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第296回 株式会社夢現 代表取締役社長 佐藤正明氏
update 12/06/26
株式会社夢現
佐藤正明氏
株式会社夢現 代表取締役社長 佐藤正明氏
生年月日 1976年3月27日
プロフィール 千葉県市川市出身。3人兄弟の次男。高校時代、担任に誘われ、ブラスバンド部に入部。ブラスバンドにのめり込み、楽器・音楽関連の専門学校に進学。同校卒業後には、楽器関連の有名企業に就職する。リペアの技術を高め、その道で生きていこうと決意するが、営業に配置展開されてしまう。独立に向け大手運送会社に勤める一方で、バス会社にも就職。一時期ちぐはぐな時も過ごしたが、ワーキングホリデーでオーストラリアに修行に出かけるなど、抜群の行動力で「独立」の二文字を追いかける。念願かなったのは、2009年、33歳の時。現在、「佐藤家SATO-KE! 渋谷店」など、首都圏に3店舗を展開している。
主な業態 「佐藤家」「SATO-KE」
企業HP http://mugen310.co.jp/

凸凹兄弟。

佐藤が生まれたのは、1976年。正確を期すと、生まれは母の実家の北海道、育ちは千葉県市川市となる。もっとも、本人の記憶には市川市での出来事しかない。父は、新聞社の記者。兄弟は3人で、兄と妹に挟まれた次男坊である。「どっちが、だれの遺伝子をどう受けついだのか。長男とは2つ年が離れているんですが、彼は小学校の頃からガタイがでかくて。正義感がつよく、柔道もやっていたんで向かうところ敵なしのヒーローだったんです。一方の私は、中学入学時で123センチ、体重25キロでしたから稀にみる小粒。2人で通学していると、まるで凸凹コンビです。ただ、からだが小さいことをコンプレックスに思ったことはなかった。兄と比較されても、しかたないですもんね」。勉強は、理科が得意だった。だが、それ以外に興味はなし。テストをやれば、理科の点数は学内でもズバ抜けていたが、それ以外の点数と合わせると平均以下に落っこちてしまうほど、落差があった。凸凹兄弟の凹は、そういうタイプの少年だった。

ブラスバンドに熱中。

背が低いことは、悪いことばかりではなかった。兄と同学年の女の子たちから、かわいい!と言われた。兄と比較されると尚更、かわいらしさがきわだった。もちろん、正義のヒーローの弟だから、誰も手を出さない。悪くない小・中学時代だったが、兄が中学を卒業すると雲行きがいっぺん。いじめられる、という経験もした。中学時代には、バンドを組んだ。高校に進学し、自己紹介でその話をすると、担任が、熱心にブラスバンド部に勧誘するようになった。「うちの担任はブラバンの顧問だったんです(笑)。毎日、放送で呼び出され、口説かれました」。才能もあったのだろう。高校から始めたにも関わらず、頭角を現し、3年時には部長にも選ばれている。「入部当時は60人ぐらいで、男子は5名だけのクラブでした。その5人の先輩がもう無茶苦茶で、ワルな高校生だったんですが、クラブだけには毎日、来るんです。しかも、5人全員が、ソロの大会でも勝ち残れるぐらいの腕前です。かっこいいと言えばかっこいいでしょ。私は、高校からのスタートなので、多くの楽器に挑戦せず中学でもやっていたドラムに絞り、基礎の練習を繰り返しました」。ブラスバンドで千葉といえば、習志野高校が有名だ。「そうですね、習志野にはとても敵いませんでしたが、県ではいつも5位くらいには入っていました」。ちなみに、高校卒業時で身長は165センチ。けっして大きくはなかったが、女の子にも良く騒がれたそうだ。今度は、かわいいではなく、かっこいい、と。

いつのまにか、サラリーマンに。

「父親がサラリーマンだったんで、サラリーマンにはなりたくなかった。子どもの頃は獣医になりたくて。父や叔父さんたちが、たのしくお酒を飲んでいるのをみて居酒屋もいいな、と。そうなんです。子どもの頃から居酒屋もいいな漠然と思っていたんです。でも、高校でブラバンにハマるでしょ。獣医になるのもたいへんだし、それで音楽関係の仕事をしょうと、楽器・音楽関連の専門学校に進むんです」。1学年13名しかとらない有名な学校だった。「楽器のバラし方から、ぜんぶ教わるんです。学校を卒業し、有名な楽器関連の会社に就職するんですが、それは楽しかった。リペアの技術を習得し、将来はその道で、と思うまでになりました。ところが、就職して2年目、コミュニケーション能力を買われたのか、営業に配属になったんです。もちろん有名なオーケストラなどにも営業に行けましたし、数字も上がったんですが…。アレ、オレいつのまにかサラリーマンだ、と思うようになって」。ちょうど父が入院したことも重なって、もっと割のいい仕事に就かなければならなくなった。「それで退職し、トラックに乗るんです」。

職業、転々。目指すものは一つ。

2年間、トラックにのった。叔父が経営する看板の制作会社で、1年はたらいた。「叔父さんには跡取りがいなかったんで、良ければ会社を継いでくれと。継ぐ気になれなかったら、それでもいいから、と。それで、1年後にごめんなさい、と言ったんです」。いつのまにか、獣医も、音楽も、叔父の会社の椅子もなくなって、残るは居酒屋の店主だけになった。もう、逃げ道も、ない。資金を貯めるために、佐川急便ではたらいた。2年と少しで、700万円の資金がたまった。「でも、そうなると頑張って貯めたお金がもったいなくなって。もし、失敗してもいいように、大型免許を取ろうと思うんです」。ぜんぶ、飛び込みで大型2種まで取得する。もう、安心だったが、たまたまみかけた大手バス会社の求人に、ダメもとで応募してみた。すると狭き門を潜り抜け、見事、合格。勤務体系も、給与も悪くなかった。安定した生活も悪くない、そう思い始めたとき、会社の体制が替わった。退職し、徒手空拳で、オーストラリアに飛んだ。頼み込んで、日系の有名なレストランで修行させてもらった。帰国。数字管理を修得するため飲食店に応募した。キッチンも、ホールも、経営も、修得した。何度も、転職し、ステージもその度かわったが目指すものはもう一つだけ。居酒屋の店主。すべてがそのための、勉強だった。いよいよ2009年、独立。20歳で社会に出て、13年が経っていた。

すべての人を笑顔にすること。

現在、佐藤は「佐藤家SATO-KE! 渋谷店」などの人気店を首都圏に3店舗を展開している。1年1店舗ペースだ。今後は、さらに出店ペースを加速していくつもりだ。経営理念は「すべての人を笑顔にすること」。お客様だけではない、スタッフ一人ひとりの笑顔も大事にするという意味である。振り返ってみれば、すべてがいまにつながっている気がする。高校時代のブラスバンド部で「やればできる」という自信を持った。佐川急便、仕事はきびしかったが、目標の資金が貯まるまで辞めなかったことでも、続けるという自信がついた。オーストラリアに独り飛んだことも、自信になったはず。その一つひとつが、佐藤の魅力を構成しているように思う。行動派でありながら、同時に慎重派でもある。努力家でありながら、どこか楽天家のようにもふるまう。そんな佐藤の下ではたらけば、たしかに窮屈な思いをすることがないような気がする。まだまだ成長過程の「佐藤ファミリー」。その一員になれば、きっと誰もが笑顔になれるはずだ。

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