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第305回 株式会社ジェイグループホールディングス 代表取締役 新田治郎氏
update 12/08/14
株式会社ジェイグループホールディングス
新田治郎氏
株式会社ジェイグループホールディングス 代表取締役 新田治郎氏
生年月日 1966年10月12日
プロフィール 京都市中京区出身。高校卒業後、上京。1985年、マハラジャなどを経営する日本レヂャー開発株式会社に入社し、時代の先端を走り抜ける。24歳で社長に就任。同グループにおける社長就任レコードを塗り替える。30歳、ディスコブームの終焉を迎え、独立。ジェイプロジェクトを立ち上げ、そののち、10年で株式を上場する。2012年2月末現在、東海エリアを中心に今や関東、関西エリアに85店舗を展開している。
主な業態 「芋蔵」「ほっこり」「てしごと家」など
企業HP http://www.jproject.jp/

うなぎの寝床。

新田の実家は京都市中京区で祖父の代から「着物屋」を営んでいた。祖父は着物の生地に模様を染めるために用いる型紙、「型紙彫刻師」でもあったそうだ。
住まいは、うなぎの寝床と呼ばれる京都独特の建物で、間口が狭く、奥が長い。これは、昔、間口の広さで税金が決まっていたからだという。
「『THE・KYOTO』といえるような場所です。いまではマンションも多くなりましたが、私が育った頃、周りは商売人ばかり。うちも着物屋です。そういう関係もあって京都のしきたりには、ずいぶん、うるさかった」と少年時代を振り返る。
従業員は20〜30人ほど。祖父が先代で、父が当代、新田ら3人の兄弟は次代と呼ばれていた。代によって住むところも、食べるところも違っていたそうだ。親子の関係よりも、京都のしきたりが大事にされていた時代の話である。
そんな新田家に長男、長女につぎ、次男の新田が生まれたのは1966年。昭和41年のことである。
「幼稚園に進学するまでは祖父にも甘えていたようですが、小学校に上がる頃には、祖父や父との会話はぜんぶ敬語です」。
「正月には分家をはじめ、さまざまな人たちが羽織袴でやってきて、お屠蘇を飲んで1年が始まる」というような家柄だったそうだ。
そんななかでも、新田はノビノビと育ち、小学生からはプロ野球選手、正確には長嶋茂雄氏をめざし野球に打ち込んでいる。

目標は長嶋茂雄。

「父と母が長嶋さんの引退のTVを観て泣いているんです。それで長嶋さんって偉い人なの? と聞くと、そりゃぁ凄い人だというんで、じゃぁ、そんな凄い人になってみたいと思うようになるんです。それが野球を始めたきっかけです」
運動神経はいいほうだった。背番号は長嶋氏とおなじ3番。もちろんサードで四番打者だった。「でも、うちのチームは弱いチームだったんです。だから、四番サードといっても微妙なところです(笑)」。新田は、キャプテンとして弱小チームを引っ張った。
中学になっても野球をつづけたが、グラウンド以外でも暴れたそうだ。「中学生になると、さすがにプロはダメだってわかるんです」。それでも野球は好きだった。
ところで、当時の京都の店には15歳で丁稚奉公に出るという決まりがあったそうだ。「長男だけではなく、次男も丁稚奉公に出ます。私には兄と姉がいますが、姉は大学に進学していますが、兄は高卒です。もともと15歳で丁稚という話があったそうなんですが、母が、せめて高校をということで祖父が折れたんでしょうね。それをみていた私は、中学時代から家は継がないとハッキリ宣言していました。それで中学3年の夏休み家を追い出されました(笑)」。

さらば、京都。

「別に怒られたわけではないんです。『継ぐ意思がないなら、家を出ろ』と。そうじゃないと、みんなにケジメがつかないということでした」。
「継ぐのか、継がないのか」を15歳の少年に迫る。家を追い出されたという話を抜きにしても、それ自体、過酷だ。新田が東京に行く決心をしたのは、この時だったのではないだろうか。逆にいえば京都を捨てるという決心である。
「東京」という言葉は胸にしまい込み、京都の「堀川高校」に進んだ。もちろん野球部に所属。だが、かなり弱かった。3年が過ぎる。
新田が高校3年の年といえば1983年である。いま振り返れば、バブルに向かって日本経済が駆け上がっていく時である。堀川高校を卒業した新田は、バブルを生み出す「東京」へ向かった。「東京に行って、いまでいうフリーター生活を始めました。TVドラマの小道具もやりました。いろんなバイトをして生計を立てていたんです」。
明確な目標があったわけではない。その日暮らし。そういう言葉もぴったりだった。新田にも、そんな時代がある。だが、ある日、運命の人に出会う。「あることがきっかけで、当時、黒服の頂点に立っておられた成田勝さんにお会いするんです」。
正確に言うと会うというより、遠くから「あれが、成田さんだ」と教えてもらっただけ。だが、その一瞬の出会いが新田の運命を決定づけることになる。「格好良かった。背は184センチぐらいで、完璧な八頭身。ルックスはもちろん抜群です。とにかく黒服の頂点に立っている人なんです。マハラジャだけで150店舗はあったんですから、その頂点に立つことがいかに凄いことかわかりますよね」。

人気のディスコチェーン「マハラジャ」で、社会人のスタートを切る。

当時の「黒服」は、ディスコのホールスタッフを指していた。ディスコブームのなかで、立ち振る舞いが洗練された黒服たちは、客からも絶大な人気があった。そのなかで新田がいう成田勝氏は、東京地区のマハラジャを運営する「エヌ・エンタープライズ」社長を務める一方で、全国のマハラジャ・チェーンのイメージリーダーとして君臨していた。ちなみに1986年には歌手としてメジャーデビューしている。当時、成田氏の年齢は27歳。新田と7歳しか違わない。一瞬の出会いで、憧れも、目標もできた。
「真剣にやったろ」。新田のなかで何かが弾けた。
新田は1985年にマハラジャなどを経営する「日本レヂャー開発」に入社。ディスコブーム真っ只中で社会人デビューを果たす。ホールで指揮を取るようになったのは、23歳、1989年のことである。

再生というミッション、そして生まれた伝説。

「長野にある店の業績が不振だったんです。この店の立て直しに選ばれました。これが私のデビューです」。「調べてみると長野の人口は約30万人。そのなかにディスコはマハラジャ一軒だけだったんです。でも、その一軒のディスコの業績が落ち込んでいる。ライバル店に負けているならともかく、全体のパイが少なくなっているとしか考えられません。ただ、そう考えると判らなくもない。東京に出ないで長野に残っている人は、どちらかといえば大人しい性格の人なんです。ディスコで遊んでいる人とはちょっと違う。だったら、そういう人たちに、こちらから歩みよればいいじゃないか、というのが私の発想でした」。
「新田って誰だ?」。東京から送り込まれ、いきなり指揮を取る青年に反発した人間もいた。年齢も若い。大半のスタッフが新田より年上だったそうである。だが、些細なことにかまっていられないというのが本音ではなかったか。新田は3ヵ月で1300万円の月商を3000万円に戻すというミッションを与えられていたからだ。
だが、いたずらに焦らなかった。3ヵ月しかないにもかかわらず、新田は人間関係の構築から取り組んだ。スタッフとのコミュニケーションが何より大事だと考えたからだ。ここに新田の「人」や「事業」に対する考えかたが透けてみえる。
「最初の1ヵ月の主なテーマはスタッフとのコミュニケーションです。それに大部分を費やしました」と新田。絆を固め、2ヵ月目からは、さまざまな販促に打ってでた。朝早くから町を掃除した。「最初は、三日坊主と周りの人たちも高を括っていましたが、私たちが辞めないもんだから、だんだん好意的に話しかけてくれるようになったんです。その度に、店に来てください、っていうんです」。
こちらから歩み寄れないか、新田の思いが具体的に表れたのが、この掃除。格好いい黒服が、掃除をしている。話してみると、気さくで、とっつきやすい。客と店の距離が縮まっていく。VIPルームにもひんぱんに顔をだした。新田がモデルになって、客を惹きつけもした。新田ファンまでできあがったそうだ。その結果、予定通り3ヵ月後、月商は3000万円を超える。新田の名が全国のマハラジャのなかを駆け抜けた。

金沢へ、仙台へ、そして史上最年少社長誕生。

だが、まだこの年の伝説は終わらない。「長野の店で業績を回復させました。今度は、金沢に行けという指令です。こちらは長野と違って、人口も45万人。ディスコもたくさんあった。とくに一軒、マハラジャのライバルになる店があったんです」。
ハードルも高かった。2200万円にまで落ち込んだ業績を8000万円以上にしなければならなかった。「相手の店もセンスがいいし、格好もいい。でも、相手がわかっていましたから」。
その店との戦いだと心を決めた。相手がわかれば、戦略は定まりやすい。この金沢の月商も3ヶ月で4倍の8000万円にした。大阪や東京のマハラジャを抜いて、この月、新田が指揮する金沢店は日本一になった。「これからは、新田の時代」と言われだしたのはこの頃である。
それでもまだ落ち着けない。今度は仙台へ。新田は、長野、金沢での業績が評価され、部長職にまで昇進していた。23歳の部長。だが、実績がある。「もう、私の名前も広がっていましたから、ウエルカムです」。苦労することもなく、仙台ミッション完了。
夜行列車で長野に向かってから、10ヵ月、足早に新田はキャリアの道を駆け上がった。24歳で、グループ36番目の社長に就任。憧れの黒服「成田勝氏」の記録を1年短縮し、マハラジャグループ史上、最短最年少で社長の座に就いた。「シンデレラボーイと言われた」と新田。やっかみもあったかもしれないが、ただのシンデレラでないことは、いまからさらに示される。

ディスコブームの終焉とマハラジャの終わり。それは新たな、始まり。

「私が初めて名古屋の地に降りたのが、24歳の時です。1990年、東海地区を統括する『名古屋レジャー開発』株式会社の社長に就任しました」。それから20年以上も名古屋中心の生活を送るとは思っていなかったことだろう。
名古屋でも高い業績を残す。だが、その一方でディスコブームがバブル崩壊とともに収束に向かう。1991年、ジュリアナ東京がオープンし、1994年にはヴェルファーレが誕生しているが、マハラジャの時代ではなくなっていたようだ。
「ただし、うちは最後までがんばっていました。私自身にはいいオファもきた。でも、名古屋で私についてきた仲間を裏切れなかった」。1996年の年末、新田30歳。名古屋のマハラジャ伝説は終わりを告げた。ちなみにマハラジャは、「最後のマハラジャ」と呼ばれた「マハラジャ横濱店」が1998年に閉店。これによって、高級ディスコチェーン「マハラジャ」は約15年の歴史に幕を閉じた。だが、新田らの人生の幕はまだ閉じることができない。

食わせなきゃならない。

「その時、スタッフが30人ぐらいいました。年末に解散だと言われます。でも、彼らを食わせていかないといけない。だから、急いで翌年2月にはジェイプロジェクトを設立しました。そして3月3日に1号店(120坪)をオープンし、3月9日にも、120坪の2号店をオープンしました。これで2店舗です。5月になって今度は大型ではないですが、3号店をオープンさせました。スタッフ全員を食わすには、無謀とか、言っていられません。ただ、周りはあきれるばかりです。いままで黒服やっていたのが、なかには、いきなり厨房に立つのもいるんです。そりゃぁ、うまくいかなくて当然です」。
知らない飲食の道をひた走りに走っていたら、数ヵ月で2億5800万円の借金ができていた。「あの時だけは、このままでは返済できんなと凹みました(笑)」。だが、必殺技が残っていた。「もう、ディスコはやらないと決めていたんですが、7月に、関連会社で『J-MAX』という大型ディスコをオープンさせたんです」。起死回生。これがヒットしなければ、すべては終わり。

起死回生。借金返済し、株式上場へ。

「飲食で2億円以上の借金は返せないと思っていたんです。だから、このディスコは最後の賭け。ただし、もうディスコはやらないと思っていましたから、いくらヒットしても3年で閉めようと思っていました」。ハイリスクだが、ハイリターン。ただし、ディスコはお得意のフィールドだ。確率でいえばこちらのほうが、高い。「この店が大ブレイクするんです。『よっしゃ、きたでぇ〜』。みんなで拳をふりあげました」。
借金の返済どころか、ディスコから上がった資金で飲食に再投資することもできた。飲食の経営ノウハウもたまってくる。こちらの店も流行り出した。いい循環が生まれた。やがて、10年で株式上場という目標も実現する。
「正確には、9年と数ヵ月です。目標より少し早く達成することができました」。スタッフみんなのおかげだという。いまでは、新田の名前である治郎をもじり自らを「J-チルドレン」と呼ぶジェイプロジェクト出身の独立経営者もいるそうだ。

人が何より大事。飲食にはいろんなタレントがいる。

ディスコの黒服を着て駆け上がった男の物語。キザで、クールで、格好いいばかりだと思っていたら、意外と人間くさい。「義理と人情、これが大事だ」という。「負けん気が大事です。いまでも若い子には『技術では負けても、情熱という才能では負けるな』と言っています」。
人間くさい男は、会社設立2年目から、企業には負担の大きな新卒採用も開始している。「若い人を育てるのが大好き」、そう言って目をかがやかせる。社員比率が高いのも、人好きの表れだろうか。
「飲食にはいろんなタレント(才能)がいるんだということをわかって欲しくて、うちの会社は硬式野球部を持っています。昨秋のドラフト会議で、初めてうちのチームからプロ野球選手が生まれました」。創部4年目にして「第83回都市対抗野球大会」へ初出場を果たした。それだけ考えても。新田が言う、飲食には、いろんなタレントがいることを証明している。

教壇に立つ。その姿は、たぶん、憧れの対象だ。

今後の方針を最後に聞いてみた。「業績も大事ですが、人づくりです。ある大学で講義をしたら、いい反応でした。いまからの若い人たちを育てていく、そういうことをこれからの私のテーマにしていきたいですね」とのこと。
経営の第一線に立つ人間から学べることは多い。負けず嫌い、その一点だけでも学ぶことができれば、人生にとって大きなプラスになることだろう。
「中学生になると、さすがにプロはダメだって思った」という話にはつづきがある。「もう、長嶋茂雄にはなれない。だったら社長になると決めたんです。でも、私は次男です。兄が社長で、これは決まり。だから、私は社長になるため東京に向かったんです」。
もう、30年以上も前の話。その時の思いは、達成している。しかも、人を育てるだけではなく、人の心を育てる、そんな経営者に登りつめた。
「情熱」。それが成長の原動力。新田の生き様はそう語っている。

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