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第295回 株式会社個人商店 代表取締役社長 光山英明氏
update 12/06/19
株式会社個人商店
光山英明氏
株式会社個人商店 代表取締役社長 光山英明氏
生年月日 1970年4月16日
プロフィール 大阪市生野区に生まれる。3人兄弟の末っ子。小学校4年生の時から硬式野球をはじめ、上宮高校在学中に甲子園に出場。ベスト8の成績を収める。中央大学に進み、卒業後、大阪へUターン。卸酒屋に就職し、飲食店を支援。2002年、同社を退職し、まったくの未経験からホルモン店を出店。手探りのなか成功を収め、2012年5月現在、直営10店舗、FC16店舗を展開するに至っている。
主な業態 「わ」「をん」「たるたるホルモン」「なかむら」「わゑん」「縄手ワイン食堂」他
企業HP http://www.kojin-shouten.com/

白球を追いかけて。

光山とおなじ1970年(昭和45年)生まれには、有名なプロ野球選手が数多くいる。のちに、上宮高校で甲子園にも出場することになる光山だが、一つ下の学年には、元、中日の種田選手、巨人の元木選手らがいたそうだ。ちなみに、次兄の光山英和氏は、元プロ野球選手(現西武ライオンズのコーチ)。近鉄バッファローズに所属し、のちにメジャーリーガーとなる野茂英雄氏とバッテリーを組み、パリーグを代表するスラッガーたちと名勝負を繰り広げた名捕手である。
英和氏と光山は5つ年が離れている。光山が中学2年生の時に次兄の英和氏は、近鉄バッファローズからドラフト4位で指名され、プロ野球選手の道を歩み始めている。
「父は水道の蛇口をつくる町工場の社長です。そのおかげで裕福とまではいきませんが、それなりの暮らしをさせてもらっていました。ただ、男ばかりの3人兄弟ですから、母はたいへんだったと思います」。光山が、ボーイズリーグに入ったのは、小学4年生の時。当時は4年生にならないと、入ることができなかったらしい。長兄も、次兄も野球をしていたから、これは、既定路線。兄たちと同様、光山もまたスグに頭角を現し、キャプテンを任される。
ボーイズリーグに入ったその日から野球漬けの毎日がスタートする。「おかげで、日本でもいちばんガラの悪い中学に進学したんですが、不良になる暇もありませんでした」。中学を卒業すると次兄同様、上宮高校に進学した。上宮高校といえば文武両道の名門校である。「推薦ではなく一般入試でしたから、あの時はさすがに勉強もしました。合格と同時に、野球部の門を叩きます」。
鬼監督が待っていた。「3億やるからもう一回、やれと言われてもイヤです」と光山は笑いながら当時を振り返る。猛練習。4月に130人が入部したが、夏が終わるころには2〜30人に減っていたそうだ。先輩、後輩の序列も絶対。「甲子園」という3文字がなければとっとと逃げ出したに違いない。
猛練習の結果、3年生の時には、光山も憧れの甲子園の土を踏んだ。ファーストで7番。そして、キャプテンとして、堂々とチームの先頭に立って行進したに違いない。念願の甲子園に出場した光山だったが、次兄のようにプロへ進むことは念頭になかったようだ。中学の卒業アルバムに、こう綴っている。「上宮高校に行って、甲子園に行って、東京の大学に行く」と。残すは、「東京の大学へ」という目標だけだった。白球を追いかけた少年の日々は、終わりを告げる。

中央大学、野球部へ。だが、野球熱が冷める。

野球推薦で中央大学に進学する。だが、野球熱は冷めていた。もう、やるだけやったという思いが強かったのだろう。とはいえ、推薦入学のため退部するわけにはいかない。住まいも寮である。
「野球部の寮は、いまうちの店もある吉祥寺にあったんです。6畳に6人で暮らすのですが、ある意味たのしく、ある意味たいへんな生活でした。アルバイトも大学になって初めて体験します。一方、熱は冷めても、練習に出ないわけにはいきません。ただ、練習も高校時代と比べると苦にならないほどなので助かりました。大学では酒を飲んだりするんで、そちらは、つらかったというか、気ノリがしませんでしたが(笑)」。
大学を卒業した光山は、実家のある大阪にUターンする。高校時代の野球部の先輩が経営していた卸酒屋に就職。
「私は、1992年卒なので、まだ学生に有利な時でした。ただ、小さくても経営の勉強ができるだろうと、先輩の会社に就職したんです。私が退職する時には16名ぐらいになっていましたが、当時はまだ5〜6名の会社です」。
中央大学の野球部、就職には有利な材料だ。しかし、光山は大阪の小さな会社をめざした。光山の性格の一端が表れているエピソードのような気がする。ともかく光山は、周りに流されない、つよい「ジブン軸」を持っている人である。その軸が、いまから明らかになる。

酒屋の誇り。

10年間、光山は、この野球部の先輩の会社で勤めた。ビッグクライアントも任されるようになる。いまでもお付き合いがある社長とも知り合った。
「酒屋の誇り」、光山の話を聞いていると、言葉の端々から酒屋に対する思い入れが伺える。「業者」という立ち位置と、「アドバイザー」という立ち位置があったのだろう。「酒屋の誇り」は、仕事に対する光山自身の思い入れなのかもしれない。いまも光山が業者をないがしろにしないのは、この時の経験からだろう。
入社して、10年、2002年、光山は退職する。
「惰性のようになっていて、これじゃあかんと思い切って退職したんです。もちろん、準備もしていなかったし、アテもまったくない状態でした」。ともかく、東京へ。そして、学生時代に青春を謳歌した、吉祥寺へ。

ノープラン。ノーキャリア。

大学時代に住み慣れた東京、吉祥寺が新たな出発点となる。「人生初の独り暮らしです。最初の1ヵ月は大学時代の先輩宅に居候を決め込みました。とにかく独立しようと思っていたんですが、まったくのノープランです。おまけに経験もない。それで、大学時代に良く行った居酒屋に出かけ、経営者はかわっていたんですが、はたらかせてくださいと直談判に行きました。店の『良い点』と『悪い点』をレポートにまとめて。それがかえっていけなかったんだと思います。悪い点を書き過ぎてしまったんでしょう。不採用です。次に、あるチェーン店の面接も受けましたが、こちらも不合格。もう、どうしようもなくて、開き直るしかなかったんです」。『どこも雇ってくれへんねんやったら、ジブンでやったる』。ズブの素人の店づくりが始まった。
「吉祥寺」に店を出す。生まれ育った大阪生野区の定番、ホルモンで勝負をかけた。周りは反対した。BSEの問題がクローズアップされた時だったから尚更だ。だが、もう、ホルモン以外は思いつかなかった。
家賃は10万5000円。「最初は、タレじゃなく、塩やから煙はでぇへん。排煙用ダクトはいらんやろ、とタカをくくっていたんです。ところが、試してみると店中、煙だらけ(笑)。それでしかたなく、ダクトも付けて。これが結構、高くて」。それほど豊富な資金はない。「だから、できるだけ交渉させてもらって。せやけど、昔のホルモン店なんて玄関開けっ放してそれで終わりやった気がするんですがねぇ」。
店づくりは、そんな思いもかけない交渉の連続だった。9月末に契約し、開店は11月15日。「とにかく早く開店させたかった」という。ただし、店はできても…。「酒屋の時にたくさんの店はみてきました。でも、出店するのに許可がいるなんていうのも知らないぐらい無知だったんです。一升炊きの炊飯器を購入していたんですが、正直にいえば一升というか、米の量りかたも知らなかったんです。長兄がオープンの時に手伝いに来てくれて、それで助かったんですが、その日に炊いた米が残るんです。翌日も、その残った米でいいやと思っていました。いまだったら、そんな奴、殴っていますね(笑)」。
そんな素人なりの方法でスタートした店が、10年足らずで直営10店舗、FC16店舗に広がっている。

素人のみと契約。

まったくの素人だった光山が、吉祥寺でホルモン店を成功させる。成功のウラには素人だからできた発想があった気がする。頭でっかちな、奇抜なアイデアではない。むしろ愚直なまでの、ひた向きな思い。それがユニークな発想を生んだ気がする。
「素人」、これが光山の一つのキーワードである。実際、FC店のオーナーも全員、飲食未経験からスタートした人ばかり。そんなFC希望者たちに光山はきびしい言葉を投げかける。
「サラリーマンの時より収入が下がりますよ、と良く言います。それでも飲食がやりたいんだという覚悟がなければ、成功はおぼつかないからです」。
「たとえば、月商から経費を引いた分が、オーナーの収入です。仮にいま18万円が残ったとします。サラリーマンの時代より少ないですが、初めて自分で稼いだお金ですから、嬉しくないわけはありません。ただ、問題はそれからです。その18万円のなかから、たとえば3万円だけ使ってお客さまのために何かしようと思える人だけが成功できると思うんです。逆に、18万円を20万円にしたいからって、2万円分の経費を削る人はダメ。うちの店長たちにも良く経費は削るなと言っているんですが、経費は売上をあげるために必要な費用ですから、それを削って売上があがるわけはありません。ただ、手っとり早く利益を増やそうと経費削減に走りがちなんです。つまるところ、飲食店のオーナーは、何よりもお客様を大事にし、喜んでもらおうと考えられる人でないと務まらない。自分が大事にされていると思えば、誰だってもう一度、行ってみたくなるでしょ。簡単な理屈なんです」。
まさに、その通りだと、膝を叩いた。ビジネスの教科書には載っていない真実なんだと思う。この発想は、自らの体験から生まれている。
「オープン当時は、素人なもんですから、日々、新鮮なんです。お客さまの意見にも素直に耳を傾けました。当然、毎日、サービスから何からすべて改善です。その結果、3ヵ月後には全く違う店になっていました」。毎月、上がる収益で小さな店は少しずつ「お客さまのために進化を遂げた」ということなのだろう。そこが凄い。
もう一方、この1号店では、いまなお「アルコールはすべて原価で仕入れている」そうだ。ディスカウントできることはむろん誰よりも良く知っている。バイイングパワーなるものも、たしかに存在する。しかし、酒屋だった矜持がそうさせるのだという。この矜持と人とのつながりを大事にするのが光山の強みであり、彼の人間性を良く表している気もする。
彼を慕う人間は少なくない。オープンしてから10年、いまだ求人広告すら出稿したことがない。「スタッフはすべて、元、お客さんです」、そういって光山は笑う。店の空気はもちろんだが、光山の人間性に誰もが惹かれるのだろう。FC店のオーナーとも、お金とお金のつながりではない。なにしろロイヤリティもない。ただし、条件が一つ。前述した通り、素人であることだ。この考えも、実におもしろい。失礼だが、手っ取り早くお金儲けのためにFC店を募集する会社もなくはない。儲かるというシミュレーションを立て、プレゼンテーションを行い、契約金とロイヤリティを取り、リスクを押し付ける。それとは、真逆の発想である。
「代わりに、私は何にもしません。ジブンで考えないとダメなんだと、思うからです。おかげさまで、赤字になって撤退した店はまったくない。そんなに大きくないけれど、一人ひとりの店主が何より頑張っている証拠だと思います」と光山は目を細める。

将来は、全国展開も。

今後の展開も聞いてみた。「酒屋さんと良い付き合いをしていますから、酒屋さんからFCをしたい人を紹介していただくなど、酒屋さんと一緒になって仕事をしていきたいな、と思っています。酒屋は全国にありますから、そうやって、全国にホルモン店を展開していきたいんです」。いま流行りの海外出店もまったく頭にない。マスコミで店は取り上げられたことはあるが、自ら出たいとも思わない。口コミサイトとも無縁。お金を掛けたくないからだし、意味がないと思うからだ。
「もちろん繁盛店のほうがいいに決まっています。でも、繁盛させたいというのは、店主の都合です。お客さまの立場になれば、それ以上に大事なことがたくさんある。これからも、そういうお客さまにとって大事なことを追及していける店でありたいと思っています」。
2012年現在で、まだ42歳である。カッコよく言えば、光山は、孤高の店主と言っていい気がする。数ある飲食店の、店主たちのなかで、染まらず、真っ直ぐに生きる、ジブンという軸を持った戦士だからである。この真っ直ぐさが、いい。

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