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第308回 とこなつ屋 店主 鈴木康弘氏
update 12/08/28
とこなつ屋
鈴木康弘氏
とこなつ屋 店主 鈴木康弘氏
生年月日 1981年2月8日
プロフィール 東京都に生まれる。幼少時代をすごしたのは米国カリフォルニア州。2004年春に早稲田大学商学部を卒業後、(株)リクルートエージェントで企業の採用支援と第二新卒者の転職支援に従事。2006年12月よりフィジー共和国の語学学校「Free Bird Institute」サポートオフィスMGR兼本社取締役として活動し、2010年10月に転職相談のできるBAR「Dining DJ Cafe とこなつ家」を起業。その自由で異色な業態の誕生に、業界では大きな注目を浴びる。
主な業態 「Dining DJ Cafe とこなつ家」
企業HP http://tokonatsuya.jp/

カリフォルニアの青い空に育まれた原風景

8歳から11歳までの3年間を、鈴木はアメリカ西海岸、カリフォルニア州のサンホセで暮らしている。大手通信機器メーカーに勤務するエンジニアだった父の海外赴任。辞令からわずか1週間後には、家族四人でアメリカの地を踏んでいた。幼心を覆う不安の涙。頬を伝ったその痕が、乾く間もないほどの急な出来事であった。
サンホセはシリコンバレーの中心的な街で、すでに当時から多くの日本企業も進出していたが、鈴木が通う小学校には、日本人が一人もいなかったそうだ。「登校したけど、まず自分の教室がわからない。先生が迎えにくるまで、校庭で泣いていました…」「間もなくテストがありましたが、当時はまだローマ字を知らず、用紙に自分の名前さえ書けなかった(笑)。言葉の違いの中、そんなもどかしさを伝えることができないことが辛かったです」。心細いアメリカ生活のスタートだった。
「しかし、だいたい半年で英語での生活に慣れました」。多くの人がそうであるように、鈴木もまた次第に異国での言葉やコミュニケーションに適応していく。それは持ち前の、根っからの明るさやポジティブ思考にあったかもしれないし、周囲に多かったメキシコ系の人々から受けた底抜けな陽気さだったかもしれない。
ラテンのムードと、日差しをいっぱいに浴びて緑に恵まれた大地。そしてふと見上げると、東京では見たことのない高くてどこまでも広がる真っ青な空があった。以降の鈴木はたびたび『自由』をキーワードに用いる。「あの体験が自分自身や今の仕事を形づくっている」と話すように、そこに込められたイメージは、あの明るくおおらかでのびやかな風景なのだろう。どこにいようとも、その空から続いていくあの晴れ渡ったサンホセの空を、鈴木はさがしているのかもしれない。

最小・最弱から這い上がっていくことを学んだ柔道

帰国し中学に進んだ鈴木は、まず柔道に打ちこむことになる。特になにも考えずに入部した柔道部の中で、鈴木はいちばん背が低く、そして最も弱い選手だった。そしてそのことが、前向きな性格に火をつけたのだろう。
来る日も来る日も懸命に汗を流し、肉体を磨き、心を鍛えた。周囲もその闘志を理解してくれていたのであろう。「もう軍隊さながら。先輩たちに投げ飛ばされ、ぶん殴られて。でも、それが逆に良かったのだと思います」。鈴木はそのたびに帯を締め直した。
毎日の苦しい努力が実り、二年生の秋の大会ではとうとう市内で3位に潜り込むことができた。そうしてつかんだレギュラーの座。三年生となった春の大会では、全48チーム総勢240人の中で、ひときわ小さな鈴木選手が気を吐いていた。
己が強くなっていくためには、己よりも強い相手と対峙していく以外に術はない。鈴木は、この頃それを理解しはじめていたのではないだろうか。体を鍛えて、身長は完全に伸びることがなくなったと笑うが、その筋肉にはその後の人生を開拓していく力が宿ったに違いない。

左中間を割った、最後のツーベースヒットの感覚

高校では一転して軟式野球を選んだ。「ボールがまったくバットに当たらず、センスがないヘタクソでしたが、アメリカでも少し嗜んでいて、野球が好きでしたから…(笑)」と言うが、実は進学先の柔道部が弱かった。強い相手と闘う以外に、己を強くする術はないことを知ったがゆえの、新しい挑戦のはじまりだった。
またしてもゼロからの猛特訓がはじまる。修行僧のように潰れた豆の痛みに耐えながら、ひたすらバットを振り続けた。2年時には打率は3割を裕に上回っていたが、自分を「ヘタな選手」とした位置づけを変えることのないまま、努力を積み重ねた。
そして迎えた最後の夏。大会の1ヶ月前に、鈴木は全治3ヶ月の傷を負っていた。盗塁の際のアクシデントで、その足はギブスでガッチリと固められていたのだ。滝のような汗を流しながら松葉杖をついて医師のもとへ通い、「たとえ後遺症が出ても…」と、鈴木は頼んだという。
強引にギブスを外してベンチ入りした鈴木は、チャンスで代打に起用される。この先、膝が曲がらなくなるかもしれない。そんな医師の忠告よりも、今の瞬間、一球だけに集中した。振り抜いた打球は左中間をまっぷたつに割り、深く飛んだ。思うように動かない足を引きずり懸命に一塁ベースをまわりながら、「あのバットの感触は今でも残っていますよ。そして努力は必ず報われる。本当にそう思いました」。それ以外には何もなかった。ただ、白球の向こうに青い夏の空が広がっていた。

父から教わった、唯一のこと

柔道や野球への取り組みから、鈴木が常にチャレンジャーであったことはおわかりいただけるだろう。「順風満帆などということはまったくありません。たくさんの壁や挫折があって、それを乗り越えようと努力をしてきた。その繰り返しです」。恥ずかしそうに話す鈴木だが、そこには父の影響が見え隠れする。
「父親とは12歳から25歳までは会話をしませんでした。無口で頑固者の父がたまに口にすることといえば、決まって『勉強しろ、努力しろ』だけ。その反発もあって勉強以外のことに打ち込んでいたのでしょうね」
東京大学を卒業した父に対して、鈴木は勉強が嫌いで、辛うじてテスト前だけ猛勉強。そんなつめこみで、私立の有名進学校に合格はしたが、結局は制服が嫌で共学・私服の普通公立高校に進んだ口だ。大学は、死にものぐるいの勉強で早稲田へ進むことになったが、「告白してフラれた野球部のマネージャーを見返したい。たったそれだけの動機でしたから…」と笑う。
しかし、その集中力に目を見張る人は多いだろう。スポーツも勉学も、目標を見据えれば、そこへ真っすぐに全力で向かおうとする。反発していた父の口癖の『努力しろ』は、しっかりと鈴木に行動の中に見て取れるだろう。意識的かどうかは別にして、子は父の教えをしっかりと体現していた。それどころか、努力することを楽しんでいたのではないかとさえ思えるほどだ。

遊びの中から様々なことを学んだ自由人時代

オールラウンドサークルに所属した早稲田時代。大勢の女性たちを集めては、日頃の飲み会にはじまり、夏は沖縄でのマリンスポーツ、冬は北国でのスノーボードと、とにかく遊びまわっていたという。その女性メンバー集め、とりわけ連絡先情報の収集作業などは後の営業や対人コミュニケーションの原体験になったのかもしれない。
ちなみに生活費は、麻雀好きが高じてはじめた雀荘でのアルバイトでまかなっていた。訪れた客と対戦し、その勝敗でのあがりが収入に直結する完全出来高制。大きな波があるものの、コンスタントに日額6,000円程度は稼いだ。これが、鈴木の勝負勘に繋がっていったのかもしれない。
あるとき、大学の交換留学で韓国へ渡ったことがきっかけで、今度はバックパック旅行に取り憑かれた。インドでは、貧しさから両親に腕を切り落とされた子供たちが大勢いることを知った。貧困によって腕がなくならならずに済むように。そこでは地域経済ついて考える一方、初めて人のためになる仕事をしたいと思ったという。また南のある島では、青い空と澄んだ海、ごきげんな音楽と美味い食べ物、そして陽気に笑う現地の人たちに歓迎された。そのことも、後に店を開く上で大きなヒントを得たに違いない。
そんな5年間の大学時代を経て、鈴木は(株)リクルートエージェントに就職した。しかし自由を謳歌した人間にとって、「スーツや電車、朝の起床、もうサラリーマン生活はすべてが面倒で、もう初日で辞めたくなりましたっ!」。とたんに後悔に見舞われたのである。

ついに定めた「リゾートオーナー」という目標。

リクルートエージェントでの営業を続けながら、鈴木のモチベーションは下がる一方だった。そんな時、高校時代に古着屋をやりたかった自分をふと思い出した。単なる、自分の城、的なものへの憧れだったという。社会人2年目。今度は南国ビーチリゾートのオーナーになろうと思った。今度は、旅、青い海、白い砂、裸足、海パンの生活、仲間の笑顔、音楽、美味しい食事、美味しいお酒。全てを集めた集合体、自分と仲間達が一番笑える場所を自分で作ろうと決めたのだった。
目標を見定めると行動は早い。ゴールデンウイークを利用し、鈴木は沖縄に向かった。高橋歩氏が営む『ビーチロックカフェ』を視察するためだ。そこで、バーテンダーとして無給で働いた。美味い食事に心地いいライブ演奏。自分が構想していたが、すでに形になっていた。しかし形や趣向だけではない。高橋氏のビジネスの感覚や手腕に感嘆した。
ビジネス感覚を磨く必要性に駆られ、会社に戻ると第二新卒者のキャリアアドバイザーとして一念発起。求職者の相談に乗り、企業担当者に売り込みのプレゼンをかけ、昼夜を問わず働いた。やる気・成績の振るわなかったあの鈴木が一転、部門最年少25歳にしてキャリアアドバイザーとして最も重視される業績指標3つを同時に3冠という形で達成を遂げたのだ。柔道や野球に打ち込んだ少年のような顔をしていたのであろう。
その後、フィジーの留学会社SouthPacificFreeBirdに、年収3分の1以下で転職し、フィジー共和国の現地法人学校責任者として仕事に打ち込んだ。2年半で本社取締役にまで昇進し、売上は5倍にまで成長させた。ベンチャー企業経営の経験を積む傍ら、インド人家庭に住み、カレー料理の技法も習得したのだった。

転職相談のできるBAR「Dining DJ Cafe とこなつ家」を起業

リゾートを成功させるには、まずは日本で一番競争が激しい東京都でBARを開業してさせること。2010年10月鈴木は開業した。手持ち資金は100万円。
飲食業は全くの未経験ということで銀行、金融機関からの融資も断られ、友人たちの助けでなんとか開業したが、開業時の手持ち運転資金は8万円。開業初月から即黒字を出さなければ即倒産だ。
だが、鈴木には確かな自信と勝算があった。
ゆっくりと時間が流れる南国テイストの演出。心地いい音楽や心弾むDJ。美味い酒と料理。そして異色の、店主 鈴木による転職相談。「自分のしたいことすべてを取り入れたら、必然的にこうなりました(笑)」。
フィジーで出会った銀座出身のバーテンダー経験13年の相棒、小澤と二人三脚でがむしゃらに働き、創業以来20ヶ月連続で黒字を達成。年間数百人の転職、就職相談希望者が訪れ続け、現在では従業員数8名を抱えるまでに成長させた。

鈴木にしかできない自由で新しいこと

人材ビジネス、留学業、飲食業。一見して支離滅裂なキャリアだが、「若者を元気にしたい」という想いの元仕事をすることが鈴木の仕事選びの軸だという。
鈴木は多店舗展開や、上場には現時点では全く興味がない。こだわるのは、売上高ではなく、従業員の平均給与高、雇用の満足度。社員やアルバイトを安い時給で激務の仕事で雇用し、経営者が吸い上げ退職者を数多く出す現在の飲食業界に多く見られるシステム強い違和感を持っているからだ。
料理人やバーテンダーが、スーツを着たホワイトカラーの仕事をするサラリーマンたちよりも高給与を稼ぎ、自分の将来に夢を持てるようにするのが人材ビジネス出身の鈴木の目標だ。だから、従業員の週休2日取得、利益が出た際の分配には徹底的にこだわる。
飲食業で仕事をする人が、他の仕事をする人からもっと尊敬され、羨ましがる世の中にしたい。そうすれば各社、採用に困る事もない。もっとやる気のある優秀な人材が飲食業界への就労を希望し、業界全体の発展があるはず。
日本の飲食業のレベルは世界一、衰退していく日本経済の産業で、もっとも世界進出のポテンシャルを秘めているのは飲食業だ。と25カ国に住み、旅をしてきた鈴木は語る。
独立してから、人材ビジネス関連の仕事のオファーも各社から多く、もうひとつの夢ができた。 好きなクライアントの、好きな仕事、好きな金額。全ての「好き」が揃った時にだけ力添えをするコンサルタントだ。
オファー金額は自分から提示せず、相手に任せるスタンス。大切なのは金額ではない。クライアントがどれだけ自分を必要としてくれるか?どれだけクライアントの信念を意気に感じるか?だ。
例えば前田慶次。雲のように自由にさすらい、義のために獅子奮迅と戦う。最強の「助っ人」武将の生き様に憧れるという。
31歳、起業2年目。鈴木にとっては現在はまだまだ通過点に過ぎない。夢はあくまでも「南国リゾ−トのオーナー」であり、「最強の助っ人」だ。 鈴木の「自由」への挑戦はまだ始まったばかりだ。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
2009年 愛娘とフィジーの海 2010年4月 SPFB社退職 卒業式 2011年 内定の決まった大学生さんたちと
 
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