SERVERS株式会社 代表取締役 中田琢也氏 | |
生年月日 | 1965年 |
プロフィール | 静岡県磐田市に生まれる。大学を3年で中退し、1987年大手カラオケチェーン店に入社。1997年株式会社コスモ通商(現:株式会社バグース)入社。ビリヤードの人気再燃のきざしをいち早く捉え、ビリヤード&ダーツの「バグース」を出店し、エンターティナー&アミューズメント事業を推進。2006年に専務取締役、2008年に代表取締役に就任。株式会社ダイヤモンドダイニングに事業譲渡したのちも社長を務めたが、2012年5月を持って退任。同時にSERVERS株式会社を設立。代表取締役に就任する。 |
主な業態 | 「石鍋 のぐち」「串揚げ のぐち」「串揚げ 莫莫」など |
企業HP | http://www.servers.co.jp/ |
静岡県磐田市は、静岡県の西部の都市で、かつては遠江国(とおとうみのくに)と呼ばれていたそうだ。いまではJリーグのジュビロ磐田の本拠地として知られている。中田が磐田市に生まれたのは1965年。日本が高度経済成長に足をかけた頃だろうか。
小学生の中田は、どちらかと言えば平凡で大人しいタイプだった。「リーダーシップというのに興味がなかった」と本人も言っている。エンターティナー、もしくはアミューズメントの分野を切り開いてきた、いまの中田からはいささか想像しにくい話である。そんな風に思いながら、人生の分岐点は?という質問を投げかけてみた。すると話は、大学時代まで一足飛びに進んだ。
「学生時代にゲーム機メーカーのタイトーさんが経営するプールバーでアルバイトを始めたんです。アルバイトなんですが店長を任され、のめり込んでいくんですね。年配の人たちにビリヤードを教えて贔屓にしていただいたりして。業績がアップすると評価され、ますます楽しくなっていきました。いま思えば、これが私の、アミューズメント人生の始まりなんです」。
「アルバイトに精を出し過ぎて、大学は中退です(笑)。大学を辞めて、とあるビリヤード店に入社しました。しかし、一時のように勢いがありません。ブームに陰りがさしていました。結局、その会社を1年ぐらいで退職します。その後、ある大手カラオケチェーン店に入社しました。大手と言っても、当時はまだ東京に1店舗しかなかったんですが…」。
ビリヤードと違ってカラオケには興味がなかった。「生活のため」というのが本音らしい。ともかく、ブームが下火となったビリヤードからカラオケに主軸を移すことになる。
中田は、東京2号店である赤羽店に配属され、立ち上げに参加した。肩書は主任。店長の補佐が仕事である。しかし、補佐すべき店長がスグにいなくなってしまった。中田がやるしかない。
「大学時代にアルバイト店長をしていましたが、マネジメントをちゃんと教わったことがない。だから、ある意味、自己流です。それ以降も、つねに先頭で走ってきましたから、いわば、この自己流のマネジメントを貫いてきたことになります。その自己流のマネジメントの基礎をつくったのが、この時期なんです」。
店長が不在となり、経験も浅いなか店の指揮を執ることになる。しかも立ち上げ。相当苦労もし、辛酸も舐めたことだろう。若者の気負いと現実はかみ合ったのだろうか。
「部屋数は20です。90坪で家賃は90万円、人件費100万円。それで月商は…」。
カラオケもいままでに何度かブームになった。中田が23歳といえば、1988年。バブルに踊る準備をみんなが初めていた時だ。カラオケがブームになり、カラオケ店は軒並みにぎわった。
「それで月商は、1400万円。利益は6割ぐらいになったんじゃないでしょうか」。
まだ競合店がそれほどなかったのも、功を奏した。
2号店の成功を受け、渋谷に3号店がオープンする。2号店で実績を残した中田に、店長のオファーがくるかもしれない。本人もそう思っていたそうだ。
「しかし、私じゃなかったんです」。
中田は肩を落とした。上昇志向が旺盛というタイプではないが、それだけの評価はされていると思っていたからだ。しかも、渋谷の3号店は、同社にとって最大の店舗である。だから尚更「オレがやらねば、誰がやるんだ」という思いがあったのではないだろうか。
この思いが通じたわけではないが、オープンして1年後、中田の出番が回ってきた。
「オープンから1年。まったく店がまわらなくなっていたんです。40室で、月商は3000万円。お客さまは入っていたんですが、オペレーションがうまくいかない。私は、立て直しを命じられ店に入ったのですが、スタッフをみて、これはダメだと思いました」。
アルバイトが素直にいうことを聞かない。ゴミだめのような店内。トイレや洗面所はまだ1年なのに水垢だらけ。厨房に入れば、アルバイトが持ち込んだラジカセからガンガン音楽が流れていた。やりたい放題。マネジメントができていないと店はこうなる、というお手本だった。
1人1人と面談した。残念だが、いったんそうなると方針も、指針も理解しようとしない。総入れ替えせざるをえなかった。いちからスタッフの採用と育成を行うしかなかった。だが、心をオニにした分、結果がでるのも早かった。3〜4ヵ月で、ひと目で違いが分かるようになり、半年経った時点では、完全に別の店になった。
業績も当然、アップする。月商が3000万円から3500万円に、そして4000万円になった。まだまだ確信もないままだった2号店とは異なり、こちらは問題山積みの店舗を、狙い通りに再生することができた。人を動かすマネジメントの難しさと楽しさも味わったことだろう。その結果、2号店とは違った意味で、大きな自信を手に入れることができた。こののち中田は、部長、事業本部長と昇進し、8年半の間になんと30店舗のカラオケ店を立ち上げることになる。20代はあっという間に過ぎ、中田は、30歳になっていた。
「いい意味でワンマンなオーナーでした。事業本部長となって、もう、その会社ではスキルアップができません。その現実にぶつかった時、もう1回、ゼロからチャレンジしたいという気持ちが抑えられなくなったんです」。事業本部長。すでに給与は1000万円を軽く超えていた。それでも中田は、再度、ゼロからのチャレンジを選択する。
中田はどこかで、安寧な日々を拒否し、より刺激的でチャレンジングな日々を望むタイプになっていたのかもしれない。大人しかったはずの少年の姿はもうどこにもなかった。
その後、あるパチンコの事業会社を経て、株式会社コスモ通商(現バグース)に転職する。
「当時、創業者は59歳です。もともとコスモ通商は、茨城県日立市にあるカラオケのチェーン店です。同社が東京進出を模索されていた時にお会いしたんです。創業者が『いっしょにやって欲しい』と言ってくださって。それで私のコスモ通商、正確にはバグース時代がスタートするんです」。
給与は1/2に減った。それでも、いいと思った。これが戦士の決断というものなのだろう。
だが、そうまでして、入社した会社である。東京への進出というミッションも、口でいうほど簡単ではない。果たして、中田の選択は正しかったと言えるようになるのだろうか。
「いままでのノウハウを活かせるところを探していたんです。だから、コスモ通商の転職は間違いではなかったんですが、配属が支配人の下だったんですね。それではなかなか思うようにできない。一方で、もうカラオケの時代は終わりだと思っていました。つまり、地域一番店になるのは難しいだろうと。その時、改めてビリヤードに目を向けたんです」。
ビリヤードといえば、もともと中田のアミューズメント人生の出発点でもある。すでに全盛期と比較すると店舗も1/20まで減っていた。だが、それもあって客入りは悪くなかった。それどころか、平日でも客で一杯、そんな状態になっていたそうだ。ブームが再燃する、と確信した。
渋谷に230坪、総額1億9000万円の費用をかけ、バグース1号店を出店した。
「女性客も入りやすいように心がけ、トイレもつねに清潔に、食事もしっかりとしたものをお出しできるようにしました」。温めていたプランを実現する。
しかし、なかなか思い通りにいかない。
「だいたい月商2000万円をイメージしていたんです。ところが、1ヵ月目が1000万円、2ヵ月目で1200万円、3ヵ月目でも1400万円です。ビルの7Fで、サイン(看板)も出せなかったから認知されるのに時間がかかると思っていたんですが、それでも…」。
予想もしていなかった展開となる。
オープンから1日も休まなかった。というより休めなかった。シミュレーションと比較し、あまりに乖離した売上数字。たしかに月を追うごとに右肩上がりにはなっていたが、それでもまだ赤字を抜け切れていなかった。ポケットにはつねに辞表を忍ばせていた。1億9000万円。初期投資の額が重荷となる。
5ヵ月。当初予定していた2000万円の大台に乗るのに、かかった月数だ。中田には気が遠くなるような5ヵ月ではなかったか。いったん、大台に乗ると弾みがついた。2000万円からみるみる離れ、結局、3000万円ちかい数字を叩き出すモンスター店舗になる。
新宿に170坪の2号店を出店、東松山に3号店を出店する。オフィスの機能もわけ、日立の本社は財務を中心に、東京には東京事業本部を開設し、運営・企画に専念するようになった。責任者はむろん中田だ。中田は「バグース」を中心にエンターティナー&アミューズメント事業を推進する。
出店も相次ぎ、60店舗まで広がった。2006年には専務取締役に就任し、2008年には代表取締役に就任する。社名も、株式会社コスモ通商から現在の株式会社バグースにかわっている。
ちなみに中田が入社した時の売上高はまだ11億円に過ぎなかった。その売上高を10年あまりの間に89億円まで拡大したのは中田の業績だろう。
このバグースは、2011年、株式会社ダイヤモンドダイニングとの協議の末、同社へ事業譲渡される。創業者の年齢も70歳を超えていたからだ。
事業譲渡により、バグースの株式すべてが株式会社ダイヤモンドダイニングに取得されたのは2011年5月。翌年5月を持って、中田はバグースを去る。といっても、退任させられたわけではない。「もう、私も47歳。独立するならいましかない、とわがままを聞いていただきました」。いままでナンバー2として、創業オーナーに仕えてきた中田がはじめてトップに立つ決断をした。設立した会社は、SERVERS(サーバーズ)という名前だった。
「サービス、料理、エンターテインメント、いずれにおいてもホンモノを追及する質の高い事業を展開していきたいと思っています」と抱負を語る。
すでに、ある企業から事業譲渡を受け、飲食店とシミュレーションゴルフの店舗を計5店舗展開。飲食店では「石鍋 のぐち」「串揚げ のぐち」や大阪串かつ「莫莫」などを出店し、特に、串揚げ業態が好調だという。六本木にさらに新業態店舗を出す計画も進み、海外展開のためにシンガポールに会社も設立した。新業態の開発も積極的に行っている。
改めて、整理するとそのスピードに脅かされるが、中田を良く知る者にとってはあたりまえに映るかもしれない。むしろ、いままでナンバー2というポジションでいたことのほうが不思議という人もいるだろう。
「独立して成功するのは40代がいちばん多いんです。私も駆け込みですが40代で起業することができました(笑)」。まだまだ駆け出し経営者である。だが、その経営ノウハウは、ベテラン経営者をもしのいでいる。
最後に人材についても伺った。
「料理は経験値がいるが、それ以外であれば、むしろ経験のない若い人を採用していくほうがいいと思っています。私がアルバイトで店長を任されたように積極的にポストも与えていくつもりです。条件は、正直な人ですね。言い方を替えれば、ずるくない人。まだまだこれからの会社ですから、たいへんな時もある。でも、そういうたいへんな時が人を育てると思うんです。その試練に出会ったとき、誤魔化さないで真正面から立ち向かえば、大きな財産が生まれるはず。そういう経験をしてもらいたいと思っています」。
中田がいうように、SERVERSは、まだまだスタートしたばかりだ。だが、スタッフの目線に立てば、いまがいちばんヤリガイの大きな時かもしれない。
「覚悟」。人生でも仕事でもとても必要なワードである。最善を尽くしダメなら方向性を一緒に考える。中田と共にハイクオリティな、アミューズメント&飲食事業を推進する参加者をいま、積極募集している。
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