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第301回 株式会社春秋 代表取締役社長(株式会社スーパーポテト 代表取締役) 杉本貴志氏
update 12/07/31
株式会社春秋
杉本貴志氏
株式会社春秋 代表取締役社長(株式会社スーパーポテト 代表取締役)
杉本貴志氏
生年月日 1945年4月
プロフィール 東京都生まれ。東京藝術大学美術学部工芸科卒。1973年にスーパーポテトを設立。インテリアデザイナーとして西武百貨店ほか、数多くの作品を手がける。1984年度の毎日デザイン賞を皮切りに多数の賞を受賞。1992年より武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科の主任教授を務めている。主な作品は「西武百貨店」をはじめ「無印良品」各店、「パークハイアットソウル」、「ハイアットリージェンシー京都」など。株式会社春秋の設立は1986年10月6日。飲食にクリエイターの発想を取り込んだ第一人者でもある。
主な業態 「春秋」「春秋ユラリ」「春秋ツギハギ」など
企業HP http://www.shunju.com/ja/
真っ向から向かってくる敵にひるまず「メン」を打ち込む。「コテ」「ドウ」…、祖父を相手に小さな少年は、けんめいに竹刀をふるった。もう、50年以上まえの話である。

剣道一直線。

今回登場いただく株式会社春秋の代表取締役社長、杉本貴志は、太平洋戦争が終戦する1945年の4月に生まれている。東京に居を構えていた杉本家は、軍事関係の仕事をしていた父を残し、母と姉2人と杉本の4人で高知県に疎開した。母方の祖父母宅があったからだ。
「私が生まれてスグに終戦です。父はそのまま東京に残り、私たち4人は、私が小学4年生になるまで高知で暮らしました」。海もあれば、川もある。杉本は自然のなかでわんぱくな少年に育っていったことだろう。
奔放で、手のかからない少年に育った杉本に、祖父が剣道を教え始めたのは小学2年生の時。
これがきっかけとなって、杉本は大学まで剣道を続け、大学ではキャプテンまで務めている。大学卒業後の一時期には、調布警察署で剣道を教えている。
祖父から教えられた剣道と、剣道にかかわるものの考えかたは、杉本の人生のなかで大きな根をはったに違いない。

「絵の才能? そんなの考えたこともないよ」

小学4年生で高知を離れた杉本は、東京の調布市で暮らすようになる。初めてみる生まれ故郷だったに違いない。「私が、中学に上がる頃は、ちょうど調布が市になる時で、人口は3万人しかいなかった。いまでは考えられませんが、中学校もひとつだけ。でも、ベッドタウンの波がきていて、いち学年が13クラス。ひとつのクラスに50人どころか60人ぐらいいたんじゃないでしょうか」。杉本が13歳といえば、1958年。いったん焼け野原となった東京が、一気に大都市に再生されていく、そんな年である、都市再生のプロセスを杉本自身、体験していくことになる。
日本を代表するインテリアデザイナーの杉本に訊くのはどうかと思いつつ、愚問を一つ投げかけてみた。「当時から、絵の才能はおありだったんですか?」。
「う〜ん、私は高校の2年の時に東京藝大に行こうと思うんですが、授業では美術ではなく、音楽を選択していたほどなんです。たしかに絵の展覧会などでは良く賞をもらっていましたし、巧いと言ってくれる友人もいましたが…、才能というようなのをハッキリと意識したことはなかった気がします」。そんな答えが返ってきた。
では、杉本が自信を持っていまの仕事に向かいだしたのはいつ頃なのだろうか。「30歳くらいになってからですね。これでいこうと決めたのは」。こちらの答えにも驚かされた。ただし、これはずいぶん先の話。学生時代に話を戻そう。

40倍の難関突破。

「完璧に合格するとはいえないが、まぁ、落ちることもないだろう」と高を括っていた。だが、1度目のトライは失敗。一年浪人し、2度目に合格。40倍の難関を潜り抜けた。特別に先生について習ったわけでもない。少しデッサンをかじった程度。それでも合格した。「こういっちゃなんだけど合格した先輩のデッサンとかをみて、この程度ならと思っていました」とのこと。専攻は、美術学部工芸科。デザイナーを志してはいたが、正直にいうとデザインが何であるか、正確には答えられなかったそうだ。ただ、すべてが近代化していくなかで、デザイナーという職業に対する明確な答えが、この当時の日本にはまだなかったのかもしれない。少なくとも、いまほど認知されていなかったのは間違いないだろう。
「東京オリンピックが開催され、百貨店も生まれ、デザインの雑誌も登場します。そういうのをみながら、少しずつデザイナーという職業のかたちが分かってきました。インテリアデザイナーをやろうと決めたのは3年ぐらいの時です。ただし、アメリカやイタリアの最先端の雑誌を観て、こういうのをやりたいな、という程度のものでしたが」。
とはいえ、在学中にすでに日本を代表するグラフィックデザイナー田中一光氏とも知り合っている。「大学に遊びにみえたんです。その時、先輩の一人が私に声をかけてくれて、田中氏に初めてお会いすることができたんです」。
田中一光氏は、杉本より15歳上。むろん杉本にとっては、雲の上の存在である。にもかかわらず酒もいっしょに飲み、のちに自身の事務所の改装も任せてもらえる関係になっている。「海洋博覧会でも、いっしょに仕事をした」とのこと。ただし、それもまだ先の話。インテリアデザイナーになろうと思ったものの、大学を出てもスグに職はなし。「当時は、それも普通だった」というが、就職せずに、不安はなかったんだろうか。

調布警察署の道場に週2〜3回。

芸は身を助ける。先輩の紹介で、週2〜3日、剣道を教えに調布警察署に通った。2年ぐらいはこれでしのいだが、町田に実家が引っ越したため、辞めることになる。そのあといよいよ、スーパーポテトの時代が始まる。
「原宿に事務所を構えました。先輩たちから紹介してもらった仕事をボチボチこなし、なんとか食べていけるようになっていきます」。そんなまだ駆け出し時代の仕事だが、杉本はすでにヨウジヤマモトのワイズ1号店、イッセイミヤケの店舗も手がけている。その後、一時期、杉本の代名詞ともなる西武百貨店の仕事が舞い込んでくる。「堤さんに、吉兆でお会いして」。それが始まりだった。

インテリアデザイナー杉本が、飲食に挑戦する。

西武百貨店を手がける一方で、杉本は、「ラジオ」というバーをデザインするなどして、海外にも名前を轟かせる。1984年度、1985年度に連続して、毎日デザイン賞を受賞。その後も、数多くの賞を受賞するに至っている。現在では、海外でも多くの作品を残している。
そんなインテリアデザイナーの杉本が、「春秋」を設立したのには多少の経緯がある。「大学時代の後輩が、店をはじめたんですが、なかなかうまく行かず、それで私が会社を設立し、立て直しを図ったんです」。1986年にオープンした三宿店を引きついでスタートする。単体ではなんとか黒字にできたが、借入金を返済するまでには至らなかった。
「それで、赤坂のはずれに2号店を出店して一気に巻き返そうと思ったんですが、狙い通りにいかず、それならと広尾に3号店を出店するんです」。
1号店が巧くいかなくても、スーパーポテトのほうで上がる利益でカバーできた。しかし、2号店は「立派な店をつくり過ぎた」と杉本もいうように、初期投資がかさんだ分、赤字の幅も広がった。本業が順調なのだから、普通ならクローズという選択もあっただろう。だが、杉本は本分ではないにかかわらず、あきらめないで3店舗を出店する。
才能2割、努力8割という杉本の真骨頂がここにも表れている気がする。「8割が努力、いちばんいけないのは、途中で投げ出してしまうこと」と杉本。この理屈は、飲食にもたしかに通じるものがある。粘りつよく、3店舗目を出店した「春秋」は、業績を急角度でのばしていくことになる。
利益も上がり、借金も返済できた。ノウハウが蓄積し、1号店、2号店にもいい影響が表れた。「3号目から、社内のスキームを替えたんだす。いままで飲食にたずさわっていなかったもんですから、どこかで特別なものと考えていたんでしょう。給与も、休日も、そうです。そういうのを改めて、利益をつくりだせる体制をつくりあげたんです」。2号店出店までは5年、その後、3年で3号店を出店している。その後も出店を続け、2005年には「春秋ツギハギ日比谷店」、2008年には「春秋ユラリ恵比寿店」をそれぞれオープンしている。事業は2012年現在も順調だ。だが、1号店オープンよりもうすぐ30年を迎える。30年は一つの区切りだと杉本は考えている。

海外に行け、そしてハダで感じろ。

インテリアデザイナーの杉本は、現在、海外企業からの依頼も受けている。インドではハイアットも、リッツも手がけている。中国からもひっきりなしにオファーがくる。そんな杉本にとってアジアは身近な存在だ。バリには、第二の自宅まであるそうだ。
「海外にはいいものがたくさんある。でも、実際に足を運ばないとダメだと思います。私は、ガイドブックに載っているようなホテルも、ツアーも苦手。いいホテルに泊まるだけなら日本でもできるでしょ」。
「ネットで観ただけでは、ダメ。とにかく行かなくては」という。「頭で理解するだけではなく、行って、現地の空気をハダで感じなければ意味がないのだ」という。むろん正鵠を得ている。
最後に「春秋」の海外進出についても伺った。当面は考えていないとのこと。理由は英語を十二分に話せるスタッフがいないからだという。
たしかに海外進出は、言葉でいうほど簡単ではない。杉本によれば、オーナーがやる気があって、腰を据えなければいけないという。杉本は否定するが、「春秋」にとっても海外は一つの方向ではないかと考えた。
誰かが「海外へ」と手を挙げる。才能のあるなしではなく、8割の努力をまっとうできる人がいれば、必ず成功すると思うからだ。それは日本の文化を輸出することにもつながる。杉本が海外に舞台を広げたように、「春秋」もまた世界へ舞台を広げるチカラが備わっている。それは間違いない気がするのだが、どうなのだろう。

思い出のアルバム
 

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