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第281回 株式会社プレジャーカンパニー 代表取締役 望月大輔氏
update 12/04/17
株式会社プレジャーカンパニー
望月大輔氏
株式会社プレジャーカンパニー 代表取締役 望月大輔氏
生年月日 1975年8月25日
プロフィール 山梨県甲府市出身。亜細亜大学在学中、米国に留学。卒業後、ワーキングホリデーでオーストラリアへ。2年間過ごし、帰国。その後、グローバルダイニングに入社。「モンスーンカフェ」の店長、エリアマネージャーを経て、2010年に退社。独立、起業の道を進む。同年4月、たまプラーザに「アジアンビストロDai」をオープン。翌11年には「藤が丘」「新百合ヶ丘」を2店舗出店。「アジアのエッセンスを入れたビストロ料理」がコンセプト。リーズナブルな価格設定だが、料理・サービスいずれにおいても高いクオリティをキープしている。
主な業態 「アジアンビストロDai」
企業HP http://r.gnavi.co.jp/gaju100/

サッカー大好き少年。

望月大輔が生まれたのは、1975年。山梨県甲府市。サッカーが大好きな少年で、夕日がどっぷり暮れるまでボールを追いかける、それが日課だった。
「両親ともにNTT(旧電電公社)に勤務するサラリーマンです。私は3人兄弟の長男で、妹が2人います。父は亭主関白で、子どもに対しても厳しい人でした。私は小学校からサッカーを始め、のめり込んでいくんですが、父はチームの後援会会長。だから勉強より、サッカーをやれと(笑)」。山梨県はサッカーが盛ん。小学生の時に所属したチームは、その強い県で優勝している。望月はキャプテンだった。
「中学に入るまでは、サッカーでメシを食っていこうと思っていました。でも、中学になると周りに巧い奴がたくさんいて、そいつらと比べるとちょっとな、と。いちばん、巧かった選手は、Jリーグに行きましたし、学校は違いますが1年下には中田英寿もいました」。「いまになって思えば、巧くなる方法もあったんでしょうが、当時は、もう精一杯。高校進学時には、サッカーの名門ではなく、普通の進学校を選択します。もちろん高校でもサッカーを続けましたが、頭のなかから『プロ』の二文字は消えました」。
ちなみに、サッカーに没頭した中学時代。望月が通っていた中学は、荒れに荒れ、暴力事件も日常茶飯事だったそうである。「私も、カラダが大きいもんですから、他校とのケンカの度に駆り出されるのですが、一応、彼らとは線は引いていました。田舎町なんで警察沙汰になると親に迷惑をかける。それがブレーキになっていた気がします」。

米国、留学。

受験せずに、推薦で大学生になった。サッカーは止めた。「東京に出たいという思いがあって、たまたま推薦の枠があったので、亜細亜大学に進みました。亜細亜大学在学中に、留学システムを使って1年間米国アイダホ州の大学に留学します。アイダホは田舎町です。英語なんて、もちろん流ちょうにしゃべれるわけはありません。でも、せっかくアメリカまで来たのに日本人ばかりで固まっていてもおもしろくないでしょ。だから、私は、向こうの人にバンバン接していきました」。
何ヵ月経った頃だろうか。猛アタックしていた女性から、はじめて「YES」の一言が返ってきた。「その子と付きあったおかげで、いっぺんで英語ができるようになったんです。もちろん、付き合いはじめたのは、そんな下心からではありません。綺麗だったし、純粋に好きだったんです。でも、付き合い始めると普段の会話でも言葉を教えてくれるんです。いまの、発音はこうだよ、って」。心を通わすために、言葉のレッスンが始まった。メキメキ、英語が巧くなった。あっという間に1年が経過する。

就職せずに、オーストラリアへ。

就職活動は一切しなかった。英語をもう少し勉強するとの口実で親を説得し、オーストラリアに渡る。ワーキングホリデー。2年、暮らした。
最初の1年半は、シドニーの有名なレストランで皿洗いをした。時給もよかった。周りはオーストラリア人ばかり。「留学したことで海外が好きになった。大学時代は、バーミヤンや養老の瀧でバイトをして資金を貯めて、長期の休みがあれば、外に出かけました。ワーホリで、オーストラリアに来たときは、もう英語にも困りません。ちゃんとコミュニケーションを取ることができるようにもなっていましたから」。
残り半年はゴールドコーストで暮らし、サーフィンも思う存分楽しんだ。帰国の時が近づいてくる。それは、社会人になるまでの、モラトリアルの期限が終わることを意味した。

モンスーンカフェ、店長めざして。

「日本に帰っても、なかなかいい仕事はなかった。英語も、特別、上達しなかったので、その道も無理かなと。でも、もう遊んでいるわけにはいかないし、とにかくアルバイトでも、と、求人誌を買ってきたんです。その時、グローバルダイニングが経営するレストランに目をとめたんです」。
当時のグローバルダイニングは、チープな表現だが、飛ぶ鳥を落とす勢いそのもの。なかでも「モンスーンカフェ」は、一斉を風靡する。業績だけではない、飲食を志す若者の多くが、この店に憧れ、この店で店長をめざした。一時期、「モンスーンカフェ」の店長は、飲食を志す人間の、頂点だった気がする。
ポストだけではない。待遇もハンパではない。特に、やったらやっただけの見返りがある、これもまた野心的な若者の心を捉えた。
「最初に配属された店の店長は、私と同じ24歳だったんですが、『オレは2000万円もらっている。ウチの会社は、こういう会社なんだ。だから、おまえも頑張れ』っていうんです。凄いなって思いますよね。誰でも」。
通常の給与に加え、業績に応じたインセンティブや賞与が支給される。すべては数字。代表の長谷川耕造氏は、自らの好き嫌いで判断がぶれないように、数字を評価の基軸に置いた。そのシンプルな評価基準も、若者たちの心を捉えたのだろう。カリスマのような立ち振る舞いも、彼らの心を捉えて離さない。「人生の師です。とにかく格好よかった」と望月は長谷川氏についてそう語っている。
ちなみに当時はアルバイトの時給も50円刻みでアップしたそうだ。なかには1700円を超えるアルバイトもいたそうだ。昇給のしくみもかわっている。「まず自己申告するんです。それを店長と周りのスタッフに諮るんです」。まったくもってクリアでガラス張り経営である。
アルバイトからスタートした望月は、やがて社員になり、2年後には、競争に勝ち抜き「モンスーンカフェ」の店長の座を射止めることになる。結局、グローバルダイニングで11年間、勤務した。さまざまな経験を積んだ。「独立」と同時に「成功」の二文字がみえてくる。

アジアのエッセンスを入れたビストロ料理がコンセプト。

「このコンセプトは絶対成功する」、オープンをまえに確信するものがあった。2010年のことである。グローバルダイニングで育まれたセンスが、「間違いない」と語りかけてくる。
24歳でアルバイトからスタートし、店長、エリアマネージャーへと登り詰めた経験。長谷川氏をはじめ、数多くの尊敬する先輩たちから受けた薫風、それらすべてが、自信の源である。
「グローバルダイニングとの出会ったことが私のいちばんの分岐点です。格好いい、おしゃれ。そういう空間やサービスを提供する、格好いい生き方ができるんだと教えてもらったからです」。
望月の身長は180センチを超える。目立つといえば目立つほうだろう。だが、その体躯だけではない。望月の生き方そのものが、人の目を奪う。これからますます、注目される経営者になっていくに違いない。

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