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第297回 株式会社麺食 代表取締役会長 中原 明氏
update 12/07/03
株式会社麺食
中原 明氏
株式会社麺食 代表取締役会長 中原 明氏
生年月日 1951年6月
プロフィール 北海道日高市に生まれる。7人兄弟の末っ子。日本大学に進学し、上京。住み込みで、新聞配達のアルバイトをしながら大学に通うが、いつしか新聞配達が本業に。大学をリタイアし、さまざまな仕事を経験したのち、わずかな資金をもとに独立開業すると同時に料理人の修行を開始。のちに国鉄(現JR)の関連会社の取締役となり、「喜多方ラーメン」との出会いを果たす。福島県喜多方市で3本の指に入る「坂内食堂」を訪ね、のれんを抱いて東京にもどり、「喜多方ラーメン店」を開業。改めて独立を果たし、株式会社「麺食」設立。現在、FC店を含め、首都圏を中心に57店舗を展開している。
主な業態 「喜多方ラーメン坂内」他
企業HP http://www.mensyoku.co.jp/
福島県喜多方市は、いわずと知れた「喜多方ラーメン」発祥の地である。ご当地には、120軒ものラーメン店が軒を連ねているそうだ。今回、インタビューさせていただいた中原明は、この会津・喜多方ラーメンの店を、首都圏を中心に57店舗(2012年5月現在)運営している「株式会社 麺食」の代表取締役社長である。ラーメンがブームになり、都内にも多くのラーメン店が乱立するいまも行列が絶えることがない。もと国鉄(現JR)の関連会社の取締役も務めたことがある中原が、いかにして「喜多方ラーメン」と出会い、「喜多方ブランド」の店を開業するに至ったのか。いつも通り、中原の生い立ちから追いかけてみることにしよう。

北海道日高市。

北国の朝は薄暗くて、そして寒い。凍てついた空気を切り裂くように、子どもたちは作業を始める。中原は7人兄弟の末っ子。いちばん頼りない足取りで、兄や姉の作業を真似、家畜に餌をやり、厩舎の掃除をした。それが日課。まだ電気もろくに通っていない頃の話である。
「もともと親父は東京都の出身なんですが、北海道に渡り、酪農業を始めます。私が小学4年生の頃に、競走馬を生産するようになって多少裕福になるんですが、当時の北海道の人たちはみんな貧しかった。うちも兄弟はみんな中卒で就職しています。中原家で高校に進んだのは、私だけです」。
中原は幼少の頃から「くる病」という骨格に異常をきたす病を患っていた。からだも思うように動かない。「いじめられたこともあった」そうだ。ただ、中原も負けてはいない。心まで弱いわけではない。負けるとわかりながら、相手のからだに突っ込んだこともあったはずだ。
「からだがそうだから、家ではもっぱら料理を任されていました。母親から今日の献立を聞き、みんなが帰ってくるまでにごはんを炊いて料理をつくっていたんです。いま思えば、あの頃から料理が好きだったんでしょうね」。中原は、目を細めながら少年時代を振り返る。

東京へ。

「正直にいうと、早く親父から逃げ出したかったんです。高校になってようやく日大の付属に行き、寮生活です」。『獣医になれ』と父親は指令を下したが「ろくに勉強もしないから、なれるわけはない(笑)」と中原。漠然とした思いのまま、日大に進んだ。これで晴れて、北海道脱出に成功。ただ、故郷から離れる寂しさは多少なりともあったことだろう。
東京では、生活費と学費をねん出するため、新聞配達所に住み込んだ。「学生は朝刊のみ。200部です。大人は朝刊と夕刊と営業や集金も行います。学生は月に3万円ぐらいで、大人たちは6万円ぐらい。新聞配達は勤労学生の象徴のような仕事でしょ。『たいへんだろ』という人もいたし、『たいへんだ』と思っている奴もいましたが、私はぜんぜん苦にならなかった。朝早いのは昔からだし、寮と食事がついている。こんなにありがたい仕事はないぐらいに思っていたんです」。
もともとまじめな性格。店主に評価され、いつのまにか大人たち同様の仕事まで任されるようになり、月10万円ぐらい稼ぐようになった。当時の10万円といえば学卒の初任給とかわらない。営業も巧かった。学生の仲間たちも引き込んだ。19歳の時には、店主として配達所を立ち上げる話まで持ちかけられた。
「ところが、これがダメだったんです。未成年でしょ、しかも妻帯者じゃない。店主といっしょに新聞社に行ったら門前払いです。ヤケクソになってね。有り金ぜんぶ、遊んで使っちゃった」。貯めていたのは100万円。それでも使い切るのに、数ヵ月かからなかった。この頃にはもう、大学は辞めていた。ちなみに当時は学生運動がさかんな頃。「授業も、たまにしかないあり様」だったそうだ。

放浪、そして、始まり。

「サラリーマンになるという発想はぜんぜんなかったんですね。人に使われるのはイヤだったからです。だから、就職といってもフルコミッションの会社ばかり。新聞配達の頃に営業もしていたでしょ。もともと営業の才能があったのか、何を売らしても契約は次々取れました」。全国を回って、革のハンドバッグを売る会社にも就職したが、そこでもスグにナンバー1になった。ただ、稼ぎは良かったが残らない。「出張先で飲み食いするでしょ。そういうクセが、もうついちゃったから。だからスグにお金もなくなって、前借までする始末です。その時、経理やっていた女の子が、『どうして、中原君はそんなに貰っているのにいつも前借するの?』と言ってくるんです。『なんで非難されなきゃいけねぇんだ』と心の中で毒づいていたんですが、それが縁で、その子と付き合い始めたんです」。その女性が、やがて奥さまになられる。世の中、わからないものだ。
ただ、当時、社内恋愛はご法度だった。それで2人して会社を辞め、かつての仲間に誘われるまま新しい商品の営業を開始した。「当時は、多摩ニュータウンとかができ始めた頃なんですね。サッシはあるんですが、網戸はついてない。クーラーもない時代だから、網戸は必需品でしょ。それを売ったんです。夏が始まるまではバンバン売れまくりました。1日、7〜80万円を売り上げた時もあったほどです」。
まだ20歳を過ぎたばかりの青年だ。「人生の放浪をしていた」と言っていい。2年ぐらいやって、仲間と儲けを折半して別れた。「オレは飲食の道に行く」と宣言して。新たな旅が始まった。

修行。

「子どもの頃から料理をしていたでしょ。だから、興味があったんだ。蕎麦屋をやろうと決め、住居をかねた店も借りました。でも、まったく経験なんてないわけです。女房をまだオープンしていない、その店に残して、私は修行に行くんです」。
まずは、親戚が営んでいた蕎麦屋で。更に、『家族亭』の本店に独身だと偽り住み込んだ。やがて、店を開いたが、閑古鳥。それで、独学しつつ、また修行にも出かけた。
中原は「つくることが好きだ」という。たしかに店は軌道に乗らなかったが、つくること、たとえば「蕎麦打ち」一つも楽しくてしかたなかったのではないだろうか。まったくの未経験者からのスタートだったが、わずかな期間に料理のうでも上がっていく。修行はいつしか真剣勝負になっていた。
「いまでいえば派遣ですね。渡り職人というんですが、次から次に仕事を任され、店を渡り歩いて包丁をふるうんです。格好良く聞こえますが、当時、職人の世界はすごい世界でね。昼間っから酒をかっ喰らっている人ばっかりで(笑)。ただ、腕が立つ人もたくさんいました。真剣勝負の連続です。若いから、って文句を言われるだけで、甘やかしてもらえるわけではありません。あのなかで揉まれたことで、私の自信が生まれていったんです」。

時は、チェーンオペレーション時代。

人に使われるのがキライで、「独立独歩」を旨とする中原だが、ある時、「立ち食い蕎麦」の会社が、「本格手打ちそばの店」を開業することを知り、応募する。中原、20代前半の頃 である。
時代はといえば1970年代前半。「マクドナルド」や「ケンタッキー」、また「すかいら〜く」などが誕生し、成長期に突入する頃である。
中原は、就職したその会社でスグに頭角を現し、責任者としてフランチャイズ展開を進言し、任されるまでになった。だが、そう簡単にはいかない。「頭でっかちになり過ぎていたんでしょうね。何億もかけ、機械もつくって、さぁ、スタートだって時に、資金が底をついたんです」。中原は、失敗の責任を取って1店舗あったアンテナショップの店長として現場に身を置いた。会社の借金返済に奔走するも虚し!中原のチェーンオペレーション構想は、スタートも切れず、あっけなく幕を閉じた。

国鉄、民営化。

国鉄がいまのJRとなったのは、1987年のこと。もちろん民営化の準備は、それ以前から始まっている。一向にうだつの上がらない、店も軌道に乗りだしていた中原は、縁あって、この国鉄民営化の一端を担うことになる。
「構内の敷地の利用と人員整理の受け皿に蕎麦屋をやるので、チカラを貸してほしいと言われたんです。最初は、店の者に行かせたんですが、あなたじゃなきゃダメだと言われ、ミイラ取りがミイラになったというか、その店に私も賭けるようになるんです。最初は、運営の業務委託です。ところが、たった5坪の店なのに月に2500万円も売り上げるようになるんです。それで、あちらが委託じゃもったいないから、会社にしようとなったんです」。
それがきっかけで、中原は、国鉄(現JR)の関連会社で若いながらも取締役を務めることになる。ちなみに、羽田空港にある、こちらも有名な手打ちそば「あずみ野」もこの当時、中原が立ち上げた店である。そして、国鉄民営化のいよいよ1年前、その会社での最後の仕事と決めて取り組んだ一つのプロジェクトが中原と喜多方ラーメンを結びつける。

全国ラーメン食べ歩き。

「当時の社長が新橋でラーメン店をやろうと言い出したんです。これからはラーメンだって。私は蕎麦でしょ。最初はなんでオレがラーメンなんだと思っていたんです。でも、私には信条があって、ポケットに入っている小銭で食べられるもの、そういうものが大事なんだって。ラーメンでもそれはできるし、ラーメンこそ、そういう気取らない庶民の食べものだと思って、新業態の開発プロジェクトをスタートさせたんです。といっても、もっぱら私一人のプロジェクトですが。とにかく、全国のラーメン食べ歩きが始まりました」。
「あれは、大阪に旨い塩ラーメンがあると聞いて出かけた帰りの飛行機です。少し、がっかりしていたんです。美味しかったものの、うちでは…、というラーメンでしたから。その時です。近くの座席から『喜多方のラーメンって知っているか?』って、会話が聞こえてきたんです。いまのようにインターネットの時代じゃないですから。そういう風にして口コミや聞きかじりで探すしかなかったんですね。それで社に帰って、喜多方を探し始めるんです。喜多方って、『なんだ?』『どこだ?』からスタートですよ。そこいらの駅長にも電話を入れて、しばらくして、ようやく福島の喜多方ってことが判明するんです」。

早速、喜多方へ。

「向こうに行って、タクシーの運転手さんに『うまい店へ』といって連れていってもらったのが、『坂内食堂』だったんです。当時はまだ店主の坂内新吾さんもお元気で、有名な話ですが、お酒も一升瓶を何本も空けておられた時代です。事情を話してみても、もちろん『ノー』です。ただ、新吾さんには、気に入っていただけようで、飲みに連れて行ってもらって食堂の2階に泊めていただけたんです」。中原も、坂内氏がつくるラーメンに一目惚れした。「もともと蕎麦屋でしょ。だから、麺が大事なんです」。どうすれば、美味しい麺をつくれるかも知っている。「新吾さんのつくられる麺は、基本に忠実で、作りかたを聞いているだけで、『美味しいに決まっている』と思わず膝を叩きたくなる麺だったんです」。
1週間、滞在した。最初はなかなか認めてもらえなかったが、中原の包丁さばきをみて、『これは』と思われたのだろう。1週間後には、坂内の「のれん」を持ち帰ることが許された。この「のれん」を大事にしながら、中原の「会津・喜多方ラーメン店」の展開がスタートする。
「麺食」のホームページ内の年表によれば「1987年4月 喜多方市、坂内食堂の店主坂内新吾の協力を得て、東京新橋に会津・喜多方ラーメンの店『くら』を開店。翌1988年5月、会津・喜多方ラーメンのFC事業を企業化するため 坂内新吾を相談役に迎え、株式会社麺食を東京・蒲田に設立した。屋号は会津・喜多方ラーメン坂内に決定」とある。

原点と基本。

中原のこれまでをみると2つの大事なことに気づく。ひとつは、「好き」というエネルギーの大事さだ。中原も、自ら言っているように営業センスもあり、成績も良かった。営業という仕事で会社を設立してもよかったはずだ。だが、中原は、飲食に舵を切った。「ものづくりが好きだったから」というのが、その理由である。ただ、志したものの、なかなか目は出なかった。そんな中原を支えたのも、この「好き」というエネルギーだったのではないか。
もう一つは「基本」の大事さだ。中原は偶然、「喜多方ラーメン」と出会うわけだが、もし、中原がただのラーメン好きだったらどうだろう。坂内氏が「のれん」を分けたのも、中原のなかに、修行を経て手に入れた「料理の基本」をみたからではないだろうか。
いずれにしても、18歳で北海道を飛び出した少年はいま、『喜多方』というブランドを背負いながら、「旨いもの」「美味しいもの」をひたすら追及している。
かつて父がこういった。「頭が悪いなら、頭の良い人を使えばよい」、「足が悪いなら歩ける人を使えばよい」、「目が悪ければ目の見える人を使え」、と。
職人ではなく、経営者となれば、たしかに「モノづくりの方法」も異なってくる。人を使うことが大事になってくるからだ。ただ、人についても話を伺ったが、中原の話を聞いていると、「使う」ではなく「活かす」がピッタリだと思った。
この「人を活かす」という視点は、経営者、中原が辿り着いたもう一つの「原点」と「基本」ではないだろうか。

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