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第309回 株式会社コロワイド東日本 代表取締役社長 五十嵐茂樹氏
update 12/08/28
株式会社コロワイド東日本
五十嵐茂樹氏
株式会社コロワイド東日本 代表取締役社長 五十嵐茂樹氏
生年月日 1954年10月
プロフィール 福井県生まれ。大学を卒業後、1980年から株式会社ロイヤルにて店長・エリアマネージャー・営業部長などを歴任、その後1994年からは株式会社アレフで「びっくりドンキー」の全国展開を指揮する。2002年には株式会社五十嵐マネジメント・サポートを立ち上げ、多数の企業再生を手がける。 2005年に株式会社ジャパンフードシステムズの代表取締役社長としてタパス&タパスの再生を図り、2008年に現職の株式会社コロワイド東日本の代表取締役社長に就任。収支構造改革と人材育成による強固な組織づくりに取り組む、飲食チェーン経営の達人だ。
主な業態 「甘太郎」「NIJYU-MARU」「北海道」「いろはにほへと」「ラ パウザ」など
企業HP http://www.colowide.co.jp/
オフィシャルサイト http://www.igarashi-ms.co.jp/

明治生まれの厳格な父

五十嵐社長は四人兄弟の末っ子として生まれる。上の三人とは年齢も大きく離れていたが、明治生まれの厳格な父のもとで、甘やかされることも一切なかった。
さらに正確さと安全が求められる鉄道会社に勤務していたこともあり、父の厳しさはひときわ徹底したものだったという。父より先に風呂に入るなどは論外。また、正直であれ、親切であれという言いつけを破れば、朝まで冷たい蔵に閉じ込められることもあったほどだ。
しかし、自分がやりたいと思ったことに夢中になることは、なにも口を挟まなかったという。中学時代の五十嵐はブラスバンド部での活動に明け暮れ、高校に進むとバンドを組んだ。厳しい家庭から少しでも逃れようと、朝早く家をでて夜遅くまで音楽に没頭していた。
後に大学でバンド活動に明け暮れる頃には、五十嵐の髪は腰に届く長さになる。周りの大人たちからは白い目を向けられたが、それでも父から咎められることはなかった。親の考えや夢を我が子におしつけない。そんな父を、やがて五十嵐は尊敬するようになった。

音楽に明け暮れた大学時代と未来の模索。

当時、福井の進学希望者の8割は、高校を出ると大阪や京都など関西圏の大学に進学していた。しかし福井から関西へは、電車でせいぜい2時間から3時間程度の距離でしかない。五十嵐は、厳しく息苦しい実家から少しでも離れたい一心で、東京の大学へ進学する。
見るもの聞くもの、すべてが珍しい新天地でも、相変わらず音楽には情熱を傾けた。大学の軽音サークルに身を置き、仲間のバックで来る日も来る日もドラムを打ち鳴らしていた。音楽でプロをめざす気持ちはなかったが、ほかに打ち込むものも見当たらなかった。
やがて多くの学生たちがそうであるように、五十嵐もまた、自分が何をしたいのかが定まらないまま就職活動に突入する。これなら誰にも負けないといったものがあるわけではなかった。確固とした事実としてあるのは、10年間音楽に打ち込んだ。恐らくそれくらいだろう。どこにでもいる若者だった。
辛うじて内定を得たのが、小さな商社だ。せっかくなので働きはじめたが、あまり仕事を好きにはなれなかった。それがなぜかもわからない。結局、向いていなかったということに尽きるだろう。そんな五十嵐に刺激を与えるためだろうか、会社から大阪への異動命令が下された。そして、それが五十嵐のその後を決める大きな転機となるのだ。
当時は流通革命という事象が起こり、ダイエーをはじめジャスコ、イトーヨーカドーなどのスーパー業態が、すでに食料品や日用品を全国の店舗で安価に提供するというネットワークを築き上げていた。これと同様のことが飲食・外食をはじめ様々な分野でもはじまっていた。
商社マンとして勤務していた五十嵐は、チェーンストア時代の幕開けに触発された。新しい時代が幕開けし、今までにないとんでもないことがはじまりそうな予感に胸のときめきを抑えられずにいた。

外食産業のチェーンストア化で大衆を豊かに

時を同じくして、経済紙が初めて『外食産業』という言葉を使った。これが大号令であった。まだまだ家族で外食するのが珍しい時代に、チェーン店化の構築で北海道から九州・沖縄まで同じメニューを同じ価格で気軽に提供するという、新しい指針が打ち出されたのだ。
五十嵐は、飲食・外食の道で突き進むことを決心する。チェーンストアで、これから一般大衆を豊かにする、自分も加担しながらそういう時代にしていく。そんなビジョンが明確に見えた。
ロイヤル株式会社に入社すると、これまでとは違って取り憑かれたように働いた。店舗では約二年間、研修生という肩書きで、接客サービスやアルバイト教育、各種管理を徹底的に叩き込まれた。次第に店長、エリアマネージャー、統括マネージャーと、どんどん役職もあがっていく。配属店舗や管理エリアも関東や九州など広域にわたった。
やがて機会を得て、年に2度3度と渡米し勉強できたことも身になったという。チェーンストアで先行するアメリカの企業を姿に、改めて日本の未来を知ることができた。すでにロイヤルの店舗は年を重ねるごとに増え、外食チェーンストアが日に日に形を成していく。入社から15年。娯楽の少ない地方で生まれ育った五十嵐自身が一般大衆の代表的存在だったが、外食の創業期・成長期を駆け抜けながら、自分と同じ大衆の人々がどんどん豊かになっていくことを実感できた。五十嵐は静かに笑顔を浮かべた。

新たなラブコールとステップアップ。

五十嵐のロイヤル社での活躍に目に留め、ラブコールを贈ったのが某ハンバーグレストランである。以前とは違って、まだ規模も組織も小さい。だからこそ、独特の店舗の作りと商品以外は、すべてを任せてもらった。それが魅力的だった。
五十嵐は妻子を置き、本部のある北海道へ単身で乗り込んだ。毎日のように店舗を巡回し、全国をまわる。「バスを乗り継ぐように飛行機を乗り継ぎ、必需品をまとめた鞄を抱えて街から街をまわり、まさにジプシーのような生活でした」と笑う。なんとか期待に応えたい一心だったのであろう。
当初、50店舗にも満たなかった店舗にFCシステムを導入するなど、店舗は急拡大していく。しかし店舗を増やすだけでは、チェーンブランドとはならない。そこに携わる人の教育が肝心なのだ。候補地をまわり、出店した店舗には人材育成を説いてまわる。知名度ゼロの地域に根ざし支持されるように、そんな地道な努力で少しずつでも確実に成長させていった。
入社から10年。お遍路さんのような五十嵐の歩みによって、このハンバーグレストランは47全都道府県を制覇し、店舗数は300に達した。自力でやり遂げた充実感に酔う五十嵐と、その労をねぎらう庄司社長。二人の間には、固い絆が生まれた。

社長としての活動。

それ以降、ある時期から芽生えた夢である『社長』という立場となり、様々なオファーに応えている。ご存知のとおり、現在は株式会社コロワイド東日本の社長に就任している。
創業社長は、その個性から独自性を持っているものだ。現在の五十嵐は、その独自性をより大きくすること。そして、そこに携わる人をつくり育成することが自分の役割だと考える。
五十嵐自身はなにも言わない。しかしそれは、きっとこの飲食・外食業界で育ってきたことに対するご恩返しという意味合いもあるのだろう。
人生の主役は自分であり、人生は一回に限られたもの。「飲食・外食に携わる人たちには、我が店、我が仕事、我が人生と思ってほしい。そして自ら考え、行動してほしい」と伝えるようにしているそうだ。その根底に流れる、食を通してより多くの人々を豊かにしたいという若き日の思いは、今も少しも変わらない。

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