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第286回 千房株式会社 代表取締役 中井政嗣氏
update 12/05/01
千房株式会社
中井政嗣氏
千房株式会社 代表取締役 中井政嗣氏
生年月日 1945年9月15日
プロフィール 奈良県に生まれる。中学校を卒業し、兵庫県尼崎市の乾物屋に丁稚奉公。20歳で、義兄が経営するレストランに転職し、西洋料理の料理長となるべく修業する。22歳、大阪住吉区でお好み焼店を引き継ぎ、6年後の1973年、28歳の若さで大阪千日前にお好み焼専門店「千房」を開店する。「千房」の経営はもちろんのこと、人材育成にも定評があり、講演のほか、著書も出版。社会福祉の活動も積極的に行い、2010年からは受刑者も受け入れている。名物、社長である。
主な業態 「千房」「ぷれじでんと千房」「千房Elegance」
企業HP http://www.chibo.com/

卒業式の翌日から丁稚奉公が始まった。

幼い頃の遊びは決まっていた。カラス貝を獲り、おたまじゃくしを獲り、虫捕りにも熱中した。春には、ワラビも採った。秋には、松茸もたんと採れたそうだ。もちろん、採ったものは、口に入る。サワガニも採っては、蒸して食べた。
中井は日本が終戦を迎えた1945年、奈良県と大阪府を隔てる山、二上山を望む、奈良県當麻町(現葛城市)に生まれた。7人兄弟の上から5番目。兄も、姉も中学を卒業すると同時に就職。中井も、中学を卒業すると尼崎にある「乾物屋」に就職した。
「私が中学生の時には、兄も、姉も就職して実家にいません。正月や盆になると帰ってくる。それが楽しみでしかたなかった。私以外の兄弟はみんな頭も良かった。就職すると、兄も姉も仕送りをしてくれました」。兄弟仲もよかった。「家族」、これが中井の原風景である。
「子どもの頃は、大阪に行くなんてとてもできなかった。都会は怖いと思い込んでいたんです。正月に、隣町の大和高田に行くぐらいで、ほとんど町から出たことがありません。そんな私が中学を卒業するなり、尼崎に丁稚奉公に行くのです」。
父から「1年は帰ってくるな」と言われたらしい。「毎晩、枕を涙で濡らした」と当時の様子を語っている。
初任給2000円。いまの貨幣価値に換算しても、4万円程度。15歳の少年は、ただ黙々と汗を流した。

西洋料理のコック長をめざして。

15歳の少年は、20歳になった。丁稚奉公を卒業し、義理の兄が経営する西洋料理のレストランに転職した。これが中井の飲食人生のスタートである。「小さい頃から料理に興味があったんです。中学を卒業した時も、料理の道に進みたかったほどですから、よし頑張ろうと。義兄からも、3年を1年で教えてやる、と言われて奮起しました」。毎日、始発から終電まで、義兄に料理のイロハを叩き込まれる。2年間、365日休む暇もない。
この義兄の店にいたとき、ある女性とデートをした。「義兄にたまには映画にでも連れてってやれ、と言われたのがきっかけです。彼女も義兄の店で仕事をしていましたから。その彼女が、今のかみさんです」。映画館に行ったが、仕事漬けの中井はもちろん爆睡。その隣で奥さまは何を思っておられたんだろう。
2年間、義兄のもとで修業した中井は、他店も経験したいと、義兄の了承を得て別の西洋料理店に転職する。「客観的にどれだけ評価されるか試してみようと思ったんです」。
「ぜんぜん、雑でした。私ではなく、その店が。それでも新人ですから、頭を下げなきゃいけない。年も、レベルも低い奴からいやがらせを受けました。なにくそ!ですよ。それで、人よりはやく出勤して、勤務時間が終わってもまだまだ仕事をしていました。むろん時間外は無給です。その店は大阪の梅田の地下街にあったんですが、私がいちばんはやいもんですから、いつのまにか地下街のカギを開けるのが私の日課になっていたほどです」。
「当時は、このヤローと思っていましたが、いま思えば、奴がいてくれたおかげでいまの私がある、と思って感謝しています」。いつのまにか心も鍛えられていたのだろう。
枕を涙で濡らした少年は、もうどこにもいなかった。

「お好み焼をなめてるんちゃうか」という義兄の言葉。

「チーフがちゃんとみていてくれたんでしょうね。新店で主任というお話をいただいたんです。その一方で、義兄から『店をやれ』と。『資金がない』というと『いらないんや。老夫婦が店を譲る人を探しているんだ』というんですね。でも、話を聞くとお好み焼店です。いままで西洋料理でコックをやっていたわけでしょ。『いやだ』と義兄に言ったら『お好み焼をなめているやろ』って」。「でも、人間不思議ですよね。義兄に言われいやいや女房と2人で面接に行くんですが、机に置かれた応募書類の束をみて、受かりたいと思うようになるんです(笑)。面接が終わってもぜんぜん結果がこなくてね。残念やったな、と思っていたら一本の電話が掛かってきたんです。『中井さんにお任せすることにしましたから』って」。
これで中井は晴れて、独立することになる。「1ヵ月ぐらいは研修したるとおっしゃっていたんですが、1週間たったころには、『中井君やったらもうできるやろ』って。コックをやっていましたからもちろん自信はあった。でも、今度は経営もせなあかんわけです。なんぼおいしいもんつくっても、売れへんかったら終わりですからね」。
オーナーが替わって再オープン。中井夫婦の挑戦がはじまったが、残念ながら、まったく売れなかった。

「かぁちゃん、豚玉2つ注文とってきたで」。始まりの、始まり。

店をはじめてどれぐらいたった頃だろう。2枚の豚玉の注文があった。
「お客さんはぜんぜんけぇへんので、ヒマ。そらぁ、夫婦喧嘩ばっかりです。店にいるのもイヤになって、出前のカゴを下げたまま自転車で町のなかを走り回っていたんです。ある時、『お、出前か』って声かけられたんですね。思わず、『はい!』って言ってしまったんですね。それからはもう、せっせとそこらを自転車漕いで回って。いつのまにか評判になるんですな。『あのお好み焼屋さん、ようさん注文入っとるみたいやな。しょっちゅう出前のカゴ下げて走っとるもんな』って。もちろんカゴのなかはカラッポです。そんなある日です。『豚玉ひとつ持ってきてくれるか』って声をかけられるんです。『兄ちゃん、どこから来てんの?』と聞かれ『3キロ先の店です』いうたら、『ほな、悪いから2枚持ってきて』って。もう、自転車のチェーンが切れるぐらいのいきおいで帰っていきました」。
その後、出前のメニューをつくり、ポストにも入れた。図画・工作、美術はオール5。メニューの出来には自信があった。それらが功を奏し、店にも客がやってくるようになる。

「出て行ってや」の一言は、新たな幕開けの一言。

「敷金も、礼金もなし、代わりに『出て行ってと言った時には出て行ってや』、そういう約束でした。店を開いて、6年たった頃の話です。約束は忘れていなかったんですが、急に出て行けと言われてもどうにもなりません。そんな時、小さな小さなお付き合いのあった信用組合の理事長が、『どうしたんや、応援したるで』っていうてくれはったんです」。
「大阪の住吉で店をやっていたんですが、この時、無担保で3000万円の融資を受けて、いきなり難波千日前に出店するんです。これが『お好み焼 千房』の始まりです」。
「5階建ての2階のフロア。広さは30坪。保証金1500万円でした。それを『オレを男にしてくれ』と頼み込み、1000万円にしてもらって、改装費と合わせ〆て3000万円。ぜんぶ、融資です。失敗はできません」。
「路面店ではなく、2階の店舗だったんで、2階でうまいこといくんかと心配する人もいましたが、私はハンディとは思いませんでした。路面店と比べれば通りすがりの人はたしかに期待できませんが、お好み焼の好きな人がきてくださればそれでいい、と」。「そういう人に向けた戦略を採りました。当時、豚玉の相場は400円でしたが、千房は450円です。代わりにバラじゃなく、ロースを使いました。イカもするめイカじゃなく、刺身用の紋甲イカです。えびも小エビじゃなく、有頭えび。値段以上に価値があったはずです」。
「ユニフォームも、お好み焼の店といえばTシャツとGパンに前掛けです。それを千房では、割烹の料理人が着るようなユニフォームにしました。店内はまっかな絨毯です。それは、それは格好いい店で、とたんにブレイクするはずでした。ところが…」

中井、手品で客を魅了する。

「ところが、思うようにお客がきません。それで、吉本の芸人さんに手品をする人がいて、教えてと頼み込んで。これで、日商が7万円ぐらいになるんですが、喜んだのも束の間、手品のネタがスグに切れてしまったんです(笑)。昼の12時から深夜3時まで。それから朝方までスタッフとミーティングするもんですから、睡眠は3〜4時間です」。
当時は、リピーターづくりが千房のテーマだった。
「どうしたら、もう一回きてくれはるやろか。みんなええアイデアないか」
「社長、忘れもんしはったら、もう一回きますよ」
「社長、バック隠しとったら、とりにきはるんちゃいますか」。
毎日、ミーティングでいろんなアイデアがとびかった。深夜3時の閉店はとっくに過ぎている。「バック隠したら犯罪や、でもこれは大きなヒントだ。そうや!絵馬や!」
中井は、社員のアイデアをもとに、絵馬を考えつく。絵馬をつくっている京都のお店を紹介してもらって、導入する。たまたま受験シーズン。幸運が、重なった。日商は10万円を記録する。しかし、絵馬代は無料なので、利益が残らない。つくってもらった絵馬がなくなると、それでやめた。すると、お金を払ってでもという声が上がるようになる。
「社長、200円でもええちゅうお客さんもいてはります」。「そうか、なら」と中井は、絵馬を再開する。ただ、「うちは神社やない。だから絵馬でもうけたら商売の道理に外れる」、そう言って、絵馬代は募金させて頂きました。これが反響を呼んだ。

絵馬に託された思い。

「1回目は、産経新聞さんがとりあげられてた「明美ちゃん基金」に募金したんです。そうしたら、スグに駆けつけて紙面で取り上げてくださったんです。2回目は、読売新聞さんです。すると、また大きく取り上げてもろて。<絵馬に託した750の願い>という題名でした。産経新聞さんの時に、日商は16万円ぐらいになって、もうこれ以上は無理やろなと思ってたんです。でも、この750の願いが出たら、ついに20万円台を突破したんです」。
「お金が欲しかったら、お金を追ったらあかん。人を追いなさい」。そう諭してくれた人がいた。「簡単なことは複雑に考えたらあかん。複雑なことは簡単に考えるんや」そんなことも教えてもらった。
最初から商売に解はない。教えられた一言一言を守りつつ、あきらめずに戦い続ける、それがやがて一つの解を生み出す。この、創業の店「千日前店」は現在、1階にもフロアを拡張し、日商50万円をあげるまでになっている。絵馬に託した中井の思いは、いまなお人々を魅了している。

2号店出店、大成功。1990年、自社ビル購入。バブルが弾け、目がさめた。

小さな目標があった。従業員5人、彼ら全員に店を持たせることだった。だから、あと5店舗は出店しなければならなかった。2号店は心斎橋に出店。投資額、5000万円。周りのオーナーたちからは、「うまくいかんて。高い、高い」と言われた。もちろん、「オープンしたら食べに行ったるからね」という応援の声もあった。改装中、トラブルがあり、あわや大損害をこうむりかけたこともある。だが、オープンからは想像以上に連日盛況。千房は間違いなく軌道に乗った。むろん大阪ミナミは巨大な繁華街である。明るいネオンに隠された闇もまた大きい。「いろんなことがあった」と中井は笑う。
日本経済にも左右された。1990年、バブル最盛期に自社ビルを買った。50億。自己資金10億に、残り40億は借入。ある時を境につるべ落としで地価が下落。50億円で買ったビルの価値はまたたくまに3億円になってしまった。最大のピンチ。「ようね、ピンチはチャンスというでしょ。あれは、ちゃうな。ピンチはやっぱりピンチです」。やむを得ずファンドの出資を受け入れ、一時期、中井はオーナーではなくなった。ファンドを敬遠するオーナーも少なくないが、中井は歓迎した。「あれで、会社がピリっとなった」とまで言い切っている。現状を素直に受け入れる。これが、中井の強さではないかと思う。だから、苦境すらバネにすることができるのだ。結果、ピンチは手品のように、チャンスにかわった。

コナモン文化の価値向上に努める。

中井の人生の大部分は、「お好み焼店」によって語られる。日本で初めて、お好み焼店でフルサービス、フルコースのディナーもだした。アッパーな業態である「ぷれじでんと千房」は、高級レストランに勝るとも劣らない格式をそなえている。ある意味、千房は「お好み焼」の異端児ともいえるだろう。だが、大阪のコナモン文化に、新たないのちを吹き込んだことは間違いない。
その一方、中井は、人の育成にも取り組んできた。数々のメディアにも出演し、著書も少なくない。最近では、刑務所内で面接を行い、受刑者を採用している。2012年で、もう2年になるという。しかも、いっさいそのことを隠さない、オープンにしている。中井らしい。
さて、いままでみてきたように、奈良の田舎で生まれた少年は、いま大阪のコナモン文化を支える、名物社長になった。
最後にもう一度、昔、昔の話に戻る。
丁稚奉公に出された際、父はもう一つ言葉を送っている。「自立しなさい」。親許を初めて離れる15歳の少年にとって、あまりに厳しく、辛い一言であったはずだ。だが、同時に、確かな「道標」を与えたことだろう。
「自立」。その意味など分からなくていい。ただ、独り立つ、そのときまで息子の背中を押せればいい、と思って投げかけられた言葉。いま、そんな人の背中を押す言葉を、中井は著書のなかで、また講演で、受刑者たちとの面談でも、強くやさしく投げかけているような気がする。大阪コナモン文化に笑顔の華が咲く。

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