で、回復する。
果たして、足りなかったものは何だろうか。スタッフたちのやる気だろうか。それとも…。一瀬は「私の覚悟」と語っている。

ペッパーランチのビジネスモデル確立

スタッフのために、一瀬は、さらなる事業拡大に取り掛かろうとした。だが、その拡大を阻む、強敵が現われた。大手ステーキチェーン店である。
当時、牛肉の輸入自由化や円高によって、牛肉が安く手に入るようになり、大手ステーキチェーンが相次いで価格を引き下げたのである。値下げ競争になれば、資本のない一瀬のようなレストランには、到底勝ち目がない。とはいえ、手をこまねいてもいられない。拡大どころの話ではなくなった。
「低価格で勝負するなら、独自のシステムを開発しなければならない」というのが一瀬の結論だった。そのシステムとは、「素人でもスグに料理ができるようなシステム」である。プロのコックがいらないシステム。そのシステムを考案するなかで、「電磁調理器」と「鉄皿・受け台」という、2つの製品(特許取得)が生まれ、それらを軸にした「ペッパーランチ」のビジネスモデルが誕生することになったのである。
コック不要、これは逆にいえば、長年、コックを経験した一瀬だからできたシステムだともいえる。ステーキを焼く、知識・ノウハウが生かされている。ステーキは、1000円を切り、680円という、驚く価格まで下がった。大手レストランチェーンでも、太刀打ちできない価格帯である。
ちなみに、「ペッパーランチ」では、お肉を調理するのは、もっぱらお客様の仕事である。260度の鉄板にのせたビーフは、お客様の目の前で、みるみるうちにいい加減に焼けていく。お客様は、ジュウジュウと焼ける音を確かめつつ、頃合いをみはからって「食す」のである。「電磁調理器」と「鉄皿・受け台」があってはじめてできる、離れ業だ。
このペッパーランチのビジネスモデルが、正式にお披露目されたのは、1994年7月のことである。「長年構想してきた低価格ステーキ店『ペッパーランチ』1号店(FC店)を神奈川県大船市に開店しました。680円のランチを半額にしてのスタートです」。1日500人。初日にして、17万円以上を叩き出した。だが、一瀬が、注目したのは、思い通りシステムが機能したことだった。
「500人分のステーキを焼こうと思えばコックだけで4名はいります。ホールだって数名はいるでしょう。それをたった3名のスタッフで回転させたのです。凄いシステムを作った、と改めて思いました。私は、1日中、ぶっ通しではたらいていましたが、カラダは疲れても、アドレナリンが分泌して。3日目には、ぜんぜん平気っていえる状態になっていました。ところで、その時の私は何歳だったと思いますか? 51歳です(笑)」。

57歳の、上場宣言

これを境にペッパーフードサービスは、急成長を遂げる。1号店(FC店)出店から10年が過ぎた2004年には、「ペッパーランチ」通算100号店目をイオンりんくう泉南SC店に開店するに至っている。
その4年前の2000年、「創業30周年」の席上で、一瀬は、周囲を驚かす宣言をした。「株式を上場する」とぶち上げたのである。「社員は驚くし、コンサルタントの先生に至っては怒りだしました。上場はそんなに簡単じゃないって(笑)」。
「だけど、私は、もっともっとスタッフを幸せにしたかったんです。スタッフがプライドを持てる、お父さんやお母さんも安心する、そんな会社を作りたかったんです。そのために上場しなくては、というのが私の結論だったんです」。
資金がかかることも分かっていた。そのうえ、コミットしたことは必ず実現しなければならなくなる。しかも、当時の店舗数は、まだわずか20店。
困難は承知のうえの、57歳の宣言だった。この時から、新たな頂をめざす旅が始まった。

頂からみえた風景は。

一瀬及びスタッフたちが、頂に到達したのは6年後の2006年。一瀬、63歳、史上最年長で上場した社長の誕生だった。
その時の店舗数は150店舗。前年の2005年には「ペッパーランチ」台湾1号店を台北市に開店。日経MJ2004年度外食産業のランキングで伸び率No.1に。また農林水産大臣賞「新規業態開発部門」賞も受賞している。
この台湾1号店を皮切りに、海外にも進出し、2012年2月現在で、120店を出店するに至っている。
だが、順風満帆な時ばかりではなかった。
2007年5月には、大阪で世間を騒がず不祥事が起こった。
IR情報で確認すると、不祥事が起こったあと4度の下方修正を繰り返し、その年、赤字に転落。追い討ちをかけるように、2009年には納品された食材から食中毒が起こる。
それら影響もあって、国内では、この数年間、停滞を余儀なくされていた。
ただ、一瀬は、それで終わるわけにはいかなかった。経営者がへこたれるわけにはいかないからだ。スタッフはむろん一瀬を信じている。彼らのためにも、進まなければならない。
一瀬は、新商品、「ワイルドジューシーカットステーキ」(300グラムライス付税込1000円)を投入するなど、起死回生策を次々、打ちだした。これらが功を奏し、業績はV字回復。「ペッパーランチ」はふたたび人気を取り戻す。2011年12月の決算では、見事、黒字に転換させている。
だが、これで、終わりではない。次の手も打ってある。
「いま私たちがしなければいけないのは、海外での出店に拍車をかけることです。これは間違いなく、加速していきます。問題は、国内です。回復したとはいえ、『ペッパーランチ』には、マイナスイメージが未だ残っている事も事実です。これは、甘んじて受けなければならない。ただ、指をくわえて、何もしない、というのではかえって問題だと思うんです。だから、もう少し先になりますが、大きな仕掛けを行います」。まだ、ここでは、その秘策を明かせない。たしかに、このイメージ戦略が功を奏すれば、マイナスイメージも、一新するだろう。それだけ、大きなインパクトがある。
ところで、一瀬は、「山に登れば景色が変わる、山の向こうが見えてくる」と言っている。いまの一瀬の瞳には、どんな風景が映っているのだろうか。
インタビューの冒頭、一瀬は、こんな昔話も語ってくれた。
「おふくろを自転車で連れて帰るでしょ。頃合いを見計らって、おふくろの布団に湯たんぽを入れるんです。おふくろが寝入るのを待って、私のほうにそっと移す。もう、おふくろの布団は暖まっているから、大丈夫なんですね。そうやって、今度は私が湯たんぽを抱いて眠るんです。そうしないと、寒くて眠られないんです」。
もう、60年ぐらいまえの話。湯たんぽを抱えて眠った少年は、いま、国内・海外で何百名のものスタッフを抱え、彼らと共に日々大きな夢を見続けている。それだけは、間違いない事実だろう。

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