株式会社スターツ 代表取締役社長 柴田育男氏 | |
生年月日 | 1960年7月19日 |
プロフィール | 新宿に生まれる。2人兄弟の長男。中学生時代からバスケットボールを始め、区大会ではベスト8に進出。バスケットの名門校「中央大学付属高校」に進学し、クラブ漬けの日々を送る。中央大学卒業後、株式会社セブン-イレブン・ジャパンに入社し、数値管理など経営上に必要な管理手法をマスター。3年勤め、退職。1年間、知人が経営する「串焼き店」で修行。1985年に目白で初の店舗「串タロー」をオープン。その5年後、生まれ育った新宿西口店に2号店を開業し、本店のオープンと共に拠点を新宿に移す。2012年現在、キャリア27年。創作串料理「串蔵」、くし焼き「串タロー」など6店舗を日本一の激戦区、新宿区内に展開。一方で、外食企業オーナーの経営塾「太陽の会」で副会長を務めている。 |
主な業態 | 「串タロー」「串でん」「串蔵」「もつ鍋 金太郎」他 |
企業HP | http://www.starts-kushi.com/ |
柴田が生まれたのは1960年。柴田家は、新宿の駅前で祖父の代から喫茶店を経営していた。経営は祖父から父に託され、柴田が大学の頃まで経営されていたというから、息は長い。手広く展開することはなかったが、長い間、新宿の人たちに愛された店だったに違いない。
さて、喫茶店のマスターの息子である柴田は、と言うと、小学校の頃からスポーツ万能。小学生時代は、絵にかいたような野球少年で、中学になるとバスケットボール部に入り、コートのなかを駆けまわった。
「区立の中学だったんです。野球部がなかったので、ほかにやりたいこともなかったので、たまたまバスケを選択しました。これがバスケ人生の始まりなんです(笑)」。
スグに熱中するようになる。区大会ではベストエイトに進出。柴田自身も注目される選手の一人だった。もっとバスケがしたくて、高校はバスケットボールの名門「中央大学付属高校」に進んだ。
「いまでは、能代工が有名ですが、当時は、うちの高校も日本でトップクラスの強豪校だったんです。ただ、そのぶん、きびしい練習が待っていました。私の時も30〜40人の新入生が入りましたが、例年同様、夏には5人ぐらいしか残っていませんでした。とにかく監督が怖くて。いまでもお会いすると背筋がピンとなるぐらいです(笑)」。
インターハイ「優勝」に向け、猛練習に明け暮れるなか、チームのメンバーたちと励まし合い、笑い合った。「高校時代に、私の人間形成がなされた」と柴田は語っている。
猛練習の末、手に入れたのは、勝負に勝つことばかりではなかったようだ。スタッフを大事にする思いや、最後まで粘り強く戦い抜く精神も、高校時代にスポーツを通し、育まれたのかもしれない。
あれほど好きだったバスケットボールだが、大学になると部に所属する程度の距離になってしまった。「もっぱら高校に行って後輩を教えていました」と柴田。距離が離れたと言っても、1年目は通学範囲でも寮生活と決まっていた。おなじバスケ部の仲間たちと枕を並べた。大切な仲間が何人もできた。振り返れば貴重な4年間を過ごしたことになる。
中央大学出身で、体育会系ともなれば就職は有利だったはず。いくつかの企業を受験し、柴田は結局、当時、急成長中の会社、株式会社セブン-イレブン・ジャパンに就職することにした。「日経新聞などでも、ずいぶん取り上げられていて興味があったんです。サントリーさんなども受けたんですが、そちらはさすがにアウトでしたが、セブン-イレブンのほうは無事、合格できたんです」。サラリーマン生活がスタートする。
「まず、直営店で研修を受けるんです。当時、直営店は40店舗ぐらいだったと思います。1年と少しで、店長に昇格します。熊本の店にも配属されたことがあるんですが、物価がぜんぜん違うのに驚きました。東京では400円ぐらいの弁当が売れ筋だったんですが、むこうではぜんぜん売れない。高すぎるんです。そういったエリアによる違いも理解しながら、SV(スーパーバイザー)になっていくんです」。
柴田がいう1年と少しでの昇格は、同期のなかでも最速。成績もつねにトップクラスだった。「そう張り切るなよ」。そんな声が聞こえてきたのは、4年目を迎えようとしていた頃だ。「昔から、なんでもマジメにするタイプでしたし、高校時代に、イヤというほど真剣にやることを教えてもらっていましたから、手抜きなんてできない。周りからは、煙たがられていたんでしょう。ただ、『張り切ったらダメ』と言われて、『そうですか』というのは可笑しい。上司の一言に腹が立たって、単細胞だから後先を考えず辞表を叩きつけてしまったんです。ありがたいことに引き止めてくださいましたが、結局、3年間勤めたセブン-イレブンを退職しました」。「わずか3年間でしたが、貴重な経験をさせてもらったと思っています。オーナーの方々と触れ合うこともできましたし、数値管理などの経営手法をマスターできたのも大きな財産になったと思います」。
セブン-イレブンで薫風を受けた青年が独立する。ある意味で、注目されたのではないだろうか。「独立といっても、ノープランです。もともとなにか計画があって、セブン-イレブンを辞めたわけでもありませんでしたから。1〜2ヵ月はブラブラしていました。ただ、サラリーマンにもどろうとは思わなかった。飲食をやろうと思ったのは単純な発想です。飲み友達がいっぱいいたんで、客には困らないだろうと(笑)。それで1年間、知人が経営する『串焼き店』で修行し、目白の20坪のフロアで『串タロー』をオープンさせたんです。初期投資は3000万円ぐらいです。融資で賄いました」。
セブン-イレブンで独立開業するには、いくらぐらいの資金がいるのだろう。数多くのオーナーと接してきた柴田にとって、自らオーナーになるための3000万円は、多かったのか、少なかったのか。いずれにしても、失敗は許されない。
柴田が居酒屋をやる。その噂を聞きつけて、オープン初日からにぎわった。店内はすし詰めになり、修行期間1年の新米オーナーには、喜ぶ暇さえ与えられなかった。日商は8万円。悪くない数字。2日目、3日目も、盛況だった。ところが、4日目あたりから雲行きが悪くなる。「夜だけじゃ数字が上がらなくなって、ランチを始めたんです。ランチのおかげで、いったんピンチをしのぐことができました」。
柴田は、2012年現在で飲食27年のキャリアを持つ。紆余曲折もあっただが、「いちばんのピンチはいつだったか」と尋ねると、いまでも「串タローをオープンした時がいちばんたいへんだった」そうだ。それだけ、当初は、綱渡りだったのだろう。たしかに、いまなら簡単にできることも、修行歴1年のヒヨッ子には、できるかどうかの判断すら、できなかったのではないだろうか。それでも、藁をもつかむ気持ちで始めたランチのおかげで、夜の営業も徐々ににぎわいを取り戻すようになった。今度は、柴田個人の人気ではなく、「串タロー」の料理、サービス、すべてが人を惹き付けたといえる。ともかく、柴田のいう「最大のピンチ」を潜り抜けた。当初の甘い予測は裏切られたが、違う意味で、柴田はいい教訓を得たはずだ。3日間だけの盛大なファンファーレも、いまではいい思い出になっていることだろう。
破天荒だが、慎重さも持ち合わせている。創業は1985年、スターツの設立は翌1986年である。1986年といえば、日本経済がバブルに向かって走りだした頃だ。ピンチを脱した「串タロー」も、快走する。ただ、2号店出店までは5年の雌伏を経ることになる。
「1号店をオープンしてから、5年後、新宿西口店に2号店を出店しました。当時はバブルで売上はドンドンアップします。融資の返済もスムーズに進みました。おいしい出店話もたくさんいただきました。あの時、話に乗っかっていたら、当然、いまのうちはないですよね(笑)」。
焦る気持ちはなかったんだろうか。周りには、出店をかさね売上を拡大する店舗も少なくなかったはずだからである。
「身の丈ということなんだと思います。たとえば、出店したとしても当時はバイトを採用するだけでたいへんだったんです。時給1200円だしても、採用できない。異常ですよね。そんな時に出店などできない。結局、そういううまい話に乗って、だれが儲かるのかといえば、私たちじゃない。そういう風に思ったんです」。
本質を見抜く目を持っている。柴田は、「慎重だから」と笑うが、時代や周りに流されない強い心を持っているからこそ、目が曇らなかったともいえるのではないだろうか。
2012年現在のスターツは、新宿3丁目の「串タロー本店」を筆頭に、「串タロー西口店」、(西新宿7丁目)、「串でん」(新宿3丁目)、「串蔵」(歌舞伎町1丁目)、「串タロー東口店」(新宿3丁目)、「もつ鍋 金太郎」(新宿5丁目)の6店舗を構えている。
すべて、日本一の繁華街、新宿である。
柴田にとって新宿は、生まれ育った町であると同時に、飲食の戦士として格闘するステージともなったわけだ。新宿を選択した裏には、この地で、喫茶店を営んできた祖父や父の意志を継ぐという意味もあるのだろうか。
創業からすでに27年。驚くべきことに1店の退店もない。「契約の問題で、目白の店は閉めましたが撤退ではありません」。ここが凄い。
今後の展開も聞いてみた。「串タローは直営でないと無理だと思うんです。私たちのブランドである『まき串』は、修行を経ないとできないからです。代わりに『もつ鍋 金太郎』についてはFC化も視野に入れています」。ただ、それも急がないという印象だ。「直営で4〜5店舗やってから」という。「串タロー」の出店も、急がない。ただし、「スタッフたちのために出店することは十分、考えられる」ということだ。
飲食店の店主たちが集い、学ぶ、外食企業オーナーの経営塾「太陽の会」も立ち上げた。現在、副会長を務めている。いまの趣味は走ることだといい、「ランの会」なるものも立ち上げている。新宿、同様、柴田の回りには人が集まる。
これから飲食にチャレンジする人も含め、いまの若い人たちにアドバイスをいただいた。
「流行りを追いかけた店は、そう長くつづきません。もちろん、数年のサイクルで勝負をかけるという方法もあるのでしょうが、私は、もっと長いスパンで経営というものを考えて欲しいですね。店をオープンした瞬間に、私たちはお客と契約を結ぶんです。だから、臨時休業も基本あってはならないんです。そういう意識も大事だと思います」。
「流行を追いかけるな」。その一言には、「目先の利益を追いかけるな」という意味も込められている気がする。柴田のキャリアを振り返ると、目先の利益はもちろんのこと、自らの利益よりもむしろ、お客様やスタッフの利益を優先してきたように思えるからだ。これが日本一の激戦区である新宿で、何年にも渡って支持される名店の秘密なのかもしれない。
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