株式会社グルメ杵屋 代表取締役社長 椋本充士氏 | |
生年月日 | 1961年11月30日 |
プロフィール | グルメ杵屋創業者、椋本彦之氏の長男として生まれる。近畿大学卒。卒業後、大和実業に就職。1990年、グルメ杵屋に転職。ベンチャー事業部、経営戦略室・開発部門等を経て、2001年には、取締役に就任。その後も、業態確立部門、店舗設計、商品開発とさまざまな部門を経験し、2010年4月、代表取締役に就任する。 |
主な業態 | 「杵屋」「めん坊」「そじ坊 」「天はな」「グルメ」「市場(シジャン」他 |
企業HP | http://www.gourmet-kineya.co.jp/ |
株式会社グルメ杵屋の前身である両国食品株式会社が誕生したのは、1967年のこと。1971年には、実演手打うどん「杵屋」1号店を奈良ダイエーに開店している。現在の社名になったのは1986年。株式会社グルメと合併したことによる。出店を重ねた結果、ピーク時には、500店舗を軽々と超えるまでに成長した。同社の子会社には、大阪府の貝塚と水間観音を結ぶ「水間鉄道」があり、金剛ロープウェイの運行も村から委託されている。また機内食事業や大阪木津市場にみられるように不動産賃貸事業も展開している。これらの幅広い事業が示す通り、グルメ杵屋は、いまや間違いなく関西を代表する企業の一社になっている。だが、組織が巨大化するにつれ、硬直化するのは良くあることである。椋本によれば、主事業であるレストラン事業において、既存店の売上が前年を初めて下回ったのは1990年のことらしい。以降、ゆるやかに業績は下降線をたどる。だが、一方で拡大路線は、尚もつづく。年表をみると、1990年以降もさまざまな企業と資本・業務提携を行い、事業領域の拡大に努めていることがわかる。しかし、2008年、2009年には、ついに2期連続の赤字に陥ってしまった。立て直しが急務となり、創業社長の長男、椋本充士が登板することになる。V字回復を義務付けられた椋本だが、退路を断つかのように自らも「V字回復」を宣言。椋本が社長に就任した2010年4月、グルメ杵屋は、間違いなく新たなスタートを切った。
椋本が生まれたのは1961年。日本経済が右肩上がりの経済成長を始める頃。実家は、米屋を営んでいたそうだ。「当時、米屋というのは、最も安定している商売でした。でも、うちの父は、安定だけでは満足せず大阪でいちばんの米屋になろうと事業を拡大させていくんです」。椋本が父というのは、むろんグルメ杵屋の創業者である。父である椋本彦之は、椋本が6歳の時にグルメ杵屋の前身である両国食品株式会社を設立している。「怖い父という印象でした。それでも、外ではとても愛想がよく、挨拶をしないだけでよく怒られていました(笑)」。子どもの頃の記憶といえば、スイミングやボーイスカウト。ボーイスカウトは中学まで続けている。学校に行くのは好きだったが、反面、「勉強は苦手で、きらいだった」そうだ。ちなみに創業者の彦之氏が生まれたのは1935年。30代前半の時に、海外でマクドナルドをみて外食チェーンの展開をめざしたという。「『ハンバーガーを食べたんだが、ぜんぜん旨いと思わなかった。センスがなかったんやろうな』と悔しがっていました(笑)」。
「子どもの頃からスキーが好きでした。高校も叔父に勧められ、大阪で唯一スキー部のある高校に進学しました」。勉学は苦手、というかキライ。この進学のエピソードにも、そのことが良く表れている。スキー漬けの日々が始まった。「冬の合宿は、終業式を待たず12月10日ぐらいから始まり、1月末までビッシリと鍛えられるんです。1年目、大会に出て新人賞を獲得しました。叔父に『新人賞は一生に一度だけや』とハッパをかけられたのが良かったのでしょう。でも、2年目があきません。スランプです。3年になっても調子はなかなか上がりませんでした。とくに3年の時には雪がなくて、合宿に行っても滑れません。何日も経って部長がマイクロバスを借りてきました。それで雪のある山に大移動です。それがよかったんでしょうね。滑りたくても滑れないストレスが溜まっていたことと、部長を務めていた先生が練習の甘さに激怒だれたことが重なり『やったるぞ!』と。おかげで、府大会で2位と3位を獲ることができました。いまでも、いい思い出の一つです」。
大阪府内ではつねに好成績を残した椋本だが、全国大会ではさすがに歯が立たなかったそうだ。スキー部に入るべく大学にも進学したが、選手ではなくマネージャーとして採用されただけだった。ケガならまだしも、最初から選手ではなくマネージャー採用。悔しくはなかったのだろうか。「マネージャーと言っても、選手の世話係じゃないんです。芸能人のマネージャーというイメージです。最大のミッションは、全員無事に進学、卒業させることで、選手として、雪山を滑走することはありませんでしたが、この4年間は私にとってとても充実した日々でした」。マネージャーは、お金の管理もしたそうだ。あの手この手でかきあつめた部費は、年間で〆て1000万円。3年時には、責任を持って動かすことになる。なかなかできない経験だ。もう、一つ大事な経験をしている。「私が1年生の時です。当時、うちの大学は上下関係がきびしく、特にスポーツ系の部では4年生が天皇、1年生は人間扱いもしてもらえません。ある時、葡萄畑に呼び出され、1年うえの上級生にブッとばされるんです。うっぷん晴らしです。4年生が、それを知って、それまでの上下関係を否定するんです。あの時、4年生が宣言してくれたおかげで、部はガラリとかわりました。もともとスキーは、北国のほうが強くて、うちは1部でも、8位とか9位が指定席でした。ところが、部の体制というか風土がかわり、チカラが付き、のちに全国大会でも優勝するような部になるんです」。同学年の生徒は全員、卒業。マネージャーのミッションも十二分に果たした。トップがかわれば、すべてがかわる。いい教訓を知った。
大学を卒業すれば、就職である。社長の息子にも当然、その時はやってくる。会社を継ぐという思いは、ハナからなかった。父の彦之氏からは、「好きにせえ」と言われていたそうだ。「最初はアパレル関係を志望していたんです。でも、ちょうど『すかいら〜く』さんが西日本に進出されてきたころでした。系列の『イェスタデイ』や、そう『デニーズ』さんも進出されてきたんでしょうね。採用にも注力されていました。それで『これもええな』と外食に目を向け始めます。ありがたいことに、内定はたくさんの会社さんからいただきました。そのなかに初任給が破格な会社があったんです。ほかは12万円ぐらいやのに、16万5000円です。担当者も、ほかとは違い、えらい厳しいんですね。『よっしゃ、決めた』。それで入社したのが大和実業だったんです」。大和実業といえば、関西では当時からとくに有名な会社だ。「やぐら茶屋」「エスカイヤクラブ」といえばピンとくる人も多いだろう。さて、就職、社会人の一歩はどうだったんだろうか。「入社半年が勝負です。初任給はたしかに16万5000円ですが、半年後、副店長になってなれば給料が下がるしくみだったんです。社会の厳しさを知りました(笑)」。「一方、親父と当時の社長が知り合いで、おたくの息子がうちで働いているで、と。父はそれで、私の就職先を知ったんじゃないでしょうか」。社長の息子にありがちなのは、何年間かほかの店で修行するケースだ。だが、椋本にそんな意識は一切ない。競合すれば、父も子も全力で戦ったことだろう。何年間が過ぎる。「杵屋とグルメが合併する時です。当時の副社長に呼び出されましてね。『なんかオレまずいことでもしでかしたか』とビクつきながら副社長室に入ると『もう帰れ』と。その時初めて、合併の話も聞くんです。でも、私にはぜんぜんその意思がありませんから、『私はこの会社に骨を埋める覚悟です』と宣言しました。その時はなんとか了解してもらったんですが、上場の時にまた呼ばれまして、『あと、何年いるか、決めろ』と。で、しかたなく3年と適当に言うと、『その3年でぜんぶ教えたる』と真剣な目で言われたんです。もう逃げ道はなくなりました」。
言葉通り3年間、鍛えられた。財務部に回され、通帳の種類から教えられ、システム開発部では、コボルとも格闘させられた。採用や教育、店舗開発や設計も叩き込まれた。5年にも10年にも匹敵する濃い3年だった。「さまざまな知識といっしょに、『人間やればできる』ということも叩き込まれた3年間だったように思います。いずれにしても、あっという間に約束の3年間が過ぎました」「盛大な送別会も開いてもらいましてね。いよいよ大和実業卒業か。そしていよいよグルメ杵屋に入社…、とまで考えて、アレと思うんです。副社長からはたしかにもどれ、と言われてはいたんですが…」。いったいどうやったら、グルメ杵屋に入社できるんだ。不安が頭をよぎる。「父親に相談したら、『面接を受けろ』と。案の定、特別なはからいは一切なしです。求人誌を購入して、電話番号をひかえ、人事担当者に面接を受けさせてください、と連絡を入れたんです」。担当者にもまったく知らされていなかったそうだ。「面接中に担当者が席を外され、どこかに消えていくんです。あとから聞くと、どうも社長の息子さんのような人が面接に来ていますが、どうしよう、とうちの親父に尋ねられたそうなんです。すると親父は、『採用するかどうか決められへんねやったら、人事を辞めてまえ』と怒鳴るんです。もう、担当者の方はいいとばっちりです」。合格した。むろん、社長の息子だからではない。椋本29歳の時である。
グルメ杵屋、入社後の椋本を追うと、ベンチャー事業部、経営戦略室・開発部門等を経て、2001年には、取締役に就任。その後も、業態確立部門、店舗設計、商品開発とさまざまな部門で指揮を執っている。その間、グルメ杵屋も、提携や新業態の開発を行い、巨大な企業・組織となっていく。だが、冒頭に書いたように、思うように業績が上がらないようになる。「根本的な問題は、方向性を失ってしまったこと。株式上場を果たしたことで、全員がひとつになって追いかける目標がなくなってしまったことだという」。士気が落ちたということだろうか。構造的な問題もあった。「私たちは、百貨店やスーパー、JRなど集客力のある商業施設内に出店してきました。だから、私たちは何もしなくていい。ただ、決められたメニューを決められたようにお出しすればそれで良かったんです」。努力をしなくても、高い売上と利益が約束された。椋本は入社当時を振り返る。「大和実業で私が最後に勤めたディスコは、100坪で月商1200〜1300万円です。ところが、うちの『丼々亭』という業態では、9坪で1000万円の売上を上げていたんです。利益は比較するまでもないでしょう。『杵屋』の新店に配属されたことがあるんですが、なかなかスタッフが揃わず、オープンは昼の1時を回ってしまいました。『うどん』は昼時が勝負です。その昼時にオープンできなかったにも、かかわらず日商50万円を叩き出したんです」。「こうなるとスタッフたちは、考えることをしなくなります。その一方で、商業施設が人を呼ぶ時代ではなくなっていくんです。商業施設が出店する度に、ただコバンザメのようにくっついて出店していた私たちには、手の打ちようがありません」。ついに2008年、2009年と2期連続赤字という設立以来、初めての、屈辱を味わうことになる。それは同時に、椋本の表舞台への登場を促すことになる。
「V字回復」、椋本は就任早々、宣言した。2010年4月のことである。それから2年たった2012年。業績はあきらかに回復しつつある。スクラップアンドビルドなどの政策も功を奏した。ただし、原動力となったのは、いうまでもなく人材だ。現在、グルメ杵屋では、入社早々、店長手当が支給される。これは1年後、店長になることが前提で、手当の前払い。椋本が採り入れた新制度だ。だが、これは単なる「しくみ」の導入ではない。むしろ「しくみ」から「人のチカラ」による経営に舵を切ったことの証だ。スタッフに目的意識が生まれ、エネルギーが充満する。そんなスタッフたちが活躍するための舞台づくりも積極的に行っている。新業態の開発はもちろんのことM&Aなども行っていく予定だ。巨大であるがために、末端まで椋本の意志と覚悟がとどくのには時間がかかることだろう。しかし、それはあくまで時間の問題にすぎない。すべての人が椋本の意志と覚悟を我がものにしたその時、「グルメ杵屋」が再び、高く舞い上がる。
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